葛飾柴又・寅さん記念館
20190716
所在地:東京都葛飾区柴又6丁目22番19号
訪問日:2019年6月28日
所属する歴史クラブの「博物館に行こう」グループで訪問しました。この日の企画した行程は、市川市立歴史館・考古博物館・堀之内貝塚⇒矢切の渡し⇒寅さん記念館⇒柴又帝釈天です。
市川市立歴史館・考古博物館・堀之内貝塚を見学してから、北総線で矢切駅に移動、駅の近くのファミレスで昼食・休憩の後、「野菊の墓」文学碑を経由して「矢切の渡し」で江戸川を渡り、ここに到着。
柴又は松竹製作・配給の映画『男はつらいよ』の舞台であり、当該作品の世界観および各種資料を再現・展示したものである。
『男はつらいよ』の世界をコーナー別に分けて展示しており、松竹大船撮影所(神奈川県鎌倉市。2000年閉鎖)から移設した「くるまや」「朝日印刷所」のセット、映画の名場面を紹介した映像コーナー、実物の革カバンなどの展示コーナー、記念撮影コーナーなどがある。2012年からは『男はつらいよ』の原作者で第3作と第4作を除いたシリーズの監督も務めた山田洋次を顕彰する『山田洋次ミュージアム』を開設している。
2014年10月20日に、同じく歴史クラブの行事で訪問しており、その時の記事も併せて見ていただくとよくわかると思います。
矢切の渡しも載っています。
その記事を見る
入口のホール

四方から、寅さんの顔が見下ろしている。

入ると撮影所のセットが迎える。


「くるまや」のセット。

ちなみに、「男はつらいよ」では、途中から寅さんの実家のお団子やさんの名前が「とらや」から「くるまや」に変わっている。
リアルの柴又帝釈天門前町に、他の名前から「とらや」に名前を変えた店が出てしまい、映画のほうで名前を変えざるを得なかったらしい。
上にカメラや照明さんが居て、俳優になった気分(笑)

おなじみの茶の間

タコ社長が頑張る「朝日印刷所」

セットのミニチュアとジオラマ






帝釈人車鉄道のジオラマ


人車は軽量のトロッコに椅子(定員は2人から4人程度)を設けた簡便な車両でこれを押し屋が人力で動かす[1]。雨除けなど屋根付きのものと屋根のないものとがある[1]。台車の後方には棒が付いており棒を押して前方に動かす[1]。下り坂では押し屋も台車に乗り込んでブレーキを掛けながらスピードを制御する。
京成金町線の起源は、柴又 - 金町間で人が車両を押して動かす人車軌道を運行していた帝釈人車鉄道である。1897年(明治30年)に日本鉄道により金町駅が開業し柴又帝釈天への参詣者が増加した。その交通の便を図ろうと1899年(明治32年)に帝釈人車鉄道が設立され、同年内に柴又 - 金町間で営業を開始した。線路は全線複線で、折り返しのため柴又駅・金町駅の終端部はループ線になっていた。客車は1両6人乗りで64両あり、通常1人で押していたという。1907年(明治40年)には帝釈人車軌道と社名を改めた。
京成電気軌道は後に押上線・本線の一部となる押上 - 市川(現在の江戸川)間と、支線として曲金(現在の京成高砂) - 柴又間を開業させた。翌1913年(大正2年)には柴又 - 金町間の人車の運行を終了し、単線電化で柴又 - 金町間を延伸して電車の運行を開始した。
ジオラマの動画を撮影しました。
その動画を見る
昔の汽車のボックスに座って、映画のハイライトを見ながら、話が盛り上がった。

