秘すれば花なり/山崎澄彦

20110202

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この本は、619ページという長い話だが、面白くて一気に読んでしまった。

物語は、信長の「伊賀攻め」から始まる。
信長に睨まれた伊賀の一族が住む伊賀谷に通じる三本の道の6つの方角から寄せ手の軍が攻め込み、退路を断たれた伊賀一族を皆殺しにしたという話である。
このとき伊賀に隣接する柳生の里の柳生一族は、伊賀攻めに加わざるを得なかったが、頭領の柳生石舟斎は密かに伊賀衆を落ち延びさせることを図り、5男の又十郎がまだ11歳だったが密使の役目をさせる。
配下の忍びに助けられながら、又十郎はこの任務を果たした。
私は、この時伊賀の忍者は全滅したと思っていたが、この本によれば半分くらいは逃げだせたという。

本筋の話は、太閤の世になって石田三成が検地奉行として柳生の里に乗りこんできた時から始まる。
各大名への恩賞のため、それから太閤自身の費用捻出のため、土地が欲しかった豊臣秀吉は各地の豪族から土地を絞り取った。
この時の石田三成の傍若無人な振る舞いに腹を立てた又十郎と石田三成の間で言い争いがあり、この二人の確執がこの長い話の始まりとなる。
この時、柳生石舟斎は秀吉の甥にあたる秀次の指南役をしていたので油断しており、農民と一緒に開拓した田畑が帳簿に漏れていたのを、三成に厳しくつかれ、所領を全部没収されてしまう。

やがて、徳川家康に声をかけられた柳生石舟斎は、請われて「無刀取り」を家康自らが打ち太刀するのに対して披露する。
感心した家康はその場で誓文を書き、柳生石舟斎を指南役に請う。
石舟斎は同道していた、又十郎改め又右衛門を指南役として抱えてもらう。
又右衛門24歳である。

ここで、「無刀の術」である。
石舟斎は又右衛門に説く。
「心をとらわれねば、たとい十人して斬りかけられたとしても、最初の一太刀を受け流し、そのことを跡に心を留めず、次々と打ってくる相手の一太刀、一太刀を同じように受け流せれば、十人とも流れるように相手ができようぞ」。
「十度心は動いても、どの一人にも跡に心を留めるなと云うことじゃ。さすれば、次々に取り合いてもわが身は動転せず、相手が出来るということじゃ」
「そのために眼でのみならず、一切の執着を取り去った心で観ずることじゃ。それゆえ工夫がなければならぬ。ただ勝つための工夫ではない……」
「よいか又右衛門、技の冴えは、不動の勇じゃ。われ神仏と同根なり、一体なり、正義なり、と得心し得るその精神の捉えどころに発するものじゃぞ…⊥
「…‥・わが身は神仏と思えば、他人もまた神仏、相手を神仏と思えばいかなる場合にも、先に太刀は振るえぬはずや……柳生の剣は受けて立つ剣、それが無刀の心や」
「武具と武具とで渡り合うのでは、一方が死ぬか、さもなくば双方傷つき倒れる。素手で自刃をとれば双方無事で済もうと云うもの。これが兵法の境地」

石舟斎は、勝とうと思う気持ちや打たれることへの恐れ、そうしたとらわれから完全に離れ、本来あるべき心の自由さを獲得したときにはじめて、相手の動きに対して間髪を入れない対応が可能になる、というのである。

柳生の極意は「受け太刀」である。
相手に、先に仕掛けさせて、それに対して即座に応じて相手を打つ。
これが何事にも慎重な家康と、うまくマッチした。
剣法のみならず、兵法として活き、家康の傍に居て、家康が「又右衛門、どうじゃ」と振られた場合に、
「まずは、わざと相手を動かし、相手の出方によってこちらが動く。相手をこちらの望むように動かせたら上々」
と立案するので、家康に重用されるようになっていった。


