楊貴妃幻戯/谷恒生

20101208

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本屋で本を物色していたとき、この本が目にとまった。
そういえば、三国志とか水滸伝が好きなのに、楊貴妃は名前は知っているが、実際よく知らないな、と思って買った。
谷恒生が書いたんだから、面白く書けているはずだ、と。
伝奇小説と著者がうたっているとおり、そして本のタイトルに「幻戯」と入っているとおり、内容はいつものとおりの谷恒生らしいものだった。
「幻戯」というのは「幻術」と云った方がわかりやすい。
登場人物が術で争うのだが、楊貴妃の「幻戯」というのは素晴らしいもので、それで玄宗を魅了したのである。
「幻戯」は「性戯」と通じており、この小説のエロいことには参ったが、もちろん嫌いではない(笑)
大いに楽しんだ(笑)

知りたかった玄宗、楊貴妃など関係者についてはわかった。
この本を読んで、谷恒生の世界を楽しみながら、ネットでも関係者のことを調べた結果が下記である。

楊貴妃:
名前は楊玉環。楊玄淡の四女。
生まれながら玉環を持っていたのでその名がつけられたというものや、涙や汗が紅かったという伝説や、広西省の庶民の出身であり、生まれた時に室内に芳香が充満しあまりに美しかったので楊玄淡に売られたという俗説がある。
735年(開元23年)、玄宗と武恵妃の間の息子(寿王李瑁、第十八子)の妃となる。
740年(開元28年)、玄宗に見初められ、長安の東にある温泉宮にて、一時的に女冠となった。これは息子から妻を奪う形になるのを避けるためであり、実質は内縁関係にあったと言われる。
楊玉環は容貌が美しく、唐代で理想とされた豊満な姿態を持ち、音楽・楽曲、歌舞に優れて利発であったため、玄宗の意にかなった。
当時玄宗の寵を独占していた梅妃と寵を争い、勝つ。
745年(天宝4載)、貴妃に冊立される。

唐の後宮制度は隋のものを継承して皇后のほかに貴妃、淑妃、徳妃、賢妃の四妃があり、貴妃はその最高位にあり、権能は皇后に準ずる。
四妃の下に昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛の九嫁があり、さらにその下に姪好、美人、才人がそれぞれ九人ずつ、宝林、御女、采女が二十七人ずつ配されている。
四妃筆頭、貴妃は準皇后でもあり、後宮の頂点に君臨する王女の地位にのぼる。それだけに滅多な女には貴妃位をあたえられない。

玄宗の皇后「王妃」は子ができず、玄宗の寵愛が他の妃にうつって立場が微妙になり、やがて廃されて庶民となり、悲嘆の死をとげた。
それ以後玄宗は皇后は置かなかった。


玄宗:
玄宗は睿宗の第3子として生まれる。名は隆基。
玄宗が20歳になった705年、則天武后が中宗に禅譲する。
中宗の皇后である韋皇后は、則天武后に倣い政権を掌握すべく中宗を毒殺した。韋后は代わって擁立した殤帝を傀儡とし、自らに禅譲させようと企てていた。
若き玄宗が近衛軍団をひきいて宮廷に攻めいり、則天武后たらんとする野心をいだく韋皇后とその一派を殺して、これにより睿宗が復位、隆基はこの功により皇太子に立てられた。
そして帝位に就くと、唐王朝に吹きすさぶ血なまぐさい風もおさまり、天下泰平、高度経済成長の黄金時代が到来した。


則天武后:
玄宗の祖母。玄宗以前の中国歴史上、唯一の女帝。
聡明で、悪鬼羅剃もたじろぐほど残虐で、多情淫奔で、夜叉のごとき嫉妬の鬼で、このうえなく複雑怪奇な人間要素をごった煮のようにかくしていた一代の女傑。
無名に等しい武氏の出身である則天武后は、大唐帝国の二代唐太宗の後宮に十四歳で入り、寵を得た。唐太宗が死ぬと、後宮を出て尼寺にこもらされたが、彼女の才色兼備の噂をきいている太宗の子の高宗皇帝が、寺から召し出した。
則天武后は黒髪地獄の後宮をたたかいぬき、ついに皇后の地位にのぼると、軟弱な精神をそなえた高宗にかわってすべてを決裁するにいたった。高宗の死後、武后は科挙という上級公務員試験に合格して官界に入った新興官僚群を味方につけて、敵対する貴族集団を打倒し、女帝の座をゆるぎないものにした。
彼女は以後五十年にわたって大唐帝国に君臨した。


で、玄宗と楊貴妃はどうなったかというと、朝廷で楊貴妃の従兄楊国忠と塞外の胡出身の節度使安禄山が激しい権力闘争を行う。
玄宗のもとで唐は安定し発展し、強大な国となった。広大な唐を取り巻く異民族に対抗するための軍団の司令官が節度使で、軍事、経済すべての権限を持ったため、財と力を蓄えることができた。
安禄山は玄宗と楊貴妃に珍しい財宝を献じてうまく取り入り、楊貴妃の養子となってしまう。
755年に楊国忠が安禄山の事を玄宗に讒言した事が契機となり、自身の立場に危機感を覚えた安禄山は唐に対して反乱を起こした。反乱主導者の安禄山とその部下の史思明との名により安史の乱という。
洛陽の城内をながれる洛水の水が煮えたぎるほどの猛炎の中で、安禄山は『大燕聖武皇帝』と名のり、帝位に就いた。国は燕、年号は聖武である。
安禄山の攻撃に玄宗たちは蜀(四川省)へと避難を余儀なくされる。避難の途中で兵士達により楊国忠が殺害され、また楊貴妃も玄宗により殺されることとなった。国内が混乱する中の756年、玄宗は太子の李亨に位を譲り太上皇となった。安史の乱終結後、長安に戻った玄宗は半軟禁状態となり762年に崩御した。

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