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村上水軍博物館

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所在地:愛媛県今治市宮窪町宮窪1285番地む
参拝日:2020年3月24日

「青春18キッブの旅2020春」の3日目、今治駅前のホテルを出発、レンタカーで「しまなみ海道」を北上、大三島の伊予国一之宮・大山祇神社に参拝。
そこから道の駅二つで土産物購入と昼食を済ませ、今治に戻る途中で大島にある村上水軍博物館に寄った。

大島の地図
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村上水軍博物館
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館内に入る前に、外の展示物を見た。

小説『村上海賊の娘』本屋大賞受賞記念のレリーフ。
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小早船
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入り口前に「村上景親公」の像があり。
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『村上海賊の娘』では、主人公「景」の弟でおもり役として各場面で活躍していたが、今回調べたらその経歴に吃驚した。

村上 景親は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。小早川氏・毛利氏家臣。父は能島村上氏当主の村上武吉。
景親は小早川隆景の下に属し、隆景が九州平定後の天正15年(1587年)に筑前と筑後の大名となると6,000石[2] を与えられて同格おとな役(家老)となる。
天正20年(1592年)4月から始まる文禄の役では兄・元吉と共に吉川広家に従って朝鮮に渡海し、同年6月5日の茂渓の戦いでは、孫仁甲が率いる朝鮮軍が、景親が守る茂渓の砦を攻めたが、景親の軍は奮戦して朝鮮軍を撃退した上で追撃し、数百人を討ち取った。その際に景親は負傷した。
文禄4年(1595年)に小早川隆景が隠居すると、養嗣子の小早川秀秋の家臣として仕えた。慶長2年(1597年)6月13日に小早川隆景が死去すると小早川氏を辞去して屋代島(周防大島)へと移り住んだところ、輝元の招聘を受けて毛利氏に帰参する。
慶長5年(1600年)、兄・元吉と共に水軍を率いて蜂須賀氏の所領であった阿波国の猪山城を降伏させた。その後は輝元の命を受けて元吉と分かれ、毛利軍の一員として安濃津城の戦いや大津城の戦いに参加した。関ヶ原の戦いによって毛利氏が防長2ヶ国へ移封となった後は屋代島の内で1,500石を与えられて父・武吉と共に移住し、毛利家御船手組の組頭となった。また、輝元が剃髪して「宗瑞幻庵」と名乗ると、景親も剃髪して「如真」と名乗った。
慶長15年(1610年)2月9日に死去。

博物館に入る。
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実はコロナ禍が始まっており、この日まだ開館しているかヒヤヒヤしていた。
まだ、やっていて実にラッキーだった。
受付で、どこから来たか調査していて、どこから来ているのかのぞいたら、東北から8名、関東から13名と、私も含め遠くから来ている人がいて、「村上海賊」の人気はさすがだなと思った。