朝鮮の役で豊臣恩顧の大名に恨まれ、彼らから攻められた石田三成が家康の屋敷に逃げ込むという、有名な場面の描写も面白い。

 ややあって、家康は肉の厚い瞼をあげ、大きく見ひらいた。「して佐渡どのは、どう思うぞ」
正信は小さく領きながら、「治部を葬り去る好機には違いござらぬが、さりとて徳川が、豊臣恩顧の大名たちの奢りを、見て見ぬふりしたとあっては、今後の仕置きはなり難く、かえつて信を失ってしまうことに相成りまする。それより、始末すればできたものを、と皆が思ういまこそ、治部を助けることで徳川の衆望は高まりまする。治部は骨でも抜いて、佐和山にでも蟄居させれば十分でござろう」 と白髪頭をゆらした。
すでに天下取りの猛志に燃えていた家康は静かに瞑目した。
が、その心はゆれていたのである。
(狙いは三成ごときの命ではない……) たしかにいま三成を始末しても何の利点もない。
それより、(わしに刃向かう者どもをあぶりだし、根こそぎ討滅しておかねば後々火種を残すことになるわ……)
そのためには、(治部を泳がし、それに乗ずることが肝要じゃな……)
と考えた。
正信の前に、又右衛門も同様の答えをしていて、これぞ柳生の「受け太刀」の極意である。

一刻あまりのち、家康から差し向けられた護衛に護られ、向島の徳川屋敷に三成は到着した。
庭の梅もようやく花を開いたばかりの奥座敷で、三成の左右を、本多正信・正純父子らと屋敷に滞在していた主だった側近と警護を兼ねた又右衛門らが囲むように列座していた。次の間には、同道した石田家の家老舞兵庫と岡部久右衛門が控えていた。
「江戸内大臣のご厚意、万謝の至りにござる。いまやこの三成わが身を守ることさえままならぬ身になり申した。恥を忍んでこの三成、内府どのを頼りにまかり越しまいてござる」
「いやいや、困ったときは相身互いじゃよ」
恐怖と屈辱とで、すでに顔が土気いろに変わっている三成が、「この三成の生殺、内府どのの掌中にござれば……」
と、云いかけたが、家康はそれをさえぎり、「何を申されるか。治部どのは豊家のためにご苦労されておる、大切な御身じゃ。無益な殺生で命を落とされてはせんなきことじゃ」
三成をいたわるように云った。
三成の心にしみ入るような家康の声であった。
一瞬、三成の両眼が青白く光ったように見えた。
「この三成、ただただ豊家の安泰を願うばかりでござる。命は惜しくはござらぬが、いまはただ太閤殿下の遺君秀頼公の……」
ここまで云ったとき、三成の声が震えだし、その所作に変化がおきた。落涙こそなかったが不覚にも三成は絶句し、両拳をついたのだ。
(助かった……)
という思いがそうさせたのであろう。
だが、これで家康との勝負は終わった。
一座の者は、思わず顔を見合わせた。
 又右衛門は、驚いたと同時にたまらなくなった。
(三成は命を惜しんでいたのか……なんと哀れな、将としての意地もないのか・…‥)
「いま治部どのを始末するは妙策にあらず……」といったことを後悔した。三成がこの程度の男とは思ってもみなかった。
(所詮太閤あっての三成であったのか……) そう思わずにはいられない。
(分別の心積もりは兵法の大事じゃ。喧嘩をいたさねばならぬ場に立ちても、戦うべきところと、戦うまじきところを見分けるのが分別や。万が一戦わねばならぬときには、負けたおりの心積りを持つのや。肝要なのは負けたときの負け方じゃ……)
 親父どのは、争いごとや駆け引きには勝ちもあれば負けもある。肝心なのは負けたときの負け方で、どれだけ、「勝手(有利)な僻(かたち)で負けることができるか……」
 を話してくれた。
 負けた後の掛け合いのなかで、
「勝った相手に調子に乗らせぬよう……」に、威圧感や恐怖感をそれとなく与えながら、折り合いの布石を打ってゆく駆け引きが将には、「求められるのだ……」と。
 それが三成にはできていない。
(治部少輔は刃向かうおりの分別も、負けた後の心積もりも持っておらなんだか……)
 又右衛門はそう思った。
 策士、策に溺れたにしても、これはあまりにお租末であった。
 又右衛門にそう見抜かれたように三成は、吏僚としては一級の策士であっても、戦場の修羅場をくぐり抜けた家康と駆け引きできる器量はなかった。家康に庇護を求めたのも、とりあえず目先の状況を好転させたいということにしか考えが及んでいなかったのだ。
退室する三成と又右衛門の眼が合う。
そのとき三成の顔に薄笑いの表情が、「してやったり、助かった」という。
又右衛門は、なんという恥知らずかと軽蔑する。


