讃岐国一之宮・田村神社(前半)
20200415
所在地:香川県高松市一宮町字宮東286番地
参拝日:2020年3月23日
御祭神:倭迹迹日百襲姫命、 五十狹芹彦命、
配祀:猿田彦大神 天隱山命 天五田根命
「青春18キップの旅2020春」の二日目、四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺、阿波国一之宮・大麻比古神社に参拝後、JR板東駅で9:30の列車に乗り、時間をかせぐために特急を一部利用したりして、板野、志度で乗換えて栗林まで行き、ここから「ことでん」で一宮駅まで着きました。
そこから徒歩10分ほどで、当社に着きました。
入口に社号標、石灯篭、狛犬があり、その奥に一の鳥居があります。

社号標
式内社(名神大社)、讃岐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

当社の起源は極めて古く社記によれば和銅二年(709)に社殿が創建されたとあり往古より「田村大社」「定水大明神」又は「一宮大明神」とも称され、人々より篤く崇敬されてきた。
嘉祥二年(849)従五位下に叙せられ貞観三年(861)官社となり名神大社に列せられ、讃岐國の一宮に定められて後は神階を授けられ建仁元年(1201)正一位の極位に叙せられた。
当社の奥殿の床下には深淵があり、厚板でこれを覆い殿内は盛夏といえども凄冷の気が満ちていて古くから神秘を伝えている。又領内で水旱があれば領主奉行は必ず先ず当社に祈願したといい、定水大明神と称される所以である。
奥殿深淵には龍が棲み、覗いたものは絶命するとされて、開かれたことがない。
古来、讃岐は雨が少なく、古代から溜池が作られてきたが、当社付近は香東川の伏流水が多い地域で、農耕に欠かせない湧き水への信仰が、祭祀につながったと考えられている。
神社公式サイトで紹介している、奥殿深淵に棲む龍の話:
①明暦元年(1655)神社より社殿の改築工事の申請を受けた普請奉行竹村斉庵(たけむらさいあん)は、神官へ社の下の淵を見たいと言い出した。
困った神官はどんな祟りがあるか分からないと断ったが、それでも是非見たいと言うので、 神官はそれではと淵を見せた所しばらくして水が逆巻き上り、其の中から龍が紅の舌を巻き三間ほど頭を出して斉庵をにらんだ。
斉庵は心地悪くなり、駕籠で家に帰り、家内へその仔細をいいつつ死んでしまった。
②その後工事も半ばになった時、淵の蓋の真中に二尺ほどの穴が明いていて、その穴へ鑿(のみ)を落とし込んでしまった。
するとしばらくして竜が現れその鑿を角に掛けて差出した。
大工は恐れて足で鑿を挟み上げたところ大工はたちまちに死んでしまった。
境内図

事前に調べた感じでは、めちゃくちゃ境内社が多い。
しかし、この後に785段上がらなければいけない金刀比羅宮参拝を控えており、そこには充分時間を残しておきたいので、予定の時間を守るため、ちょっと慌ただしい参拝となった。
入口から随神門までの参道に、三組もの狛犬が居た。
一組目の石造狛犬。

通常と異なり、向かって右側が吽形となっている。


左側が阿形。


通常の向きの、向かって右側が阿形というのは、中国の天子に倣い我が国の天皇も必ず南面して座る。それに倣い神様も南面を通常とする。そうすると太陽は(神に向かって)右側(東)から上り、左側に沈むので、向かって右側が(神から見たら左側)が上位となる。
一方、「阿」は梵字で初韻であり「始まり」、「吽」は後韻であり「終」を意味するので、通常は阿形を神に向かって右側とする。
一方、陰陽学では、「阿」を陽とし雄として、「吽」を陰とし雌とする。
従って、ご祭神が女性の神社の場合には、向かって右側が上位であるので、吽形を右側に置く場合が見られる。
田村神社の主祭神が倭迹迹日百襲姫命であり女性なので、それに拠ったと考えられる。
結果としては、ここでは両方が混在していたが。
一の鳥居から随神門までまっすぐ参道が延びる。

中ほどに、二組目の青銅製狛犬があり、これも向かって右側が吽形となっている。




柱型の二の鳥居がある。

右側の柱

左側の柱

随神門(高麗門)