【一階ホール】
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まずは、能島村上水軍の歴史について、博物館配布の資料でおさらい。
■海賊たちの跳梁
 9世紀頃から西日本の各地で海賊たちが跳梁するようになった。厳しい収奪を逃れた浮浪農民や、土地などの生産手段を保証されない海民たちは、国家の手の届かぬ瀬戸内の海辺や島々に住みついた。彼らはひと度飢餓に及べば、直ちに食料を求めて目の前を航行する船を襲った。中央政府は度々地方に海賊の追討を命じたのだが、成果は一向に上がらなかった。
■三島村上氏
 瀬戸内では、漁民たちの長は「ムレギミ」と呼ばれたが、のちこれが転じて「村上」になったという。鎌倉時代の終わり頃から、村上氏たちは瀬戸内各地で台頭し、南北朝動乱期、彼らは南朝に属して戦い、次第に海の武士団(海賊)として市民権を得た。
村上一族を組織したのは、南朝の重臣北畠氏であるという。
 芸予の村上氏はいずれも北畠師清をその始阻とし、師清の孫雅房・吉豊・吉房の三人が各々、芸予諸島の島々に定着し、能島・因島・来島の村上三家を立て、「三島村上氏」を称した。
■能島村上水軍
 三島村上氏の中で最も早く歴史に姿を現すのは、能島村上氏であった。1349年(貞和5)、初めr野島」の名が見られ、1405年(応永12)には「能島衆」が登場する。室町初期の能島衆は、一方で海上警固により東寺から報酬(酒肴料)を得ると共に、一方では末寺額荘園弓削島を侵略するといった、未だ瀬戸内海衆の一集団にすぎなかった。しかしこののち、周辺海賊衆との結束を固め、芸予から防予海域に勢力を拡大し、中部瀬戸内海の主要な航路・拠点を掌握する大海賊衆へと成長した。
室町幕府・守護体制の確立に伴い、村上氏は一応、河野氏を主家と仰いではいるが、河野氏からの知行宛行はほとんど見られない。この頃は、その財政は多く水先案内・海上警固・海上運輸といった独自な海上活動に伴う収入に依っていたようである。
■海賊大将軍 村上武吉
 能島水軍が全盛を謳歌するのは、戦国時代、村上武吉が当主の時である。現在の宮窪に本拠を構えて能島と号し、中・西部聴戸内海に監視・連絡網を設け、要所要所に城砦を構え、堺から坊津までといわれた海上王国を実現した。
能島水軍は、小舟を多く駆使する機動戦、火薬の活用(熔熔玉)など、海上戦闘の達人であった。能島衆は、弘治の厳島合戦参戦・勝利後、永禄の尼子・大友合戦、天正の木軌Il合戦と、毛利氏の中国・九州平定に協力し、瀬戸内全域に勢力を延ばした。そして自らの海上権益を守るため、瀬戸内交通の実力支配を背景として、毛利・大友・島津氏ら近隣の大大名と相互に海上権益を保障しあう盟約を結んだ。
武吉は、上関・厳島・塩飽などの札浦で、瀬戸内を航行する船舶から帆別銭・駄別銭などの関税を徴収し、それらに丸に上の字の過所旗を与え、その無害通行を保証した。今日我々は、戦国期村上氏の海上支配の実際を、武吉を制定者とする多くの瀬戸内の廻船大法に見ることができよう。
■海賊禁止令
1587年(天正15)、豊臣秀吉は、海上に私的な関所を設け、通行税を取り立てる行為融旬暁行為として禁止した。この年、村上元吉は部下の斎灘での海賊行為を厳しく責任追及され、小早川隆景の筑前移封に伴い、筑前に移住し、能島水軍の歴史は終わった。こののち村上氏は毛利氏の御船手(水軍)に転化していった。

〇河野通之宛行状(こうのみちゆきあてがいじょう)
1405年(応永12年)に能島衆(能島村上氏)の存在がわかる書状
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〇能島村上家先祖覚書
江戸時代
能島村上家の武吉・元吉・景親の生没年を記す。
武きちのところには、厳島合戦で毛利元就に味方したと書かれている。
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厳島合戦は、奇襲により毛利元就が陶晴賢を破った戦いで、「日本三大奇襲戦」の一つに挙げられている。

〇毛利輝元書状
1582年(天正10年)
織田・毛利間の戦争が展開するなか、来島村上氏は織田方に走ったが、能島村上氏は変わらず毛利氏へ協力する姿勢を保った。毛利氏が来島村上氏の旧領「能美島」を能島村上氏に与えることを約束した文書。
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一階ホールには、村上海賊の雄姿を描いた和紙人形が飾られてあった。
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【一階ホールから二階への階段】
ロビーから二階に上がる階段に沿って、能島村上水軍の説明画が掲げられてあった。

