川越祭りの探索/川越まつり会館、川越氷川神社、川越市立博物館
20201118
探索日:2020年10月17日
所属する歴史クラブの「伝統芸能・祭りの探求」グループで、10月の企画として「氷川神社本殿彫刻公開を見る・神幸祭の見学・山車の探求」を予定していたが、肝心の祭りがコロナ禍で中止となってしまった。
それではどうしようかと幹事で相談して、関係場所を探索して川越祭りの歴史の勉強をすることにした。
川越祭りがされるはずだった17日(土)に、参加者が本川越駅に集合した。あいにくの雨で人数はだいぶ減ったが元気よくスタート。
【川越まつり会館】
所在地:川越市元町2-1-10
有名な蔵造の街のメインストリートにある。
雨の中歩いて来て飛び込んだので外観の写真を撮らなかったため、サイトの写真を借用。

中に入ると、まずは川越まつりの準備関係の説明が展示されている。
その一部。



祭の際に設けられる「会所」の再現。
横にある人形は、連雀町の山車の人形「太田道灌」の初代。

まつり宿を会所または神酒所と呼び、文字どおり、神と人、人と人が会う場所。祭礼の都度、各町内に設けられる。
山車展示ホール

大型スクリーンで祭りの様子のビデオを見て、ガイドさんから山車の説明を受けた。
展示されている山車は定期的に入れ替えられる。
展示されていたのは:
幸町の山車「鈿女」
天鈿女命の人形が据えられている。

川越市の山車「猩猩」

二階に上がるスロープから、山車の装飾は間近に見ることができる。

二階の展示コーナーには、江戸時代の絵巻と絵馬が展示されていて、これを読み解くと江戸時代と現在の変遷がわかる。
◎『氷川祭礼絵巻』
文政9年(1826)に書かれたもので、長さ18メートルもある。
ここでは複写したものを7つのパネルに分けて展示してある。

★神幸祭
最初のパネル一枚の分が神幸祭(神輿行列)の部分である。
左上の川越城に向かって行列が描かれている。

ここに描かれている行列の構成と、私が2012年に撮影した行列と比較してみた。
江戸時代神輿行列の編成は、先導、榊、太鼓、四神旗、猿田彦、獅子頭、巫女、神輿二基、神馬、乗馬宮司となっている。
絵巻で「猿田彦、靑獅子、赤獅子」の部分。

現在も「猿田彦、靑獅子、赤獅子」となっている。

絵巻は、乗馬した宮司で終わる。

現在も宮司さんは乗馬。

現在は、その後に「斎姫輿」が続いて神輿行列は終わる。

※江戸時代の神幸祭と現在(2012年)の神幸祭を比較すると、
現在は「斎姫輿」が増えている。
大宮氷川神社の神幸祭を調べたが、「斎姫」とか「斎王」は登場しない。
川越祭りは、慶安年間に城主の松平信綱によって、江戸の天下祭りを参考にして起こされたとされている。
江戸の天下祭りである、赤坂・山王日枝神社の神幸祭、神田明神の神幸祭の両者は過去に見学しているので、その資料から構成を確認したが、「斎姫」または「斎王」 の存在は無い。
私が知っているのでは、京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社 (上賀茂神社)の「葵祭」では、「斎王代」が参加して、重要な神事を司っている。
★附け祭り
『氷川祭礼絵巻』の残り6枚のパネルに描かれているのは、当時存在した10ケ町の「附け祭り」の行列である。

京都の祇園祭に代表されるように、普段抑圧されていた町衆のエネルギーが爆発したものが「附け祭り」。
川越でも、各町の山車、踊り屋台、底抜け屋台、仮装行列などの練り物が随行した。
現在の東京の神田祭りでも附け祭りがあり、相馬野馬追いの騎馬隊とか、大学のサークルとか、企業の山車とかが行列を組み、昨年はそれを中心に見に行った。
〇喜多町の行列
このパネル一枚すべてが喜多町の分。
先頭にシンボルの「田原藤太藤原秀郷」の山車がある。これが現在の豪華な山車に発展する。

〇鍛冶町、志多町、上松江町の行列
このパネルには、3ケ町の行列が描かれている。
上段が、鍛冶町でシンボルの山車は「子狐丸」。
中段が志多町でシンボルの山車は「宝玉」。
下段が上松江町でシンボルの山車は「浦島」。