随神門の前にも狛犬が居る。

この狛犬は、通常の向かって右側が阿形である。




随神門とあるが、随神像はなく、造りから高麗門である。


手水舎


その先に、鳥居と社殿が見える。

鳥居をくぐると、「左近の桜」と「右近の橘」がある。
「左近の桜」

幾つかが開いてくれていた。

「右近の橘」


拝殿
入母屋造り。明治十年再建。

大きな唐破風に続く屋根は、優美な檜皮葺である。


拝殿内部

社額には「正一位田村大明神」とあり。

拝殿は入母屋造り。

奥殿本殿は、拝殿側からはわずかに屋根しか見えず。

奥に廻って、ようやく本殿は見えた。
春日造り。宝永七年(1710)松平氏の造営。

御神座は奥殿にあり奥殿の前方は本殿に接続し、床下に深淵があるのは洵に社殿構設上の異例である。
ご祭神:
•倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)
•五十狭芹彦命 (いさせりひこのみこと、=吉備津彦命)
配祀:
•猿田彦大神
•天隠山命 (あめのかごやまのみこと、=高倉下命)
•天五田根命 (あめのいたねのみこと、=天村雲命)
倭迹迹日百襲姫命は皇祖第七代孝霊天皇の皇女で崇神天皇の御代に疫病で人々が苦しむのを救い、また武埴安彦の謀反を予知し未然に防ぐなど数々の勲功を上げた事により百襲(襲は勲功の約)の名を負う。
後五十狭芹彦命と西海鎮定の命を奉じて讃岐國に下り農業殖産の開祖神となった。御陵(昼は人が造り夜は神がこれを造ったといわれ箸の陵といわれている)は大和国城上郡大市村にある。
五十狭芹彦命は倭迹迹日百襲姫命の弟に当たり、四道将軍の一人で西海を鎮定し吉備国の祖神となった。
猿田彦大神は皇孫瓊瓊杵尊降臨のとき天の八衢に出迎えて先導を申し出、道途の安全を守護した神でこの神の向かうところはいかなる禍神も恐れて避け奉ったといわれ方除神として神威まことに偉大である。
天隠山命は皇祖神武天皇の御東征の際、窮地を救った神で後に御子天五田根命と共に紀伊国より当国に渡り山河をもって国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定めた。
神紋は「五七桐」

続いて、たくさんの境内社への参拝だが、次回の記事とする。
田村神社(後半)を見る
「神社巡拝」に飛ぶ
「お気に入りの場所」に飛ぶ
参拝日:2020年3月23日
御祭神:倭迹迹日百襲姫命、 五十狹芹彦命、
配祀:猿田彦大神 天隱山命 天五田根命
「青春18キップの旅2020春」の二日目、四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺、阿波国一之宮・大麻比古神社に参拝後、JR板東駅で9:30の列車に乗り、時間をかせぐために特急を一部利用したりして、板野、志度で乗換えて栗林まで行き、ここから「ことでん」で一宮駅まで着きました。
そこから徒歩10分ほどで、当社に着きました。
入口に社号標、石灯篭、狛犬があり、その奥に一の鳥居があります。

社号標
式内社(名神大社)、讃岐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

当社の起源は極めて古く社記によれば和銅二年(709)に社殿が創建されたとあり往古より「田村大社」「定水大明神」又は「一宮大明神」とも称され、人々より篤く崇敬されてきた。
嘉祥二年(849)従五位下に叙せられ貞観三年(861)官社となり名神大社に列せられ、讃岐國の一宮に定められて後は神階を授けられ建仁元年(1201)正一位の極位に叙せられた。
当社の奥殿の床下には深淵があり、厚板でこれを覆い殿内は盛夏といえども凄冷の気が満ちていて古くから神秘を伝えている。又領内で水旱があれば領主奉行は必ず先ず当社に祈願したといい、定水大明神と称される所以である。
奥殿深淵には龍が棲み、覗いたものは絶命するとされて、開かれたことがない。
古来、讃岐は雨が少なく、古代から溜池が作られてきたが、当社付近は香東川の伏流水が多い地域で、農耕に欠かせない湧き水への信仰が、祭祀につながったと考えられている。
神社公式サイトで紹介している、奥殿深淵に棲む龍の話:
①明暦元年(1655)神社より社殿の改築工事の申請を受けた普請奉行竹村斉庵(たけむらさいあん)は、神官へ社の下の淵を見たいと言い出した。
困った神官はどんな祟りがあるか分からないと断ったが、それでも是非見たいと言うので、 神官はそれではと淵を見せた所しばらくして水が逆巻き上り、其の中から龍が紅の舌を巻き三間ほど頭を出して斉庵をにらんだ。
斉庵は心地悪くなり、駕籠で家に帰り、家内へその仔細をいいつつ死んでしまった。
②その後工事も半ばになった時、淵の蓋の真中に二尺ほどの穴が明いていて、その穴へ鑿(のみ)を落とし込んでしまった。
するとしばらくして竜が現れその鑿を角に掛けて差出した。
大工は恐れて足で鑿を挟み上げたところ大工はたちまちに死んでしまった。
境内図

事前に調べた感じでは、めちゃくちゃ境内社が多い。
しかし、この後に785段上がらなければいけない金刀比羅宮参拝を控えており、そこには充分時間を残しておきたいので、予定の時間を守るため、ちょっと慌ただしい参拝となった。
入口から随神門までの参道に、三組もの狛犬が居た。
一組目の石造狛犬。