有名な関ヶ原の戦いだが、あまりにも有名で私もこの前後の事をあまり深く知ってはいなかったが、それ以前にもっと大事な戦いがあった、ということがわかって面白かった。
これより前に、家康は「上杉討伐」をするとして、今の栃木県小山まで東進していたが、これは石田三成など西軍が揃って旗を揚げるように仕組んだワナである。
そして、 三成は、織田秀信の凋落に成功し、それに伴いほとんどの美濃衆が西軍に投じたことで、岐阜城で徳
川勢をくい止められると読んでいた。それに加え家康不在の徳川先鋒軍を統制の取れない烏合の衆とみて楽観視していたのだ。
 その根拠はあった。岐阜城はただの城ではない。 斉藤道三がその築城能力を傾注して、稲葉山に築き上げたもので、その後信長が、それをさらに拡張し、堅牢化したものである。木曽川と墨俣川(長良川) に囲まれ、峻険な稲葉山の要害に護られた天下の堅城と云われるほどの岐阜城である。
 その岐阜城を軸に、犬山城、竹ケ鼻城はその両翼を構成している。しかもその両翼の城には、援軍の諸将を詰めさせている。そしてそれらの後詰めには、三成の入った大垣城がある。
 三成に云わせれば、「かように万全の備えがあろうか……」 なのである。
 しかし結果として三成の判断は甘かった。
 現実は三成の観念を無視していたのである。
この裏で、柳生一族の諜報活動、諸将の切り崩しが活発に行われていた。
石田三成の人を人と思わぬ言動が敵を作ったことも大きかった。

 僅か二日目あまりの戦闘で、最重要拠点の一つが陥落した。
 しかも若い秀信が野戦を任掛けるという無謀な作戦も相まって、いとも簡単に西軍の防衛線が突破されてしまったのである。後詰のつもりで大垣城で采配をふるっていた三成だが、大垣城で食い止めるという苦しい展開になってしまった。

そして、東軍が佐和山城を目指す動きで挑発すると、三成たちは慌ててそれを阻止すべく大垣城から打って出て、関ヶ原で食い止めようとした。
関ヶ原の戦い以前に、既に東軍の思うように、西軍は振りまわされていたのである。
東軍諸隊が関ケ原に布陣を完了したのは、卯の中刻ごろ(午前六時)であった。
 そしてこの日、濃州関ケ原で辰の上刻(午前七時)ごろからはじまった天下の帰趨を決する歴史的な合戦は、未の下刻(午後二時半ごろ)総崩れした西軍が遁走し、実質的な戦闘は七時間あまりで終わった。一日の野戦の攻防で勝敗が決したのである。
 この歴史的な会戦は、すでに事前の謀略戦で帰趨は決していた。ここでおこなわれた七時間あまりの合戦は、その最後の仕上げであったにすぎない。
 ついに上杉は動かず、毛利輝元も大坂城を出ることはなかった。そして、毛利勢の先鋒として南宮山に陣取った吉川広家は、毛利秀元、安国寺恵理からの再三の督促にも応じず、予定通り彼らの前に布陣したまま軍勢を動かさなかった。
 また小早川秀秋も、午の刻(正午)過ぎたころ、一万五千余の大軍を率い突如雪崩のごとく松尾山を駆けおり、大谷吉継勢の側背に突入し、粘る西軍の息の根を止めた。
一方、終始傍観の姿勢を取り三成の助勢要請も拒み続けた島津勢は、西軍諸隊が敗走し去ったとき、敵中突破による撤退という奇策を敢行し脱出に成功した。岐阜の防衛戦初っ端で戦上手の島津候があれこれ提案したことを三成が慎重論を展開し、まったく聞かなかったため、「戦がわからぬ司令官が上ではなんともしようがない」と愛想をつかされていたのだ。
 ついに家康の背後を突くことはなかった上杉勢も動くことは動いた。九月九日になって直江兼続が二万四千の大軍を率いて最上領に攻め込んだものの、山形城の支城長谷堂城の北方二十町ほどの丘陵菅沢山に布陣したときは、もはや関ケ原合戦のその日になっていたのである。


