浅間縄文ミュージアム

20180708

所在地: 長野県北佐久郡御代田町御代田
訪問日:2018年6月19日

この日、佐久市にある両親の墓参りのあと、佐久穂町まで行って「北沢大石棒」を見て、それから御代田に移動し、ここを訪問した。

少し前にポスターを入手し、楽しみにしていた。
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浅間縄文ミュージアム入り口
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浅間縄文ミュージアムは、今から13000年前から2500年前までの約1万年間続いた狩猟採集の時代“縄文時代”を展示テーマとし、その衣食住を再現している。
特別展示室では、国重要文化財“川原田遺跡の中期縄文土器”と石器を展示している。

町の役場と同居していて、半分くらいがミュージアムとなっている。
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入り口のところにあった、「じょうもんのこだま」というオブジェ。
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その近く、建物のホールには黒曜石に触れるようになっていた。
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入場券は、栞になっていて、案内リーフレットも切り口の違うものが色々と用意されていてサービス満点。
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展示室の入り口に、ドラムに使っていたのではないかという土器の模造品が置かれていて、たたくことが出来る。
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たくさんの展示がされていたが、その中から特に印象に残ったものを紹介します。

縄文土器を作る女性たちの、縄文土器作りをジオラマで復元してある。
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この地方独特の軽石を使った道具。
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耳飾り
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埼玉県でも、非常に緻密に彫られた木製の耳飾りも多数出土していて、各地で耳飾りの出土は豊富だ。
天照大御神の子の「天之忍穂耳命」に代表される「耳」が名前に入っている神が多い時期があり、それは谷川健一氏によれば、大きな耳輪をつける習俗のある南方種族と結びついた証だそうだ。

特別展示室には、国重要文化財“焼町土器”100点が並んでいる。
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「焼町土器」と言う名称は、塩尻市焼町遺跡で最初に発見されたのでこの名がついていて、浅間山麓を中心に、県内では松本・諏訪・伊那、他県では群馬・新潟・栃木まで分布しているそうだ。
ここに展示されているのは、御代田町の「川原田遺跡」から出土したもの。

ドーナツ状の突起、渦を巻く曲線、曲線の中をうめる点が特徴。
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模様を展開して見ると「踊る人体紋」と呼ばれる文様。
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「あくびちゃん」というニックネームがついた「顔面付釣手土器」
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中にトチノミが入っていたという「深鉢形土器」
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顔面把手残欠をもとに再現した土器
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尖底土器群
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蛇体把手
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二階ロビーから、メルシャン美術館跡に建てられた町庁舎越しに浅間山を見られる。
手前の装置は、浅間山火口の様子を映している。
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二階では、世界的な活火山である浅間山の火山活動史、四季の浅間の風景、浅間山の構造、浅間山の火口のようす、浅間山麓の植物の展示をおこなっている。

江戸時代天明の大噴火を描いたもの。
 天明3年(1783年)、4月から7月初旬(旧暦)まで断続的に活動を続けていた浅間山は、7月8日(旧暦)に大噴火を起こしました。このとき発生した火砕流に嬬恋村(旧鎌原村)では一村152戸が飲み込まれて483名が死亡したほか、群馬県下で1,400名を超す犠牲者を出しました。
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天明3年の浅間山噴火は直後に吾妻川水害を発生させ、さらには3年後の天明6年に利根川流域全体に洪水を引き起こしました。
この浅間山噴火による利根川の河床上昇は各地での水害激化の要因となり、利根川治水に重要な影響を及ぼすことになりました。
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浅間山の噴火により大量の溶岩と火山灰が噴出し、溶岩流は北側の吾妻川流域へ火砕流となり山腹を流下しました。流下した溶岩は三派に分かれ、一派は東方の分去り茶屋に、もう一派は西方の大笹方面に、残りの一派は他の二派の中央を真直ぐ北流しました。流下した溶岩は、大きな火砕流となって山腹を走り、分去り茶屋に向かったものは、小熊沢川と赤川に流れ込み、旧小宿村・常林寺を経て芦生田集落を埋没させました。また、大笹方面に流下したものは、大前で吾妻川に流れ込みました。そして中央を北流したものは、旧鎌原村を直撃し一村を壊滅させた上で、現在のJR吾妻線万座・鹿沢口駅東側で吾妻川に流下しました。この中央に流下した火砕流が最大のもので、「鎌原火砕流」と呼ばれ、その流下量は1億m3とも推定されています。
浅間山噴火による火砕流の流下により旧鎌原村では一村約100戸が呑まれ、483名が死亡したほか、長野原210名、川島128名、南牧104名など多くの犠牲者を出しました。
また、浅間山噴火は大量の火山灰を広範囲に堆積させました。火山灰は主に東流し、遠くは江戸、銚子にまで達し、特に碓氷峠から倉賀野、新町の間は田畑全て降灰し、その形状すら判別できない状況であったといいます。各地の被害を合わせると、降灰の重みだけで70軒が潰れ、65軒が大破しました。ほぼ関東一円に堆積した火山灰は、農作物の生育にも影響を及ぼし、既に始まっていた天明の大飢饉に拍車をかけ、天明飢饉の進行に決定的役割を持つこととなりました。また、大量に堆積した火山灰は、利根川本川に大量の土砂を流出させた天明3年の水害とともに、天明6年の水害といった二次、三次被害を引き起こす要因ともなりました。

埼玉県狭山市でも、天明4年から6年にかけての石仏が非常に多く、深刻な被害が現狭山市の辺でもあったことがわかります。

ここの縄文土器に関しての特徴がよくわかり、満足して見学を終え、
いつも必ず寄る、「ツルヤ軽井沢店」でいろいろ買い物をして帰途につきました。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

火砕流と言えば、雲仙のが有名ですが、浅間山もあったのですね。また、泥流もですか! 今回の広島を中心とした大洪水・山崩れもそうですが、自然災害は恐ろしいですね! ともかく、一瞬にして命が失われ、助かっても財産が失われるのですから。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
今は科学が発達して、自然災害とか噴火とかを
冷静にとらえられますが、昔は天変地異は
何かの祟りだと考えたので、より一層の
恐れがあったと思います。
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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