曹操の墓が見つかった(2)

20100619

2009年12月27日、河南省安陽市郊外の西高穴村の「曹操高陵」を、三国時代に活躍した曹操(155-220年)の墓と断定したと発表した。
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番組では、それを三国志の世界に魅せられた俳優・北村一輝が考古学者と一緒に見て歩くというものだった。

どうして今まで、曹操の墓がわからなかったかというと、曹操の指示で「墓の上には塚を設けるな、木も植えるな」というものだったため、地表に何の目印もなかったことから唐時代以後に完全に位置がわからなくなってしまったようです。
また、「72の疑塚説」があります。盗掘を恐れた曹操が72基の陵墓を築き、都の門がすべて開かれて72台の棺を運ぶ車が四方八方へと発車して埋葬地を秘密にしたという伝説です


発掘調査が始まったころの写真。手前の右側半分。盗掘された穴が開いている。
左側にも誰のものかわからない墓がある。
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現在青い屋根がかけられているのが、曹操の墓。
畑の中にある。
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曹操の墓の入り口。
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墓の構造
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陵墓の面積は約740平方メートル。文物局が昨年12月から発掘を進めていた。大部分が盗掘されていたものの、二つの墓室の中からは、埋葬品や鉄剣が見つかった。
出土した銘のある石碑は59枚あり、長方形をしており銘文には副葬品の名称と数量が書かれていた。そのうち八枚の石碑には「魏武王常所用格虎大戟」と書かれており、かつてこの墓より盗掘されたとされる石枕の上にも「魏武王常所用慰项石」と書かれていることから相通じる内容であった。
陵墓内からは、60歳前後とみられる男性と2人の女性の頭や足の骨が見つかった。
2人の女性は夫人であろう。


俳優・北村一輝は「レッド・クリフ」や「三国志演義」などから、曹操を悪辣な人物だと思っていたようで、曹操ゆかりの地を訪ねるうち、その認識が変わっていく。

駅前に大きな曹操の像がそびえ立っている。
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町の人に聞くと、今でも曹操の人気が高い。
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鄴(ぎょう)を訪ねる。
袁紹の本拠地であったが、204年(建安9年)に曹操が侵攻して有名な「官渡の戦い」で袁紹を破り、拠点のひとつとし、銅雀台などの壮麗な宮殿を造営した。これ以降魏の主要都市として発展した。
ここにも曹操の大きな像が立っている。
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三国志の「魏書武帝紀」によると、曹操は建安25年(AD220年)の正月に洛陽で死去し、二月に棺によって運ばれ高い丘の上にある「西門豹の祠から西の原っぱの上」に葬られたとされている。

西門豹の祠
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西門豹とは、曹操よりも600年くらい前の人で、孔子の弟子であり、鄴の知事に起用された。
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当時鄴では、毎年に河に住む神(河伯)に若い女性と多大な財産を、巫女や三老と言われる長老や儀式を管理していた役人に差し出し、それらを河に沈めるという人身御供の儀式がしきたりとなっていた。これにより集められた金銭は膨大なもので、民衆の生活が困窮するほどであった。また年頃の娘がいる家は逃げ、その田畑は荒れ放題となっていた。
西門豹はこの迷信により、巫女・三老・役人が迷信に付け込み肥え太り、その分、農民達が困窮したので土地が枯れたと見た。更に灌漑が必要だが、迷信ある限り河に手を付けられないと判断し、まずはこの一掃に着手することにした。儀式が行われる日、河辺には巫女達と多数の見物人が居た。そこへ西門豹は見学したいと護衛を伴って参加した。そしていけにえの女性を見せられるや、「これでは器量が悪すぎる。もっと良い娘を連れて行きますので、待ってくださいと河の神に伝えられよ」と言い、「お怒りを買わぬためにも、使者には最も河の神と親しい者がよかろう」と巫女の老婆を河に沈めた。 しばらくして「沈めた巫女が帰ってこない。様子を見てこられよ」と言い、弟子の女性たちを河に沈めた。更に「弟子達も帰ってこない。河の神への願いが余程難航しているようなので、次いで河の神様に貢献している三老に手助けをお願いしよう」と言い三老が河に沈められた。更にしばらくして「おかしい、三老も帰ってこない。更に次いでとなると、多額の金銭を集めた役人であろうか」と役人達を沈めようとしたが、役人達は「その任は何卒お許しください」と平伏して詫びた。その顔色は血の気が引きすぎて土のような色で、更に頭を打ちすぎて流血するほどであった。西門豹はしばらく待った後、「どうやら河の神は客をもてなして帰さないようだ。皆も帰るがよい」と言った。役人も民衆も度肝を抜かれ、これ以降いけにえの儀式は行われなくなった。西門豹は河の神を信じている風にして、儀式の中心人物を反論できなくしたまま一掃し、迷信も一掃したのである。

次に西門豹は鄴付近の村の長老を呼び集め、黄河や漳河から鄴の田畑へ灌漑するという大事業を始めた。この大事業に対し鄴の人々は「今のままでも暮らしてはいける。何故これほどのことをやらねばならぬのか」不平不満を漏らしたが、西門豹は「この功績は100年後に評価される業績である」と述べ、工事を遂行させた。
この灌漑により、鄴の農業は大きく発展し、魏は強国となって列侯に並べられた。

彼の祠だとされる西門豹祠は、漳河河畔の鄴の故地である安陽市付近に多数ある。


曹操は、天下は安定していないので、葬儀が終わったら古いしきたりに従わなくて良い。葬儀が終わった後、喪に服さない。兵を率いるものは持ち場を離れるな。役人は職務を続けよ。遺体は平服で、金、玉、宝を埋葬してはいけない。
手に職を持っていない側室は、靴の作り方を覚えて売るがよい、と側室が自分の手で生きていくようにまで気を使い、
大雨のように涙を流して息を引き取ったという。

実際に今回見つかった墓にはその規模に対して副葬品はもとより墓所内の装飾も少なく、壁画もなく非常に質素なものである。

当時の長年に渡る戦乱の歴史から社会全体で生活水準は下がり、そのような環境から曹操は副葬品を質素にするべきだと提唱したのだろう。実際に曹操は非常に節約家で十年間も同じ布団を使い続け、その臨終の際も粗末な服を二重に着ていたそうだ。

やはり曹操は、立派な人物たったようで、それを裏付けるような番組だったので、曹操ファンの私としてはとても嬉しかった。

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コメント

No title

四季歩さん、こんにちは。
曹操って、実はいい人だったんですね@@;;
三国志が劉備を主人公として書かれているためか、曹操=悪の権化といったイメージがあったんですけど、よい政治を行った名君なのかと記事を読みながら再認識しました。充実した記事をありがとうございました。

渡 章魚禰(たこ)さん

コメントありがとうございます。

特に若いころ、乱れた世を正そうとして
突き進んでいく姿が好きです。

北方謙三の「三国志」に登場する
英雄、豪傑みんな素晴らしいですね。

No title

こんばんは

西門豹なる人物は知りませんでした。
鄴の礎を築いたと言っても過言ではない人なのですね。

流石、四季歩さんは博学です!

kurt2さん

コメントありがとうございます。

私も知りませんでしたが、曹操が「西門豹の祠の西に墓を」
と言ったことを知って、調べてみたら、
こんなに面白い話があったのですよ。

だから楽しいですよね。
調べることが。
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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