「男はつらいよ」のマドンナたち。
吉永小百合さんは、中学のときから変わらぬファンだが、大原麗子さんが懐かしい。


ポスター群

見学を終え、帽子をかぶりトランクを持って帝釈天に向かおうとしたが、
う、動かない・・・・・・・

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訪問日:2019年6月28日
所属する歴史クラブの「博物館に行こう」グループで訪問しました。この日の企画した行程は、市川市立歴史館・考古博物館・堀之内貝塚⇒矢切の渡し⇒寅さん記念館⇒柴又帝釈天です。
市川市立歴史館・考古博物館・堀之内貝塚を見学してから、北総線で矢切駅に移動、駅の近くのファミレスで昼食・休憩の後、「野菊の墓」文学碑を経由して「矢切の渡し」で江戸川を渡り、ここに到着。
柴又は松竹製作・配給の映画『男はつらいよ』の舞台であり、当該作品の世界観および各種資料を再現・展示したものである。
『男はつらいよ』の世界をコーナー別に分けて展示しており、松竹大船撮影所(神奈川県鎌倉市。2000年閉鎖)から移設した「くるまや」「朝日印刷所」のセット、映画の名場面を紹介した映像コーナー、実物の革カバンなどの展示コーナー、記念撮影コーナーなどがある。2012年からは『男はつらいよ』の原作者で第3作と第4作を除いたシリーズの監督も務めた山田洋次を顕彰する『山田洋次ミュージアム』を開設している。
2014年10月20日に、同じく歴史クラブの行事で訪問しており、その時の記事も併せて見ていただくとよくわかると思います。
矢切の渡しも載っています。
その記事を見る
入口のホール

四方から、寅さんの顔が見下ろしている。

入ると撮影所のセットが迎える。


「くるまや」のセット。

ちなみに、「男はつらいよ」では、途中から寅さんの実家のお団子やさんの名前が「とらや」から「くるまや」に変わっている。
リアルの柴又帝釈天門前町に、他の名前から「とらや」に名前を変えた店が出てしまい、映画のほうで名前を変えざるを得なかったらしい。
上にカメラや照明さんが居て、俳優になった気分(笑)

おなじみの茶の間

タコ社長が頑張る「朝日印刷所」

セットのミニチュアとジオラマ






帝釈人車鉄道のジオラマ


人車は軽量のトロッコに椅子(定員は2人から4人程度)を設けた簡便な車両でこれを押し屋が人力で動かす[1]。雨除けなど屋根付きのものと屋根のないものとがある[1]。台車の後方には棒が付いており棒を押して前方に動かす[1]。下り坂では押し屋も台車に乗り込んでブレーキを掛けながらスピードを制御する。
京成金町線の起源は、柴又 - 金町間で人が車両を押して動かす人車軌道を運行していた帝釈人車鉄道である。1897年(明治30年)に日本鉄道により金町駅が開業し柴又帝釈天への参詣者が増加した。その交通の便を図ろうと1899年(明治32年)に帝釈人車鉄道が設立され、同年内に柴又 - 金町間で営業を開始した。線路は全線複線で、折り返しのため柴又駅・金町駅の終端部はループ線になっていた。客車は1両6人乗りで64両あり、通常1人で押していたという。1907年(明治40年)には帝釈人車軌道と社名を改めた。
京成電気軌道は後に押上線・本線の一部となる押上 - 市川(現在の江戸川)間と、支線として曲金(現在の京成高砂) - 柴又間を開業させた。翌1913年(大正2年)には柴又 - 金町間の人車の運行を終了し、単線電化で柴又 - 金町間を延伸して電車の運行を開始した。
ジオラマの動画を撮影しました。
その動画を見る
昔の汽車のボックスに座って、映画のハイライトを見ながら、話が盛り上がった。

「男はつらいよ」のマドンナたち。
吉永小百合さんは、中学のときから変わらぬファンだが、大原麗子さんが懐かしい。


ポスター群

見学を終え、帽子をかぶりトランクを持って帝釈天に向かおうとしたが、
う、動かない・・・・・・・

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コメント
No title
四季歩さん、こんにちは
なるほど、ここに人車鉄道が走っていたのですか! 初めて知りました。人車鉄道って、小田原だったか、熱海だったか、斜面の所を走っていたのは知っていましたが。
「男はつらいよ」シリーズは、私の趣味ではないので、TVで放映された時に、2、3本、観た覚えがあります。
なるほど、ここに人車鉄道が走っていたのですか! 初めて知りました。人車鉄道って、小田原だったか、熱海だったか、斜面の所を走っていたのは知っていましたが。
「男はつらいよ」シリーズは、私の趣味ではないので、TVで放映された時に、2、3本、観た覚えがあります。
matsumoさん
コメントありがとうございます。
人車鉄道なんて、面白い発想ですよね。
押す人は大変だったでしょうね。
私は「おとこはつらいよ」が好きで、
ほとんどを録画して持っています。
人車鉄道なんて、面白い発想ですよね。
押す人は大変だったでしょうね。
私は「おとこはつらいよ」が好きで、
ほとんどを録画して持っています。