最古の富士塚・高田富士
20190727
所在地:東京都新宿区西早稲田三丁目5-43 水稲荷神社境内
参拝日:2019年7月15日
私の取り組んでいるテーマに「富士山文化の探求」があり、当然富士塚の探求も入っています。
高田富士が開かれるのは年に二日だけで、7月14日と15日だけです。
14日は一日雨だったので、私は15日に参拝しました。
水稲荷神社の入り口

水稲荷神社については、既に記事があります。
その記事を見る
入り口石段の上には、この日は「富士祭り」の提燈が飾られている。

石段上の参道をちょっと進むと、登山道の看板が出ている。

高田富士の解説板。

富士講中興の祖、食行身禄の直弟子・高田藤四郎が日本で初めて富士塚を築きました。
安永9年(1780)、大先達 日行藤四郎が富士信仰の人達(富士講)と白い行衣を身につけて、富士山頂の岩や土を運んで、9年5ヶ月の末、ついに富士塚を築きました。
藤四郎の富士登拝は、58回ともいわれています。
御山は高さ10m、江戸の人造富士中最大最古のものです。
高田藤四郎(日行青山)が「富士塚」というものを編み出したのは、江戸の町民で富士山に行きたくとも行けない人達が沢山居たからです。
まず、女性は江戸時代富士山が女人禁制だったため登れませんでした。女性が登れるようになったのは明治4年からです。お年寄りも無理ですよね。
それで、この富士塚に登れば、富士講で富士登山すると同じご利益があるということで大変な人気となりました。
富士塚は広重も描く名所となった。
絵本江戸土産第8編21-高田富士山/広重

江戸名所図会「高田稲荷」にも、しっかりと描かれている。

拡大

また、嘉永七年(1854)の絵図で、穴八幡、水稲荷、高田富士の位置関係を見ると、今とずいぶん違うので面白い。

さて、参道に入ります。


麓には浅間神社があります。

登山道入り口の左側にある。

社殿の前には、江戸時代奉納であることは間違いない「宝珠角型」の狛犬が居る。



浅間神社にお参り。

登り始めます。

しかと書いてあるものは確認できなかったが、合目石を探しながら登った。


溶岩は、いたるところに沢山あった。

烏帽子に似た形の面白い石があったが、富士山、あるいは富士塚の「烏帽子岩」とは違うようだ。
それなら八合目にあるはずなので。


折り返する

その先の折り返しに、「小御岳神社」がある。


小御岳というのは、現在富士山があったところに当初あった山で、その頂上が五合目にあたり、実際の富士山の五合目にも「小御岳神社」がある。

それから何度か登山道を折り返して登っていく。



最後、溶岩に挟まれた狭い登山道を抜けると頂上。


頂上には、木花咲耶姫尊と石長姫尊が祀られている。

高田藤四郎が始めた「まる藤講」の講紋。

頂上から下を見ると、けっこう高い。

下山道は、まっすぐでけっこう急こう配だ。


下に降りきったところから、高田塚を仰ぐ。ここからがわりと全貌がわかる。

「お胎内」がちゃんとあった。
「お胎内」というのは、富士山の麓にある「人穴」を模したもの。
「人穴」の中で、富士講開祖・角行東覚が、四寸五分角の角材の上で千日爪立ちの行を行い開眼し、また最後に入定したところである。

「お胎内」



ここから、再度頂上を仰ぎ、満足して「水稲荷神社」に参拝した。

「お気に入りの場所」に飛ぶ
参拝日:2019年7月15日
私の取り組んでいるテーマに「富士山文化の探求」があり、当然富士塚の探求も入っています。
高田富士が開かれるのは年に二日だけで、7月14日と15日だけです。
14日は一日雨だったので、私は15日に参拝しました。
水稲荷神社の入り口

