妻沼聖天山歓喜院/埼玉県熊谷市
20191030
所在地:埼玉県熊谷市妻沼1627
参拝日:2019年10月9日
歴史クラブの秋季定例見学会として、妻沼聖天山歓喜院、児玉百体観音堂(さざえ堂)、渋沢栄一生家・記念館を訪ねました。
最初に訪ねたのが、この妻沼聖天山歓喜院です。
ここは、延喜式内社白鬚神社の故地ということで、個人でしている「武蔵国式内社めぐり」で、2017年1月に既に訪れており、その記事があります。
その記事を見る
今回は、その安心感もあり、そんなに写真を撮ってないので、全体像は上の記事を参考にしてください。
到着して、すぐに奥殿のガイドさんを予約してあったので、奥殿から見た。
下の境内図で「御本殿」と書かれている建物の後ろに奥殿がある。

【国宝聖天堂(本殿)】
拝殿・中殿(相の間)・奥殿からなる廟型式権現造(日光東照宮などに見られる、複数棟を一体とした建築形式)の建物である。大工棟梁は幕府作事方棟梁の平内政信の子孫の妻沼の名工林兵庫正清で、子の正信の代まで享保20年(1735年)から宝暦10年(1760年)にかけて完成されたものである。
当時の庶民・農民が永年にわたって浄財を出し続け、44年かかって完成した。多くの国宝建造物が権力者に寄って作られたのに対し、庶民の浄財で作られたのは稀有である。
奥殿は入母屋造、桁行3間・梁間3間、正面向拝付き、中殿は両下造(りょうさげづくり)、桁行3間・梁間1間、拝殿は入母屋造、桁行5間・梁間3間で、これらを接続して1棟とし、屋根はすべて瓦棒銅板葺きとする。奥殿は内外ともに彫刻、漆塗、彩色、金具等をもって華麗に装飾する装飾性の高い建築である。奥殿向拝南面羽目板の「鷲と猿」の彫刻は伝説的な彫刻職人の左甚五郎作とする伝承がある。実際の彫刻棟梁は石原吟八郎(吟八)と関口文治郎である。奥殿は柱、長押などの部材に地紋彫をほどこし、内法下の大羽目板には七福神、縁下には唐子遊びを題材とした彩色彫刻をほどこす。唐破風下には中国の故事にちなんだ「三聖吸酸」、「司馬温公の瓶割り」などの彫刻があり、拝殿正面唐破風下の彫刻は「琴棋書画」である。
第8代吉宗の贅沢禁止令で、このような建物は建てられなくなるが、ここは既に建築半ばだったので、御目こぼしにあずかり、このような建築の最後の例となった。
2003年から2010年にかけての屋根葺き替えと彩色修理を中心とする修理が実施され、当初の彩色がよみがえった。2012年、国宝に指定。
ガイドさんの案内で拝観する。

何度見ても感心してしまう。



これが、わざと塗ってない部分を残して、まだ未完成だとしているところ。

ものすごいきらびやかな彫刻で、ため息が出てしまう。









猿の彫刻は面白いが、前回全部撮ってアップしてあるので、今回は省略。

今回は、「唐子遊び」の彫刻を全部撮った。









奥殿でのガイドが終わると、引き続き拝殿の彫刻の説明もしてくれた。

ここの彫刻の見どころも、今回はきちんと撮らなかったので、前回の記事で確認してください。
前回の記事を見る
ここも華麗な彫刻がされている。


ここでガイドは終了、バスを停めた場所は貴惣門の横なので、そこまで自由時間内を各自三々五々境内を見物しながらバスに戻った。
ここは日本三大聖天さまの一つだそうだが、浅草の待乳山聖天院と同様、大根の紋となっている。

仁王門



狛犬が居るのは、江戸時代の神仏習合のなごり。

齋藤実盛像

この像は、髪を黒く染めている場面を描いているが、それは以下の話があるからである。
寿永2年(1183年)、再び維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国の篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。
この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。そのため首実検の際にもすぐには実盛本人と分からなかったが、そのことを樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついにその死が確認された。かっての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。

貴惣門


「皆與願満足」という額がかかっている。

横が、破風を三つ重ねた珍しい形式。

ここに置かれているのは、持国天、多聞天の像。
残念なことに細かい金網が張られてしまい、よく見えない。
持国天

踏まれている邪鬼

多聞天

踏まれている邪鬼

本殿側の彫刻が素晴らしい。


これで、ここの参拝を終了して、近くで早目のお昼を食べてから、児玉の百体観音堂(さざえ堂)に向かった。
児玉・百体観音(さざえ堂)の記事を見る
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参拝日:2019年10月9日
歴史クラブの秋季定例見学会として、妻沼聖天山歓喜院、児玉百体観音堂(さざえ堂)、渋沢栄一生家・記念館を訪ねました。
最初に訪ねたのが、この妻沼聖天山歓喜院です。
ここは、延喜式内社白鬚神社の故地ということで、個人でしている「武蔵国式内社めぐり」で、2017年1月に既に訪れており、その記事があります。
その記事を見る
今回は、その安心感もあり、そんなに写真を撮ってないので、全体像は上の記事を参考にしてください。
到着して、すぐに奥殿のガイドさんを予約してあったので、奥殿から見た。
下の境内図で「御本殿」と書かれている建物の後ろに奥殿がある。