タイトルの「秘すれば花なり」だが、これは石舟斎が東西決戦の前に又右衛門に教えた言葉だ。
「こたびの天下分け目の戦い、いまこそ徳川さまのご恩に報いるときじゃぞ。柳生をあげて働くゆえ、そちも安心してお側に仕えよ」
 石舟斎もまた眼を細くして笑顔を浮かべた。
 家康はいま、次から次へと、息をつく間もなく天下を我が物にすべく手を打っている。それは、石舟斎のように(世を捨てた……)男の眼にも診てとれる。
 やがて石舟斎は瞑目し、言葉をつづけた。
「又右衛門、昔、伊賀の世阿弥がの、柳生の生きざまを、わしに云うて訊かせた言葉がある、「秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず」……いずれ分かるようになる。覚えておくがよい」
(……秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず……これが柳生の生きざまと……)
又右衛門は臥床に身を横たえてからも、なかなか寝つけなかった。

結局柳生又右衛門宗矩は、家康に仕え、二代目秀忠、三代目家光と、三代にわたって指南役を務めた。
家康をはじめ将軍家はこの間に何度も柳生に加増を打診したが、宗矩はこれを辞退し続けた。結局一万石であった。兵法家で大名になった者は居ないので破格ではあったが。
この辞退するというのが、重要な処世術で、人心掌握のコツ。度々の加増辞退により、三代にわたる将軍家の心を根こそぎ掴みとった。
宗矩の生きざまは、権力を持ってもしゃしゃり出ないで、陰に徹して、なお自ら語らず、あの世阿弥が云ったという「秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず」と、その「秘したる花」なることを徹底して守ったのだ。


もうひとつ、この本で「管仲随馬」という言葉を知った。
 ふたたび鋭い目つきで又右衛門の顔を見やった石舟斎は、一呼吸おいて静かに口を開いた。
「又右衛門、「管仲随馬」という言葉を知っておるか」
「いえ……」
「老馬と師するのをはばかってはならぬ、という史記にある諺じゃ……わからぬことに往き遇えば、老馬の知恵が役に立つ……道に迷うたら老馬の後についてゆけば道は見つかる、と云う意味合いでの……ワッハハハ」
 石舟斎はそう云ってから、明るい笑顔を見せた。
 そして奥庭の一角にある銀杏の大樹に眼を投げた。
 やがて夏も終わろうとしており、日々その影が長くなってきている。
 やがてその笑いを消した石舟斎は、「そちのようにいまだ心愚昧なものは、先人の知を師とすることを弁えておかねばならぬ。そちは徳川どのに兵法をもって理を説く身ぞ。ゆめゆめ慢心するでない、そこを過ってはならぬぞ」 諭すように云った。
「……心して」
 又右衛門はうなずいてみせた。
(親父どのに会うてよかった……)
 唇を結んだまま、石舟斎の横顔をじっと見すえている又右衛門であったが、その双眼は静かに潤んでいた。


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コメント

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四季歩さん、こんにちわ

面白そうな本ですね。そう言えば、先日、「近衛龍春著 直江山城守兼続(上)(下)」を読みましたが、関ヶ原の戦い前後の上杉方の動向が描かれていました。

それにしても、柳生一族って、石舟斎は始祖と言うか、ものすごく偉い人で、宗矩は陰謀家、十兵衛は剣豪と言う描き方が多いですね。

matsumoさん

私は、柳生一族についてあまり知らなかったので、
とても面白かったです。

いずれにしても、戦国時代から徳川の世になるまで、
あの時代は面白いですよね。
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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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