◎『氷川祭礼絵馬』
天保15年(1844)に描かれたもの。
10ケ町すべての山車が一本柱形式に統一され、勾欄に人形を乗せている。

これは、喜多町の「田原藤太藤原秀郷」の山車。

この山車の人形が、川越氷川神社の本殿が新築される際に彫刻の素材として組み込まれている。
「秀郷の彫刻」
琵琶湖の主の大蛇から宿敵三上山の百足退治を頼まれた秀郷が瀬田の大橋の上から百足に向かって矢を放つところ。傍らに竜王の娘乙姫が控えている。

現在の喜多町の山車の人形「秀郷」

◎現在の附け祭
明治から大正にかけて、伝統を持つ各町でも山車、人形の改修、新調が続き、豪華なものになった。
囃子台が360度回転する川越独自の構造も、この頃に始まる。
一方では、山車の後ろに続いて練り歩いたものが次第に姿を消し、豪華な山車が主体となった。

通路には、川越まつりの写真や、各年のポスターなどが展示されている。

これは、仲町の羅陵王の豪華な山車のミニチュア。

これで祭り会館の見学を終えてお昼を食べなきゃいけないのだが、雨の中食べ物屋さんを探して歩くのが嫌だったので、祭り会館の人に何軒か教えてもらい、近くて暖かいものが食べられるお店でホッと一息。
それから20分ほど雨の中を歩いて、川越氷川神社に。
【川越氷川神社】
所在地:川越市宮下町2丁目11−3
ここでも雨の中で写真が撮れなかったので、以前のものを流用。

今回は、本殿の彫刻を見たいのだが、通路沿いの一面しか見ることはできない。
本殿に向かって右側に通路があり、そこから本殿がこのように見える。

上には「源義家」の彫刻、腰には右から「子狐丸」、「手力男命」、昇勾欄の下に「浦島」の彫刻がある。
他の面の彫刻は、氷川神社例大祭のときに「本殿彫刻の公開」があり、瑞垣の中に入れてもらって間近に三面の彫刻を見ることが出来る。
今年はコロナ禍のため、彫刻公開も中止となってしまった。
幸い、私は同じ歴史クラブの人から氷川神社発行の彫刻の写真集をいただいていたので、この日の参加者にはそれを見てもらった。
〇源義家の彫刻
場面は「勿来の関」
東国経営に携わっていた義家が、勿来の関の道に散る山桜を詠じている。
「吹く風をなこその関とおもへども道も狭に散る山櫻かな」/千載集

この彫刻は、江戸時代の10ケ町の山車の人形から採ったのではない。
明治になって以降増えた山車の中で、野田五町の山車がこの彫刻から山車の人形を採用した。
野田五町の山車人形「八幡太郎」
この町の山車の写真は撮ってなくて、祭り会館に飾られていた初代の人形を載せておく。

〇子狐丸の彫刻
朝命を受けて刀を打つが、思うようなものが出来ず伏見稲荷に願をかけた三条小鍛冶宗近に、伏見稲荷の神霊が子狐丸に化けて鍛錬の相槌を打っている場面。
(謡曲『小鍛冶』

これは鍛冶町の山車の人形「子狐丸」から採られた彫刻。
『氷川祭礼絵巻』に描かれた、鍛冶町の山車「子狐丸」。

現在の町名は、幸町となり、山車の人形は同じく「子狐丸」。

〇手力男命の彫刻
手力男命が岩戸を持ち、天鈿女命が踊っている。
天岩戸の場面である。

この彫刻のもとになった、『絵馬』に描かれている南町の山車の人形「手力男命」。

江戸時代の南町は現在幸町となっており、その山車は「翁」に変わっている。
しかし、この彫刻に登場している天鈿女命が芸能の神ということで人気が高く、現在は大手町と今成の二つの町の山車の人形が「鈿女」になっている。

〇浦島の彫刻

この彫刻のもとになった、『氷川祭礼絵巻』に描かれている上松江町の山車の人形「浦島」。

現在の町名は松江町二丁目であり、その山車は変わらず「浦島」の人形。

本殿の彫刻の確認を終え、近くの川越市立博物館に移動。
【川越市立博物館】
所在地:川越市郭町2丁目30−1
ここでも雨の中で写真が撮れなかったので、パンフレットのものを流用。

