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浅草名所七福神めぐり

20190114

今年も、歴史クラブ行事で7日に回りました。
今年は「武蔵野吉祥七福神めぐり」です。
コースは、銀座線稲荷駅⇒①矢先稲荷神社《福禄寿》⇒②浅草寺《大黒天》・③浅草神社《恵比須》⇒(昼食)⇒④待乳山聖天《毘沙門天》⇒⑤今戸神社《福禄寿》⇒⑥橋場不動尊《布袋尊》⇒⑦石浜神社《寿老神》⇒⑧吉原神社《弁財天》⇒⑨鷲神社《寿老人》⇒日比谷線入谷駅⇒帰途
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地下鉄銀座線の「稲荷町」駅から歩きはじめます。
矢先稲荷前の道はスカイツリーを見通せる道だった。
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【矢先稲荷神社《福禄寿》】
ご祭神:倉稲魂命
1642(寛永19)年12月23日に弓師備後は幕府から6200坪余りの土地を拝領し、当地に京都のそれを模して浅草三十三間堂を建立した。 当社はこの三十三間堂の鎮守として稲荷大明神を奉斎したのを創建とし、その神像は、寛永寺の天海僧正により寄進された。 京都三十三間堂にならい、堂の西縁を矢場とし、その北方に的場を設けた。
ところが1698(元禄11)年9月6日、世にいう「勅額火事」が起こり、当社は三十三間堂とともに焼失してしまう。
この後三十三間堂は深川への移転を命ぜられたが、当社は付近の町民の懇願により当地の産土神として残り、三十三間堂(弓矢の練成道場)の的場に隣接していたのにちなみ、矢先稲荷神社と称されるようになった。
1945(昭和20)年3月9日の空襲では神輿庫を残し焼失する。
戦後早々に仮殿にて復興後、1960(昭和35)年11月9日にはRC造の現社殿が再建された。
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《福禄寿》
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拝殿の天井絵馬がすごかった。
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和気清麻呂、坂上田村麻呂
神武天皇、神功皇后
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巴御前、畠山重忠
平貞盛、源頼光
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佐々木高綱、新田義貞
那須与一、源頼朝
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浅草寺に向かい河童橋の道具街を歩いていると、三河万歳ならぬ曲芸で新春を祝っていた。
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【浅草寺《大黒天》】
浅草寺は、影向堂内に大黒天が置かれていた。
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しかし、撮影禁止。

影向堂の前に色々な境内社が並んで居るが、その一つに「恵比須・大黒天堂」があり、その説明を読むと「七福神の神として信仰を集めている」とある。しかも弘法大師空海作と伝えられているとのこと。
こちらのほうが、よっぽどありがたい。
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細かな金網が張ってあり撮りにくく、その上風化が激しい。

大黒天
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恵比寿様
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【浅草神社《恵比須》】
ご祭神:土師真中知命、檜前浜成命、檜前武成命
続いて浅草神社回るが、すごい行列(汗)
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時間が無いので、行列に加わらず、外から参拝。
気持ち的には、さっき浅草寺境内「恵比須・大黒天堂」で恵比須様にお参りしたからいいかな、と。

ここで、参加者自由行動となり、昼食。
決めた時間に集合して、待乳山聖天に向かいます。

【待乳山聖天《毘沙門天》】
この寺は隅田川べりの小高い丘(待乳山)にあるが、この丘は595年(推古天皇3年)9月に出現して龍が守護したと伝えられ、浅草寺の山号(金龍山)の由来となったと伝えられる。601年(推古天皇9年)この地方が旱魃に見舞われたとき、歓喜天と十一面観音が安置されたと伝えられる。待乳山は、かつては周囲が見渡せる山であり、江戸時代には文人墨客がこの地を訪れている。例年1月に行われる「大根まつり」でも知られる。
待乳は、真土とも書き、この辺り一帯は泥海だったが、ここだけが真の土であったことを由来とする説がある。
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本堂
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当山の紋章には巾着と二股大根が組み合わされており、巾着は砂金袋のことで商売繁盛を、二股大根は無病息災、夫婦和合、子孫繁栄をそれぞれ意味している。