〇村上三島水軍の台頭
能島城跡
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〇海賊の生業
通行料を受け取るかわりに海の安全を保証した。
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〇村上水軍の用いた武器
やがらもがら、火矢、焙烙など、火攻めの武器が中心。
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〇第一次木津川口の合戦
織田水軍と激突する村上水軍。
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〇第一次木津川口の合戦
石山本願寺への兵糧入れ。
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〇羽柴秀吉の四国攻めと海賊禁止令
国分山城に迫る秀吉方の軍
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〇村上武吉とフロイス
能島を見るフロイス
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〇江戸時代の伊予水軍
朝鮮通信使を警護する毛利水軍
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〇秋山真之と日本海海戦
1904年に始まった日露戦争最後の決戦。
この海戦で連合艦隊がとった「丁字戦法」は秋山が研究した能島流水軍戦法の応用とも云われている。
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【展示室】
二階の展示室は、残念ながら撮影禁止だった。
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村上武吉が着たと伝承の「猩々陣羽織」も展示してあったが、撮影できなかったので、博物館パンフレットから転載。
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【展望デッキ】
デッキに出ると、能島をはじめとする周辺の海が見渡せる。

まずは、能島である。
正面が能島。
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能島の左側が「宮窪瀬戸」
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能島の右、鵜島との間が「荒神瀬戸」。
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左側が鯛崎島で、右側が能島。
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ここの能島城を再現した絵がこれ。
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さきの再現の絵にも出ているが、能島の先端には、四阿が見える。
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鯛崎島の先端には、お地蔵さんが座っているのを発見!
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鵜島の先端にも、物見櫓みたいなものが再現されていた。
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★展望デッキから、村上水軍博物館前の海を全部見渡した動画を撮影してきました。
ユーチューブにアップしたので、見てください。

その動画を見る


潮流観光船で有名な「船折瀬戸」は、能島の向こうなので見えない。
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【秋山真之と村上海賊】
司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んでから、秋山真之は好きな人物である。
真之は松山出身であり海軍なので、村上水軍とは関係あるなとは思っていたので、この博物館に「秋山真之と村上海賊」という図録があったので購入してきた。
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秋山家は、伊予の河野氏の出てあるとのこと。
あの一遍上人と、ルーツが同じということで、また嬉しくなった。

真之が海軍戦術を考案する際に、村上海賊の戦法を熱心に研究したのは当然といえる。

〇舟戦以律抄
江戸時代中期
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〇野嶋流海賊古法
正徳元年
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〇能島家傳
住田文庫 江戸時代
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〇丁字戦法
日露戦争でバルチック艦隊との海戦で使用した「丁字戦法」は、秋山真之が起案したことになっている。
この海戦で、バルチック艦隊37隻のうち19隻撃沈、5隻を捕獲して、日本の大勝利に終わった。
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〇「天気晴朗なれど波高し」
バルチック艦隊を発見し連合艦隊が出撃する際に、司令長官東郷平八郎が発信し、海軍軍令部が受けた電報。
飯田久恒参謀らの草案に、秋山真之が「本日天気晴朗ナレ共波高しシ」と付け加えたと云われている。
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埼玉県飯能市の「秩父御嶽神社」には、東郷平八郎元帥の銅像と共に、旗艦・三笠の被弾甲板が置かれている。
東郷長官(当時)の乗る旗艦三笠は、ロシア軍の集中砲火をあび、甲板は蜂の巣状になった。
間近で実物を見ると砲弾の破壊力がよく分かります。甲板の装甲なので厚さは2~3センチ程度ですが、固い鉄板が障子が破れたような形になって捲れている。
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念願だった、村上水軍博物館を見ることができ、非常に満足して、この旅の最終立ち寄り地「今治城」に向かって、しまなみ海道を南下した。


続いて「今治城」の記事を見る



「四季歩のお気に入りの場所」に飛ぶ



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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは

なるほど、海賊と言っても、所謂、商船を襲ったり、村を襲ったりするのではなく、関所を設けて、そこからお金を集めていたわけですね。いわば、海の野武士と言った感じのようですね。

村上海賊って、信長や秀吉の小説等に僅かに出てくる脇役的な感じですが、小説、
「村上海賊の娘」がヒットしたので、以前より人気が出てきた感じがします。

matsumoさん

コメントありがとうございます。
なにしろ、私は海なし県で育ったので、
しかも今も海の無い「跳んで埼玉」に住んでいるので、
海に対するあこがれが強いですね。
海を生業にしている人達はすごいと思いますね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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