ここの常設展の内容が充実しているのだが、この辺のは今日は見ないで奥へと急ぐ。


川越まつりの展示では、最初に屋台での踊りで活躍するひょっとこやおかめなどのお面が並ぶ。

「羅陵王」の山車の人形の面もあった。

★川越氷川神社本殿彫刻


〇頼朝の図
ここには本殿北側大羽目に三枚続きの彫刻のうち、最右の一枚が展示されていた。

本殿北側大羽目

三枚続きの彫刻を二枚に詰めて上げておく。
この構図は通称「鶴ヶ丘」と呼ばれる。構図の中心は頼朝が鶴岡八幡宮の祭礼「放生会」に際して千羽鶴を放つ姿である。歌川国貞の作品を参考にしたらしい。鳥籠に飼われた鶴、由比が浜の青空高く舞い飛ぶ鶴の群れ等である。


〇牛若丸の図
鞍馬山を下った牛若丸が奥州平泉に下向する途中、三河の国で容色美麗な浄瑠璃姫に出合い、横笛を拭く姿。浄瑠璃節発祥の物語だそうである。

この彫刻から、元町一丁目の山車の人形のもとになっている。

〇唐子が鶏と遊ぶ図。

これは、多賀町の山車の「諌鼓鳥」という人形からきている彫刻。

「諌鼓鳥」というのは、中国の尭帝が朝廷の門前に諫鼓を置いて、政道の誤りに対して訴えの時にたたいて鳴らせた。政道の誤りが無い為、諫鼓が鳴らせられることがなく、いつも鳥が止まっていたという故事によるもの。
江戸の天下祭りでは、必ず先頭だったといわれ、現に現在の天下祭・赤坂山王日枝神社の神幸祭でも諌鼓鳥が先頭を行っていた。

〇猿の三番叟の図

これは、江戸時代の高沢町の山車「山王」からきている。

江戸の現赤坂の山王日枝神社は、大田道灌が川越から勧請した神社だが、日枝神社のお使いは猿である。
現在の町名は元町二丁目となり、現在の山車人形は猿の面を付けたり外したりする。

〇関羽と周倉の図
関羽と周倉が食卓を囲んで歓談している図。周倉は関羽の片腕として刎頸の交わりをした勇将。

これは江戸時代の町名・本町の山車「関羽と周倉」からきている。

現在の町名は、元町一丁目となり、山車人形は前述の「牛若丸」となっている。
これで博物館に展示されている彫刻についての対比は終了。
近くには、山車の模型が二つ展示してあった。
〇幸町・「翁」の山車

川越独自の構造、360度回転する廻り舞台。

翁の人形

〇岸町二丁目・木花咲耶姫の山車


あと、「喜多町・田原藤太の山車」、「幸町・翁の山車」、「六軒町・三番叟の山車」、「松江町一丁目・龍神の山車」の4基の写真が展示してあった。
ここでは、「六軒町・三番叟の山車」を紹介しておく。



これで、市立博物館での川越まつり関係の調査は終り。
集合時間まで、「土蔵造りの構造の模型」、「建前、地盤の附き固めの模型」、「縄文時代の文化」、「川越市で出土した丸木舟」、「川越市で出土した埴輪」、「かなり大きな銅造阿弥陀三尊懸仏」などを見て過ごした。
もう、かなりの記事になっているので、その写真は割愛する。
そのあと、近くにある、全国で二つしか残存してない本丸御殿を見たあと、バスで駅まで戻り帰宅した。
(了)
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所属する歴史クラブの「伝統芸能・祭りの探求」グループで、10月の企画として「氷川神社本殿彫刻公開を見る・神幸祭の見学・山車の探求」を予定していたが、肝心の祭りがコロナ禍で中止となってしまった。
それではどうしようかと幹事で相談して、関係場所を探索して川越祭りの歴史の勉強をすることにした。
川越祭りがされるはずだった17日(土)に、参加者が本川越駅に集合した。あいにくの雨で人数はだいぶ減ったが元気よくスタート。
【川越まつり会館】
所在地:川越市元町2-1-10
有名な蔵造の街のメインストリートにある。
雨の中歩いて来て飛び込んだので外観の写真を撮らなかったため、サイトの写真を借用。