たくさんの大根が奉納されていた。
参拝が終わると、縁起物の大根を配布しており、有難くいただいた。
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毘沙門天は本堂の中に安置されていた。
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神楽殿では、お神楽が演奏されていた。
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【今戸神社《福禄寿》】
ご祭神:応神天皇、伊弉諾尊、伊弉冉尊
今戸神社は、康平6年(1063年)源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したのが始まりであるといわれている。また永保元年(1081年)にも清原武衡・家衡討伐の際に当地を通り、戦勝祈願をしたといわれている。大正12年(1923年)9月1日の関東大震災や太平洋戦争の際、米軍の爆撃機B-29が昭和20年(1945年)3月10日に焼夷弾を投下したり(東京大空襲)など数々の戦乱や火災に見舞われたが、その都度再建され、現在の社殿は1971年(昭和46年)に再建されたものである。1937年(昭和12年)には隣接していた白山神社を合祀し、今戸八幡と呼ばれていた当神社が現在の今戸神社と呼ばれるようになった。また現在では浅草七福神のひとつ福禄寿も祀っている。

近年になって招き猫発祥の地のひとつとして縁結びと結びつけ自ら名乗りをあげている。
武江年表嘉永5年の項の記述によれば、浅草花川戸に住んでいた老婆が貧しさゆえに愛猫を手放したが、夢枕にその猫が現れ、「自分の姿を人形にしたら福徳を授かる」と言ったので、その猫の姿の人形を今戸焼の焼き物にして浅草寺境内三社権現(現浅草神社(三社様)鳥居横で売ったところ、たちまち評判になったという。これが招き猫の発祥といわれている所以である。
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拝殿
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招き猫がすごい。
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《福禄寿》
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【橋場不動尊《布袋尊》】
天平宝字4(760)年、奈良東大寺建立に尽力のあった高僧良弁僧正の第一の高弟寂昇(じゃくしょう)上人によって開創されました。当初は法相(ほっそう)宗でしたが、長寛元(1163)年に時の住職教円(一説には長円)によって天台宗に宗派を改め、鎌倉以降は浅草寺の末寺となりましたが、現在は比叡山延暦寺の末寺となっています。
 江戸時代には、周辺の三条公、有馬候、池田備前候などをはじめとする武家の尊信をも集め、明治末年の大化、関東大震災、そして昭和20年3月の東京大空襲の際にも、不動院を中心とした橋場の一角だけは災禍をまぬがれたことから、霊験あらたかな橋場不動尊として現在でも広く庶民に尊信されています。
 現在の本堂は、弘化2(1845)年建立のもので、小堂ながら江戸時代の建築様式を保ち、美しく簡素なたたずまいをしめしています。
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《布袋尊》
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白鬚神社のたもとを横切り、石浜神社に向かう。
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【石浜神社《寿老神》】
ご祭神:天照大御神・豊受大御神
724(神亀元)年9月11日、勅願(国家鎮護・皇室繁栄などを目的とした勅命による祈願)によって創建された、荒川区内最古の神社である。
1189(文治5)年、源頼朝が奥州征討に際しての社殿の寄進、1281(弘安4)年の蒙古襲来の折には、鎌倉将軍家お取次による官幣の奉納などを経て、千葉氏、宇都宮氏など関東武将の崇敬も篤く、中世初めには大社として発展する。
社地は東方に隅田川、西方に富士山、北方に筑波山を望む景勝地であり、江戸名所図会などにも紹介された。
「朝日神明宮」とも称され、伊勢に行けない人々が代わりに参詣し、夏越の大祓は江戸随一とされるなど、多くの参詣者を集めたと伝えられる。
1872(明治5)年、郷社に列格し、1926(大正15)年、隣接していた真先稲荷・招来稲荷神社が石浜神社の境内に遷座した。
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注連柱をくぐって拝殿に。
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《寿老神》
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登れはしないが、立派な富士塚があった。
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このお宮さんは、初めてだったが、境内社も多く、石碑等も多いので、再訪を期す。

