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「東京150年」展/江戸東京博物館、東京都慰霊堂、復興記念館

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9月28日に、歴史クラブの「博物館に行こう」グループの企画で訪ねました。

両国駅から徒歩数分で、江戸東京博物館に到着。
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館内に入り、日本橋を渡って、企画展示室に向かいます。
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今回の目的は、企画展「東京150年」
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江戸から東京になった初期が面白かった。
それから発展を続けた東京の姿を順を追って見ていった。

そこから一部を紹介しておきます。

「江戸を東京と称す」詔書
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江戸遷都意見書
当時、大阪に遷都、名古屋に遷都、色々な主張があったようです。
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御東幸・御供奉御警衛附
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「天皇は東京に住まわれたのではなくて、東京にやってきて、帰るのが伸び伸びとなっている」という状態なんですね。

「外桜田門」/明治初期に横浜で発行された英字新聞に載っていたもの
維新後荒廃して、こういうところにも人が住み始めた。
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維新のころの「お茶の水から神田川をのぞむ」
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日清戦争の祝捷に沸く日本橋本町
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明治30年ころの「題経寺」
寅さんでお馴染みの、柴又帝釈天の門前。
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青梅から御岳山に向かう道/明治27年
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銀座通り(絵葉書)/明治40年代
左手の建物は、銀座のシンボル「服部時計店の時計塔」
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銀座散歩/昭和10年
銀座四丁目の交差点付近を行き交うモダンな男女。
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爆弾の穴 銀座五丁目角/昭和20年
時計塔の文字盤や地下鉄銀座駅の入り口が破損している。
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新宿駅から見た東口の様子/昭和20年
右手が伊勢丹、中央が三越。
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畑をたがやす女性(新橋・有楽町付近)/昭和20年
現在の日比谷通りから新橋駅の方面を写したもの。
人間はたくましい。
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ワシントン・ハイツ/昭和29年
東京オリンピックの決定で返還され、選手村となり、代々木公園となった。
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練馬・グランドハイツ/昭和29年
練馬区にあった成増飛行場が連合国軍家族宿舎となり、昭和48年に全面返還、光が丘団地が開発された。
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羽田空港/昭和31年
まだ、可愛い飛行場だった。
海には、海苔養殖の「ひび」が確認できる。
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霞ヶ関ビルの建築/昭和41年
私は当時学生だったが、この建物を見たときは感動した。
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霞ヶ関と東京タワー/昭和42年
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ビデオやスライドショーもあって、楽しく見た。
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常設展も見る予定だったが、企画展が面白く時間をかけたので、この日は常設展はカットしました。
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7階の「桜茶寮」で昼食・休憩してから、次に向かった。

【東京都慰霊堂】
東京都墨田区横網の横網町公園内にある慰霊施設。1930年(昭和5年)に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る震災記念堂(しんさい きねんどう)として創建され、1948年(昭和23年)より東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を合祀して、1951年(昭和26年)に現在の姿となった。東京都の施設であるが、仏教各宗により祭祀されている。
東京都慰霊堂がある横網町公園は元陸軍被服廠があった場所である。この地にあった被服廠は大正8年に赤羽に移転し、その後公園予定地として更地になり、被服廠(ひふくしょう)跡と呼ばれた[1]。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が起きると、この場所は多くの罹災者の避難場所になった。多くの家財道具が持ち込まれ、立錐の余地もないほどであったが、周囲からの火災が家財道具に燃え移り、また火災旋風が起こったため、この地だけで(推定)東京市全体の死亡者の半数以上の3万8000人程度が死亡したとされる。

本堂は伊東忠太設計によるもの。
伊東忠太は他に、築地本願寺、橿原神宮、平安神宮、弥彦神社、明治神宮、湯島聖堂、高麗神社(日高市)などを設計している。
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伊東忠太設計の特徴だが、こういう付属彫刻が面白い。
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関東大震災では、小田原や鎌倉も津波で大きな被害があった。
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堂内は荘厳な雰囲気。
いつ来ても、参拝者の姿が見られる。
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【東京都復興記念館】
東京都墨田区横網二丁目にある博物館で、管理運営は公益財団法人東京都慰霊協会が行っている。
もと陸軍被服廠のあった所で、東京市がこれを買い受けて1923年(大正12年)に横網町公園の造営整備に着手したとき、図らずも関東大震災が発生し、東京市の遭難死者は58,000人に上った。東京市は犠牲者の霊を追悼し、また不言の警告を将来に残そうと、被服廠跡に震災記念堂を建設し、災害に対する不断の準備とその予防知識を普及するため、附属施設として東京都復興記念館を建設した。
横網町公園は、1930年(昭和5年)9月1日、震災のメモリアルパークとして造られ、公園内の復興記念館は、1931年(昭和6年)8月18日に開館した。

この建物も、伊東忠太の設計。
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入口の上にも、伊東忠太特徴の彫刻が。
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関東大震災の際、宮城前広場には30万人ものひとが避難した。
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黒煙の中の日比谷交差点/関東大震災
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地震直後の銀座
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焼けた両国国技館/関東大震災
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炎上中の帝劇と警視庁/関東大震災
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北の玄関口上野駅が全焼し、田端駅が東北線の始発駅となった。
列車に鈴なりの避難民
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交番に伝言の貼り紙
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今年も、九州、広島、北海道で大きな自然災害がありました。
やはり、こういうものを見ると、それに対する備えの大切さが実感されました。



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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

明治初期の頃の風景写真を見ると、現在とのあまりに違いに驚きますよね。上記の写真ではお茶の水なんて、全くと言って良いほど、異なりますね。

それにしても、大地震は恐いですよね。建物が壊れるのは仕方がないと思いますが、火事が起きたらどうしょうもないですから。生きている内に経験しないことを願うだけですね。


matsumoさん

コメントありがとうございます。
最近の災害で、関東だけが無傷なのが、
逆に不気味に思えてなりません。
防災対策には心がけたほうが、いいですよね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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