中に入ると、まずは川越まつりの準備関係の説明が展示されている。
その一部。



祭の際に設けられる「会所」の再現。
横にある人形は、連雀町の山車の人形「太田道灌」の初代。

まつり宿を会所または神酒所と呼び、文字どおり、神と人、人と人が会う場所。祭礼の都度、各町内に設けられる。
山車展示ホール

大型スクリーンで祭りの様子のビデオを見て、ガイドさんから山車の説明を受けた。
展示されている山車は定期的に入れ替えられる。
展示されていたのは:
幸町の山車「鈿女」
天鈿女命の人形が据えられている。

川越市の山車「猩猩」

二階に上がるスロープから、山車の装飾は間近に見ることができる。

二階の展示コーナーには、江戸時代の絵巻と絵馬が展示されていて、これを読み解くと江戸時代と現在の変遷がわかる。
◎『氷川祭礼絵巻』
文政9年(1826)に書かれたもので、長さ18メートルもある。
ここでは複写したものを7つのパネルに分けて展示してある。

★神幸祭
最初のパネル一枚の分が神幸祭(神輿行列)の部分である。
左上の川越城に向かって行列が描かれている。

ここに描かれている行列の構成と、私が2012年に撮影した行列と比較してみた。
江戸時代神輿行列の編成は、先導、榊、太鼓、四神旗、猿田彦、獅子頭、巫女、神輿二基、神馬、乗馬宮司となっている。
絵巻で「猿田彦、靑獅子、赤獅子」の部分。

現在も「猿田彦、靑獅子、赤獅子」となっている。

絵巻は、乗馬した宮司で終わる。

現在も宮司さんは乗馬。

現在は、その後に「斎姫輿」が続いて神輿行列は終わる。

※江戸時代の神幸祭と現在(2012年)の神幸祭を比較すると、
現在は「斎姫輿」が増えている。
大宮氷川神社の神幸祭を調べたが、「斎姫」とか「斎王」は登場しない。
川越祭りは、慶安年間に城主の松平信綱によって、江戸の天下祭りを参考にして起こされたとされている。
江戸の天下祭りである、赤坂・山王日枝神社の神幸祭、神田明神の神幸祭の両者は過去に見学しているので、その資料から構成を確認したが、「斎姫」または「斎王」 の存在は無い。
私が知っているのでは、京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社 (上賀茂神社)の「葵祭」では、「斎王代」が参加して、重要な神事を司っている。
★附け祭り
『氷川祭礼絵巻』の残り6枚のパネルに描かれているのは、当時存在した10ケ町の「附け祭り」の行列である。

京都の祇園祭に代表されるように、普段抑圧されていた町衆のエネルギーが爆発したものが「附け祭り」。
川越でも、各町の山車、踊り屋台、底抜け屋台、仮装行列などの練り物が随行した。
現在の東京の神田祭りでも附け祭りがあり、相馬野馬追いの騎馬隊とか、大学のサークルとか、企業の山車とかが行列を組み、昨年はそれを中心に見に行った。
〇喜多町の行列
このパネル一枚すべてが喜多町の分。
先頭にシンボルの「田原藤太藤原秀郷」の山車がある。これが現在の豪華な山車に発展する。

〇鍛冶町、志多町、上松江町の行列
このパネルには、3ケ町の行列が描かれている。
上段が、鍛冶町でシンボルの山車は「子狐丸」。
中段が志多町でシンボルの山車は「宝玉」。
下段が上松江町でシンボルの山車は「浦島」。

◎『氷川祭礼絵馬』
天保15年(1844)に描かれたもの。
10ケ町すべての山車が一本柱形式に統一され、勾欄に人形を乗せている。

これは、喜多町の「田原藤太藤原秀郷」の山車。

この山車の人形が、川越氷川神社の本殿が新築される際に彫刻の素材として組み込まれている。
「秀郷の彫刻」
琵琶湖の主の大蛇から宿敵三上山の百足退治を頼まれた秀郷が瀬田の大橋の上から百足に向かって矢を放つところ。傍らに竜王の娘乙姫が控えている。