水稲荷神社については、既に記事があります。
その記事を見る
入り口石段の上には、この日は「富士祭り」の提燈が飾られている。

石段上の参道をちょっと進むと、登山道の看板が出ている。

高田富士の解説板。

富士講中興の祖、食行身禄の直弟子・高田藤四郎が日本で初めて富士塚を築きました。
安永9年(1780)、大先達 日行藤四郎が富士信仰の人達(富士講)と白い行衣を身につけて、富士山頂の岩や土を運んで、9年5ヶ月の末、ついに富士塚を築きました。
藤四郎の富士登拝は、58回ともいわれています。
御山は高さ10m、江戸の人造富士中最大最古のものです。
高田藤四郎(日行青山)が「富士塚」というものを編み出したのは、江戸の町民で富士山に行きたくとも行けない人達が沢山居たからです。
まず、女性は江戸時代富士山が女人禁制だったため登れませんでした。女性が登れるようになったのは明治4年からです。お年寄りも無理ですよね。
それで、この富士塚に登れば、富士講で富士登山すると同じご利益があるということで大変な人気となりました。
富士塚は広重も描く名所となった。
絵本江戸土産第8編21-高田富士山/広重

江戸名所図会「高田稲荷」にも、しっかりと描かれている。

拡大

また、嘉永七年(1854)の絵図で、穴八幡、水稲荷、高田富士の位置関係を見ると、今とずいぶん違うので面白い。

さて、参道に入ります。


麓には浅間神社があります。

登山道入り口の左側にある。

社殿の前には、江戸時代奉納であることは間違いない「宝珠角型」の狛犬が居る。



浅間神社にお参り。

登り始めます。

しかと書いてあるものは確認できなかったが、合目石を探しながら登った。


溶岩は、いたるところに沢山あった。

烏帽子に似た形の面白い石があったが、富士山、あるいは富士塚の「烏帽子岩」とは違うようだ。
それなら八合目にあるはずなので。


折り返する

その先の折り返しに、「小御岳神社」がある。


小御岳というのは、現在富士山があったところに当初あった山で、その頂上が五合目にあたり、実際の富士山の五合目にも「小御岳神社」がある。

それから何度か登山道を折り返して登っていく。



最後、溶岩に挟まれた狭い登山道を抜けると頂上。


頂上には、木花咲耶姫尊と石長姫尊が祀られている。

高田藤四郎が始めた「まる藤講」の講紋。

頂上から下を見ると、けっこう高い。

下山道は、まっすぐでけっこう急こう配だ。


下に降りきったところから、高田塚を仰ぐ。ここからがわりと全貌がわかる。

「お胎内」がちゃんとあった。
「お胎内」というのは、富士山の麓にある「人穴」を模したもの。
「人穴」の中で、富士講開祖・角行東覚が、四寸五分角の角材の上で千日爪立ちの行を行い開眼し、また最後に入定したところである。

「お胎内」



ここから、再度頂上を仰ぎ、満足して「水稲荷神社」に参拝した。

「お気に入りの場所」に飛ぶ
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コメント
No title
四季歩さん、こんにちは
私は都区内の富士塚の大部分は登ったことがありますが、この富士塚は、偶然、扉が開いていた時に中に入って、下から写真を撮っただけです。と言うことで、登られた四季歩さんが羨ましいです。
さて、この富士塚は、現在の早稲田大学の構内に相当する所にあったのですが、学校の拡張の際(1964)に破壊され消滅しましたが、1965年に再築されました。おそらく、その際、溶岩や石碑等が転用されたのだと思いますが、当時から、既に50年以上経っているので、古びて見え、昔からあるように見えますね。
私は都区内の富士塚の大部分は登ったことがありますが、この富士塚は、偶然、扉が開いていた時に中に入って、下から写真を撮っただけです。と言うことで、登られた四季歩さんが羨ましいです。
さて、この富士塚は、現在の早稲田大学の構内に相当する所にあったのですが、学校の拡張の際(1964)に破壊され消滅しましたが、1965年に再築されました。おそらく、その際、溶岩や石碑等が転用されたのだと思いますが、当時から、既に50年以上経っているので、古びて見え、昔からあるように見えますね。
matsumoさん
コメントありがとうございます。
早稲田大学構内から移された話は、有名な話故に、
私は書きそびれていましたね(汗)
都内は、富士塚が守られているほうだと思います。
私は富士山文化を、専門ではありませんが、
けっこう思い入れがあるので、できるだけ
廻りたいと思っています。
早稲田大学構内から移された話は、有名な話故に、
私は書きそびれていましたね(汗)
都内は、富士塚が守られているほうだと思います。
私は富士山文化を、専門ではありませんが、
けっこう思い入れがあるので、できるだけ
廻りたいと思っています。