【国宝聖天堂(本殿)】
拝殿・中殿(相の間)・奥殿からなる廟型式権現造(日光東照宮などに見られる、複数棟を一体とした建築形式)の建物である。大工棟梁は幕府作事方棟梁の平内政信の子孫の妻沼の名工林兵庫正清で、子の正信の代まで享保20年(1735年)から宝暦10年(1760年)にかけて完成されたものである。
当時の庶民・農民が永年にわたって浄財を出し続け、44年かかって完成した。多くの国宝建造物が権力者に寄って作られたのに対し、庶民の浄財で作られたのは稀有である。
奥殿は入母屋造、桁行3間・梁間3間、正面向拝付き、中殿は両下造(りょうさげづくり)、桁行3間・梁間1間、拝殿は入母屋造、桁行5間・梁間3間で、これらを接続して1棟とし、屋根はすべて瓦棒銅板葺きとする。奥殿は内外ともに彫刻、漆塗、彩色、金具等をもって華麗に装飾する装飾性の高い建築である。奥殿向拝南面羽目板の「鷲と猿」の彫刻は伝説的な彫刻職人の左甚五郎作とする伝承がある。実際の彫刻棟梁は石原吟八郎(吟八)と関口文治郎である。奥殿は柱、長押などの部材に地紋彫をほどこし、内法下の大羽目板には七福神、縁下には唐子遊びを題材とした彩色彫刻をほどこす。唐破風下には中国の故事にちなんだ「三聖吸酸」、「司馬温公の瓶割り」などの彫刻があり、拝殿正面唐破風下の彫刻は「琴棋書画」である。
第8代吉宗の贅沢禁止令で、このような建物は建てられなくなるが、ここは既に建築半ばだったので、御目こぼしにあずかり、このような建築の最後の例となった。
2003年から2010年にかけての屋根葺き替えと彩色修理を中心とする修理が実施され、当初の彩色がよみがえった。2012年、国宝に指定。
ガイドさんの案内で拝観する。

何度見ても感心してしまう。



これが、わざと塗ってない部分を残して、まだ未完成だとしているところ。

ものすごいきらびやかな彫刻で、ため息が出てしまう。









猿の彫刻は面白いが、前回全部撮ってアップしてあるので、今回は省略。

今回は、「唐子遊び」の彫刻を全部撮った。









奥殿でのガイドが終わると、引き続き拝殿の彫刻の説明もしてくれた。

ここの彫刻の見どころも、今回はきちんと撮らなかったので、前回の記事で確認してください。
前回の記事を見る
ここも華麗な彫刻がされている。


ここでガイドは終了、バスを停めた場所は貴惣門の横なので、そこまで自由時間内を各自三々五々境内を見物しながらバスに戻った。
ここは日本三大聖天さまの一つだそうだが、浅草の待乳山聖天院と同様、大根の紋となっている。

仁王門



狛犬が居るのは、江戸時代の神仏習合のなごり。

齋藤実盛像

この像は、髪を黒く染めている場面を描いているが、それは以下の話があるからである。
寿永2年(1183年)、再び維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国の篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。
この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。そのため首実検の際にもすぐには実盛本人と分からなかったが、そのことを樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついにその死が確認された。かっての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。

貴惣門


「皆與願満足」という額がかかっている。

横が、破風を三つ重ねた珍しい形式。

ここに置かれているのは、持国天、多聞天の像。
残念なことに細かい金網が張られてしまい、よく見えない。
持国天

踏まれている邪鬼

多聞天

踏まれている邪鬼

本殿側の彫刻が素晴らしい。


これで、ここの参拝を終了して、近くで早目のお昼を食べてから、児玉の百体観音堂(さざえ堂)に向かった。
児玉・百体観音(さざえ堂)の記事を見る
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コメント
No title
四季歩さん、こんにちは
いやあ、このように素晴らしいものが修復は繰り返しているのだと思いますが、よくぞ、250年以上、残っているものです! 余程、大切にしているのでしょうね。
それに比べれば、沖縄の首里城なんか、折角作っても、30年も経たない内に火事で焼けてしまったのですから。
いやあ、このように素晴らしいものが修復は繰り返しているのだと思いますが、よくぞ、250年以上、残っているものです! 余程、大切にしているのでしょうね。
それに比べれば、沖縄の首里城なんか、折角作っても、30年も経たない内に火事で焼けてしまったのですから。
matsumoさん
コメントありがとうございます。
このような素晴らしいものが、庶民の
浄財で作られたというのが、ものすごいことです。
素晴らしいです。
このような素晴らしいものが、庶民の
浄財で作られたというのが、ものすごいことです。
素晴らしいです。