現在の喜多町の山車の人形「秀郷」

◎現在の附け祭
明治から大正にかけて、伝統を持つ各町でも山車、人形の改修、新調が続き、豪華なものになった。
囃子台が360度回転する川越独自の構造も、この頃に始まる。
一方では、山車の後ろに続いて練り歩いたものが次第に姿を消し、豪華な山車が主体となった。

通路には、川越まつりの写真や、各年のポスターなどが展示されている。

これは、仲町の羅陵王の豪華な山車のミニチュア。

これで祭り会館の見学を終えてお昼を食べなきゃいけないのだが、雨の中食べ物屋さんを探して歩くのが嫌だったので、祭り会館の人に何軒か教えてもらい、近くて暖かいものが食べられるお店でホッと一息。
それから20分ほど雨の中を歩いて、川越氷川神社に。
【川越氷川神社】
所在地:川越市宮下町2丁目11−3
ここでも雨の中で写真が撮れなかったので、以前のものを流用。

今回は、本殿の彫刻を見たいのだが、通路沿いの一面しか見ることはできない。
本殿に向かって右側に通路があり、そこから本殿がこのように見える。

上には「源義家」の彫刻、腰には右から「子狐丸」、「手力男命」、昇勾欄の下に「浦島」の彫刻がある。
他の面の彫刻は、氷川神社例大祭のときに「本殿彫刻の公開」があり、瑞垣の中に入れてもらって間近に三面の彫刻を見ることが出来る。
今年はコロナ禍のため、彫刻公開も中止となってしまった。
幸い、私は同じ歴史クラブの人から氷川神社発行の彫刻の写真集をいただいていたので、この日の参加者にはそれを見てもらった。
〇源義家の彫刻
場面は「勿来の関」
東国経営に携わっていた義家が、勿来の関の道に散る山桜を詠じている。
「吹く風をなこその関とおもへども道も狭に散る山櫻かな」/千載集

この彫刻は、江戸時代の10ケ町の山車の人形から採ったのではない。
明治になって以降増えた山車の中で、野田五町の山車がこの彫刻から山車の人形を採用した。
野田五町の山車人形「八幡太郎」
この町の山車の写真は撮ってなくて、祭り会館に飾られていた初代の人形を載せておく。

〇子狐丸の彫刻
朝命を受けて刀を打つが、思うようなものが出来ず伏見稲荷に願をかけた三条小鍛冶宗近に、伏見稲荷の神霊が子狐丸に化けて鍛錬の相槌を打っている場面。
(謡曲『小鍛冶』

これは鍛冶町の山車の人形「子狐丸」から採られた彫刻。
『氷川祭礼絵巻』に描かれた、鍛冶町の山車「子狐丸」。

現在の町名は、幸町となり、山車の人形は同じく「子狐丸」。

〇手力男命の彫刻
手力男命が岩戸を持ち、天鈿女命が踊っている。
天岩戸の場面である。

この彫刻のもとになった、『絵馬』に描かれている南町の山車の人形「手力男命」。

江戸時代の南町は現在幸町となっており、その山車は「翁」に変わっている。
しかし、この彫刻に登場している天鈿女命が芸能の神ということで人気が高く、現在は大手町と今成の二つの町の山車の人形が「鈿女」になっている。

〇浦島の彫刻

この彫刻のもとになった、『氷川祭礼絵巻』に描かれている上松江町の山車の人形「浦島」。

現在の町名は松江町二丁目であり、その山車は変わらず「浦島」の人形。

本殿の彫刻の確認を終え、近くの川越市立博物館に移動。
【川越市立博物館】
所在地:川越市郭町2丁目30−1
ここでも雨の中で写真が撮れなかったので、パンフレットのものを流用。

