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加藤清正/日本の神々の話

20180903

9月に九州に旅行した時、熊本城復興の様子を確認したいと寄った時、加藤神社に参拝しその立派さから、熊本ではやはり加藤清正は神様なのだなと思った。

加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。熊本などでは現代でも清正公さん(せいしょうこうさん、せいしょこさん)と呼ばれて親しまれている(清正公信仰)。
豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。

羽柴秀吉の生母である大政所と母が従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であった縁から、天正元年(1573年)、近江長浜城主となったばかりの秀吉に小姓として仕え、天正4年(1576年)に170石を与えられた。清正は秀吉の親戚として将来を期待され、秀吉に可愛がられた。これに清正も応え忠義を生涯尽くし続けた。

天正10年(1582年)、本能寺の変が起こると、清正は秀吉に従って山崎の戦いに参加した。翌年の賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられた。

天正14年(1586年)からは秀吉の九州平定に従い、肥後国領主となった佐々成政が失政により改易されると、これに替わって肥後北半国19万5,000石を与えられ、隈本城に入り、後の天正19年(1591年)頃よりこれに大規模な改修を加えて熊本城とした。

文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵した。
この時、加藤清正らは朝鮮の国境である豆満江を越えて、満洲のオランカイ(兀良哈)へ進攻するなど戦では非常に功績を挙げたが、小西行長や石田三成と策戦が一致せず、苦労した。
一時は京に戻され謹慎させられた程。
詳しくはWIKIPEDIAなどを見てください。

なお、朝鮮出兵中に虎退治をしたという伝承(本来は黒田長政とその家臣の逸話であるが、後世に清正の逸話にすりかえられている)が残り、そこから虎拳という遊びの元になった。

慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、五大老の徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶った。慶長4年(1599年)3月28日に前田利家が死去すると、福島正則や浅野幸長ら七将の一人として石田三成暗殺未遂事件を起こし、これに失敗するとさらに家康への接近を強めた。

ところが、島津氏の重臣である伊集院氏が主家に反旗を翻した庄内の乱において、清正が反乱を起こした伊集院忠真を支援していたことが発覚した。庄内の乱は家康が五大老として事態の収拾を図っていた案件であり、清正の行動は家康からすれば重大な背信行為であった。家康は清正に事実上の謹慎をさせた。

関ヶ原の戦い当初は家康と疎遠となった清正が西軍につくことも想定され、家康は清正の東軍加勢を認め、清正家臣らも黒田軍とともに出陣、小西行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを開城、調略し、九州の西軍勢力を次々と破った。戦後の論功行賞で、小西旧領の肥後南半を与えられ、52万石の大名となった。

慶長16年(1611年)3月には二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋した。しかし、ここで重要なのは清正は秀頼の護衛役ではなく、既に次女・八十姫との婚約が成立していた家康の十男・徳川頼宣の護衛役であり、徳川氏の家臣として会見に臨んだことである。その一方で、清正は頼宣とともに秀頼の豊国神社の参詣、鳥羽までの見送りに随行しており、家康としても徳川・豊臣の和解のために清正の役割に期待する側面もあったとみられる。
帰国途中の船内で発病し(後述)、6月24日に熊本で死去した。享年50(満49歳没)。

墓所は熊本市西区花園の発星山本妙寺の浄池廟、また山形県鶴岡市丸岡の金峰山天澤寺。さらに東京都港区白金台の最正山覚林寺(清正公)に位牌がある。
東京都大田区の長栄山大国院本門寺(池上本門寺)に供養塔。
奉斎神社は熊本市本丸鎮座の加藤神社。

私は下記に参拝している。
東京都港区白金台の最正山覚林寺(清正公)
熊本市本丸鎮座の加藤神社



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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

加藤清正ですか、確か、昔、熊本藩の中屋敷だった港区白金台の「覚林寺」は加藤清正の位牌や像が祭られているので、「清正公」と呼ばれていますね。「清正公さま」と言われているので、完全に信仰の対象ですね。

そう言えば、先日、国宝に関する本を読んだのですが、その中に、熊本城や松本城のように黒い城は秀吉派、白い城は家康派と言う説が書かれていました。ううん、その説が正しいとすると、清正は秀吉派と言うことになりますね。


matsumoさん

コメントありがとうございます。
加藤清正は、秀吉には最後まで逆らってません。
ただ、石田三成・秀頼・淀君とは別だった
ということですよね。
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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