ここから吉原神社までが遠かった。
吉原の入り口の「見返り柳」まで来て、ホッとする。
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【吉原神社《弁財天》】
ご祭神:倉稲魂命・市杵嶋姫命
1872(明治5)年に新吉原遊郭の四隅に祀られていた開運稲荷大神、九郎助稲荷大神、榎本稲荷大神、明石稲荷大神と、往昔よりの玄徳稲荷社を合祀して、吉原神社を創建した。
江戸の代より吉原廊はたびたび大火に遭っているが、1875(明治8)年の全焼後、吉原大門外の高札場の所に社殿が造営されたという。
その後も数回の火災に遭い、1923(大正12)年の関東大震災で焼失後、1935(昭和9)年に新社殿を造営し現在地へ遷座した。
1945(昭和20)年の空襲で再び焼失、1968(昭和43)年に再建されたのが現社殿である。
1935(昭和10)年には吉原弁財天を合祀しているが、この弁財天には関東大震災にまつわる悲しい歴史がある。
この地は元々湿地帯であったところを埋め立てて造成しているが、池の一部は残された。
中島に弁天祠が祀られた池は、花園池・弁天池などと称され遊郭楼主たちの信仰を集めていた。
関東大震災により発生した火災から逃がれようとした遊女達は、廊の中では逃げ場がなかった。
このため池に飛び込まざるを得ず、490人が溺死したという悲劇が起こった。
その後池自体はNTT吉原ビル建設時に埋め立てられてしまったが、弁財天を祀る小社は残され吉原神社の奥宮として、震災殉難慰霊の観音像なども祀られている。
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御幣の横にあるちいさなものが弁財天。
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調べてみると、少し離れたところにある「吉原神社奥宮」には、立派な弁財天が祀られているみたいだ。
再訪を期す。

【鷲神社《寿老人》】
ご祭神:天日鷲命、日本武尊
鷲神社の創始についてはもとよりつまびらかではないが、ご祭神の一柱の天日鷲命(あめのひわしのみこと)は諸国を開拓して産を興した殖産の神として知られています。
天照大御神が天の岩戸におかくれになり、天宇受売命(あまのうずめのみこと)が岩戸の前で舞を舞われたとき、楽器の弦を奏でられました。命の父神、天手力男命(あめのたぢからおのみこと)が岩戸をお開きになりますと、その弦の先に鷲がどこからともなく飛んできてとまりました。その様子を固唾をのんで見守っていた八百万の神々は、その光景を、世の中を明るくする瑞祥(よいしるし)だとして、鷲の一字を入れて「天日鷲命」と称しました。
そして天日鷲命は、開運、開拓の福神として当地に鎮座されたとのことです。
ご祭神のもう一柱である日本武尊(やまとたけるのみこと)は後に東征の帰途、当社の松に熊手をかけて勝ち戦のお礼参りをされた日が、ちょうど11月の酉の日であったことからその日に神様をおなぐさめする祭が行われるようになり、それが酉の市のはじまり。
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お賽銭箱のところには、「なでおかめ」が。
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社務所のところにあった、「七福神福絵」の完成見本があった。
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以上で、全部完了。
近くの「入谷」駅から帰途についた。


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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

7日と言うことは正月最後の日にまわられたのですね。さすがに、まわっている人、多い感じですね。1/12(土)に谷中の方を歩いたのですが、谷中七福神巡りの人が結構いたので、おそらく、浅草名所七福神も同様ではないかと思います。

なお、石浜神社の富士塚ですが、1758年築造、1954年消滅。1990年代に再築と言うことのようです。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
七福神めぐりは、多いですね。
始めたら、毎年の楽しみになります。
石浜神社の富士塚は、信仰の現場というよりは、
記念碑的な感じだなとおもったのですが、
やはりそうでしたね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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