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ほるたま考古学セミナー/スポーツと考古学

20190122

1月12日に熊谷市立文化センターで開催された、埼玉県埋蔵文化財調査事業団が主催した掲題のセミナーを聴いてきました。
これは、今年熊谷も会場となるラグビーワールドカップ、来年はオリンピック・パラリンピックが東京で開催されるので、弓道、馬術、登山、カヌー、相撲を題材として考古学を考える、という面白い企画でした。
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10:30から15:30まで、昼食をはさんで受けましたが、夫々のテーマの説明された項目と、それに私の今までの経験、データを加えて記事としました。

【弓で矢を射る】
紹介されていたのは、東松山市の反町遺跡で発見された弓射の痕跡。

出土した須恵器
「神矢」と墨書された椀
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「弓」と墨書された坏
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「狩股鏃」の出土
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9世紀中葉から後半代、在地首長である郡司(反町遺跡の所在する東松山市は古代の比企郡に含まれる)一族により主宰された「田猟」の伝統に基づく狩猟儀礼であったと解釈される。

弓射と神事では、立って行う「歩射(かちゆみ)」と馬に乗って行う「騎射(うまゆみ)」に大別される。
的を射る前に、必ず天地四方を射るが、これは悪魔・疫鬼退散のお祓いをする。
これは川越流鏑馬の際の「天地人三才の儀」。
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的を射るのは、五穀豊穣や破魔除災を祈念する年占である。

歩射では、2月7日に行われる大宮氷川神社の「的神事」がある。
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騎射では、川越流鏑馬を見たことがある。
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現在の弓道では、昨年4月に大宮氷川神社の「花しずめの舞」を見に行ったときに、境内で埼玉県の高校弓道部の大会が行われていて、間近に弓道の試合を見ることが出来た。
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【人馬一体】
出土する馬具の検討から、日本列島への騎馬文化の組織的な伝播は、古墳時代中期と考えられている。

ヤマト王権が確立したのは、鉄と馬によるものだと思うが、東国の首長にとっても馬を手に入れることは強大なメリットであったに違いない。

私には、「さきたま古墳群」の稲荷山古墳や将軍山古墳から出土した馬具が親しい。
当初は朝鮮半島から持ち込まれた馬具だが、後半になると国産の馬具が確認されている。

旗差し器具の「蛇行状鉄器」(将軍山古墳)
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馬の冑(将軍山古墳)
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権力者にとって大きな視覚的効果を生む動物として、神事や儀式での馬の利用があった。
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これは「かみつけの里博物館」で見た、馬の埴輪。
馬具の様子がよくわかる。
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【縄文人、海へ山へ】
〇トレッキング
雁坂峠を越えて、秩父盆地と甲府盆地の縄文人が交易や和合を行っていたことが、秩父盆地の薬師堂遺跡と甲府盆地の釈迦堂遺跡からの出土品からわかっている。
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縄文人には多いとのことだが、秩父の妙音寺遺洞穴に葬られていた縄文早期中葉の人骨は、登坂に要する太ももなどの筋肉が発達したため、足骨の断面が現代人と違っているそうである。

〇カヌー
さいたま市「大木戸遺跡」で、丸木舟が出土している。
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ここでは、小川町の緑泥石片岩の「下里石」が出ているが、これは川を使って運ばれたと考えられている。
また、縄文時代の埼玉は海が深く入り込んでいたので、往来や漁に使われたと思われる。

所沢市の遺跡では、神津島の黒曜石が出土しているので、神津島と本土を縄文人が丸木舟で航海していたことがわかっている。

2017年9月に富山県小矢部市の桜町遺跡を訪ねたときに、ヒスイの石斧が2個展示してあったが、糸魚川からヒスイは丸木舟でやってきたと想定されている。
それで、現在の小矢部の人たちが、石斧で丸木舟を作り、糸魚川まで3日かけて航海をしてみたというのだ。
これには興奮した。
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【相撲人の誕生】
〇埼玉の古代相撲人
武蔵に定住した高句麗系渡来人の子孫に「高麗福信」という人物がいる。
『続日本紀』によると、叔父に連れられて都に上り、ある日仲間と共に出掛けた折、夕暮れに石上の四つ辻で相撲に参加したところ、ことごとく相手に勝利した。
その噂は天皇の内裏にまで聞こえて、聖武天皇に目をかけられて出世し、「高麗朝臣」という日本の姓も賜った。

〇古代史の相撲人
有名なのは、『日本書紀』に記されている蹴速と能美宿禰が垂仁天皇の前で相撲を取り、能美宿禰が勝ち天皇に仕えて、のちに埴輪を発明して歴史に名を残している。
相撲をとった場所は、奈良県桜井市大字穴師であるが、そこは「相撲神社」になっている。
2017年3月に訪ねた。
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〇発掘された相撲人(埴輪)
全国31の遺跡で、力士の埴輪が発掘されている。
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昨年群馬県高崎市保渡田古墳群・八幡塚古墳で、それを見た。
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饗宴をしている傍に居る。
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各地での発掘状態から、屋内で饗宴が行われているときに屋外で相撲がとられていたようである。

保渡田古墳群・八幡塚古墳で発掘されたものは、かみつけの里博物館に展示されている。
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全国の力士埴輪に共通の特徴として、髪が「扁平髷」であること。
横に扁平な板状となっている。
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「スポーツと考古学」というテーマには、ちょっと馴染めない感じがあったが、チラシの内容から弓、馬とか相撲を取り上げることがわかったので、参加してみたらすごく面白かった。
今までいろいろな遺跡を廻って見て来たデータが、今回のテーマでまとまったものがあり、有意義だった。



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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

須恵器によく墨で書いた文字、また、私でも読める文字が残っているなあと思いましたが、時代的には平安時代のものなのですね。

平安時代の馬って、現在のサラブレットと比較して40cm以上、背が低くて、高くても120cm位だったそうですね。まあ、人も今より背が低かったでしょうから、馬に乗ればそれなりの高さにはなると思いますが、少なくとも、現在の馬に乗った状態と見た目はかなり変わっているのではと思います。ですから、馬に乗って弓を射るのも現在の流鏑馬とは随分、違っていたのではと思います。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
現在の流鏑馬でも、川越で行う流鏑馬は、
古式にのっとり「和駒」で行うと説明があります。
毛呂山の流鏑馬も、見た感じでは同様に
「和駒」だと思いました。
もしかしたら、同じ馬を使っているかもしれません。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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