通常と異なり、向かって右側が吽形となっている。


左側が阿形。


通常の向きの、向かって右側が阿形というのは、中国の天子に倣い我が国の天皇も必ず南面して座る。それに倣い神様も南面を通常とする。そうすると太陽は(神に向かって)右側(東)から上り、左側に沈むので、向かって右側が(神から見たら左側)が上位となる。
一方、「阿」は梵字で初韻であり「始まり」、「吽」は後韻であり「終」を意味するので、通常は阿形を神に向かって右側とする。
一方、陰陽学では、「阿」を陽とし雄として、「吽」を陰とし雌とする。
従って、ご祭神が女性の神社の場合には、向かって右側が上位であるので、吽形を右側に置く場合が見られる。
田村神社の主祭神が倭迹迹日百襲姫命であり女性なので、それに拠ったと考えられる。
結果としては、ここでは両方が混在していたが。
一の鳥居から随神門までまっすぐ参道が延びる。

中ほどに、二組目の青銅製狛犬があり、これも向かって右側が吽形となっている。




柱型の二の鳥居がある。

右側の柱

左側の柱

随神門(高麗門)

随神門の前にも狛犬が居る。

この狛犬は、通常の向かって右側が阿形である。




随神門とあるが、随神像はなく、造りから高麗門である。


手水舎


その先に、鳥居と社殿が見える。

鳥居をくぐると、「左近の桜」と「右近の橘」がある。
「左近の桜」

幾つかが開いてくれていた。

「右近の橘」


拝殿
入母屋造り。明治十年再建。

大きな唐破風に続く屋根は、優美な檜皮葺である。


拝殿内部

社額には「正一位田村大明神」とあり。

拝殿は入母屋造り。

奥殿本殿は、拝殿側からはわずかに屋根しか見えず。

奥に廻って、ようやく本殿は見えた。
春日造り。宝永七年(1710)松平氏の造営。

御神座は奥殿にあり奥殿の前方は本殿に接続し、床下に深淵があるのは洵に社殿構設上の異例である。
ご祭神:
•倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)
•五十狭芹彦命 (いさせりひこのみこと、=吉備津彦命)
配祀:
•猿田彦大神
•天隠山命 (あめのかごやまのみこと、=高倉下命)
•天五田根命 (あめのいたねのみこと、=天村雲命)
倭迹迹日百襲姫命は皇祖第七代孝霊天皇の皇女で崇神天皇の御代に疫病で人々が苦しむのを救い、また武埴安彦の謀反を予知し未然に防ぐなど数々の勲功を上げた事により百襲(襲は勲功の約)の名を負う。
後五十狭芹彦命と西海鎮定の命を奉じて讃岐國に下り農業殖産の開祖神となった。御陵(昼は人が造り夜は神がこれを造ったといわれ箸の陵といわれている)は大和国城上郡大市村にある。
五十狭芹彦命は倭迹迹日百襲姫命の弟に当たり、四道将軍の一人で西海を鎮定し吉備国の祖神となった。
猿田彦大神は皇孫瓊瓊杵尊降臨のとき天の八衢に出迎えて先導を申し出、道途の安全を守護した神でこの神の向かうところはいかなる禍神も恐れて避け奉ったといわれ方除神として神威まことに偉大である。
天隠山命は皇祖神武天皇の御東征の際、窮地を救った神で後に御子天五田根命と共に紀伊国より当国に渡り山河をもって国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定めた。
神紋は「五七桐」

続いて、たくさんの境内社への参拝だが、次回の記事とする。
田村神社(後半)を見る
「神社巡拝」に飛ぶ
「お気に入りの場所」に飛ぶ
スポンサーサイト
trackback
コメント
No title
四季歩さん、こんにちは
ここの駒犬は3つとも、違っていて、良いですね。青銅製のものは新しいものだと思いますが、それでも、よく見られるものとは形が違っていて良いですし。最後のものは形が面白いですし。
それにしても、ここの末社、あきれるほど数が多いですね!
ここの駒犬は3つとも、違っていて、良いですね。青銅製のものは新しいものだと思いますが、それでも、よく見られるものとは形が違っていて良いですし。最後のものは形が面白いですし。
それにしても、ここの末社、あきれるほど数が多いですね!
matsumoさん
コメントありがとうございます。
もともと神社というのは、「祓え」の場所だったと
おもうのですが、
維持するためには必要だとは思うのですが、「縁結び」
とか現世利益を謳うところが多いです。
その最たるところが、ここだと思います。
もともと神社というのは、「祓え」の場所だったと
おもうのですが、
維持するためには必要だとは思うのですが、「縁結び」
とか現世利益を謳うところが多いです。
その最たるところが、ここだと思います。