ここの常設展の内容が充実しているのだが、この辺のは今日は見ないで奥へと急ぐ。


川越まつりの展示では、最初に屋台での踊りで活躍するひょっとこやおかめなどのお面が並ぶ。

「羅陵王」の山車の人形の面もあった。

★川越氷川神社本殿彫刻


〇頼朝の図
ここには本殿北側大羽目に三枚続きの彫刻のうち、最右の一枚が展示されていた。

本殿北側大羽目

三枚続きの彫刻を二枚に詰めて上げておく。
この構図は通称「鶴ヶ丘」と呼ばれる。構図の中心は頼朝が鶴岡八幡宮の祭礼「放生会」に際して千羽鶴を放つ姿である。歌川国貞の作品を参考にしたらしい。鳥籠に飼われた鶴、由比が浜の青空高く舞い飛ぶ鶴の群れ等である。


〇牛若丸の図
鞍馬山を下った牛若丸が奥州平泉に下向する途中、三河の国で容色美麗な浄瑠璃姫に出合い、横笛を拭く姿。浄瑠璃節発祥の物語だそうである。

この彫刻から、元町一丁目の山車の人形のもとになっている。

〇唐子が鶏と遊ぶ図。

これは、多賀町の山車の「諌鼓鳥」という人形からきている彫刻。

「諌鼓鳥」というのは、中国の尭帝が朝廷の門前に諫鼓を置いて、政道の誤りに対して訴えの時にたたいて鳴らせた。政道の誤りが無い為、諫鼓が鳴らせられることがなく、いつも鳥が止まっていたという故事によるもの。
江戸の天下祭りでは、必ず先頭だったといわれ、現に現在の天下祭・赤坂山王日枝神社の神幸祭でも諌鼓鳥が先頭を行っていた。

〇猿の三番叟の図

これは、江戸時代の高沢町の山車「山王」からきている。

江戸の現赤坂の山王日枝神社は、大田道灌が川越から勧請した神社だが、日枝神社のお使いは猿である。
現在の町名は元町二丁目となり、現在の山車人形は猿の面を付けたり外したりする。

〇関羽と周倉の図
関羽と周倉が食卓を囲んで歓談している図。周倉は関羽の片腕として刎頸の交わりをした勇将。

これは江戸時代の町名・本町の山車「関羽と周倉」からきている。

現在の町名は、元町一丁目となり、山車人形は前述の「牛若丸」となっている。
これで博物館に展示されている彫刻についての対比は終了。
近くには、山車の模型が二つ展示してあった。
〇幸町・「翁」の山車

川越独自の構造、360度回転する廻り舞台。

翁の人形

〇岸町二丁目・木花咲耶姫の山車


あと、「喜多町・田原藤太の山車」、「幸町・翁の山車」、「六軒町・三番叟の山車」、「松江町一丁目・龍神の山車」の4基の写真が展示してあった。
ここでは、「六軒町・三番叟の山車」を紹介しておく。



これで、市立博物館での川越まつり関係の調査は終り。
集合時間まで、「土蔵造りの構造の模型」、「建前、地盤の附き固めの模型」、「縄文時代の文化」、「川越市で出土した丸木舟」、「川越市で出土した埴輪」、「かなり大きな銅造阿弥陀三尊懸仏」などを見て過ごした。
もう、かなりの記事になっているので、その写真は割愛する。
そのあと、近くにある、全国で二つしか残存してない本丸御殿を見たあと、バスで駅まで戻り帰宅した。
(了)
「お気に入りの場所」を見る
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コメント
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四季歩さん、こんにちは
川越祭りは2回、見たことがありますが、感激したのは、山車の後で、舞っている人がいることです。
以前に神田祭の際、秋葉原の大通りでの連合神輿渡御の際、確か、静岡から来た山車でやはり、踊っているのを見たことがありますが、極めて珍しいのではないでしょうか。それとも、埼玉県ではよくやられているのでしょうか。
川越祭りは2回、見たことがありますが、感激したのは、山車の後で、舞っている人がいることです。
以前に神田祭の際、秋葉原の大通りでの連合神輿渡御の際、確か、静岡から来た山車でやはり、踊っているのを見たことがありますが、極めて珍しいのではないでしょうか。それとも、埼玉県ではよくやられているのでしょうか。
matsumoさん
コメントありがとうございます。
埼玉県では、私が確認できているのは、
秩父夜祭の屋台と笠鉾でやはり舞って
います。
他にもあるのかもしれません。
埼玉県では、私が確認できているのは、
秩父夜祭の屋台と笠鉾でやはり舞って
います。
他にもあるのかもしれません。