武蔵野の露と消ゆとも 皇女和宮と将軍家茂/羽生 雅

20110220

110218kazunomiya.jpg

2003年5月24日 初版第1刷発行

この人の本を読むのは初めてだ。
羽生 雅氏は、埼玉県川越市出身。東京都立大学人文学部史学科卒。
大学での専攻は平安摂関史だったが、卒業後、浮世絵等の江戸美術や伝統工芸などにたずさわる職に従事する中で、江戸に興味を持つ。現在、仕事の傍ら、平安時代をはじめとする古代史、江戸史、その他一部西洋史の研究にも取り組んでいる。

この本を読んで、強く「歴史の綾」というものを感じた。
いままで、ほとんど知らなかった「徳川家茂」について知ることができた。

このときの将軍継嗣問題については、この間の大河ドラマ「天璋院篤姫」でも見た。
家慶の跡を継いだ十三代家定は、病弱で体質的に欠陥があり、後嗣を得る見込みがなかった。そこで、次代の将軍職をめぐって、熾烈な争いが展開された。
後嗣となる将軍世子の第一候補には、まず御三家の当主、徳川慶喜が挙げられた。
御三家水戸藩王の徳川斉昭、外様第二の大藩・薩摩の藩主、島津斉彬、幕府老中の阿部正弘、三者三様、目的はそれぞれに異なるが、ともあれ、〝幕政改革〟という思惑が一致した彼らは、その手始めとして、自分たちに都合のいい将軍候補を擁立した。それが斉昭の七男、慶喜である。この動きに、越前藩主松平畢水や、土佐藩主山内豊信らも同調した。
ちょうどそのころ、将軍家走の正室が亡くなったので、島津斉彬は江戸城内部からも裏工作をはかるべく、養女の敬子をその後釜に据えて、大奥へ送り込んだ。のちの天璋院である篤姫である。
その雄藩諸大名を中心とした大きな流れの前に、敢然と立ちはだかったのが、譜代大名の頭目、井伊直弼だった。
井伊は、「幕府が二百年来続いたのは、将軍家というものの威徳であり、将軍個人の賢愚とは関係ない」という持論のもと、血統のよさを理由に、御三家紀伊家の当主、徳川慶福を将軍後嗣に推した。
内外の難局にあたっていた阿部正弘が心労のせいか急死し、島津斉彬も志なかばにしてこの世を去ると、井伊は十七年ぶり九人日の大老に就任して、慶福を世子と決定し、将軍継嗣問題に終止符を打った。
安政五年(一人五人)六月、紀伊藩主徳川慶福は、正式に十三代将軍家定の後継者となり、「家茂」と改名し、宗家入りした。それが現十四代将軍である。

歴史の激動期であるので、この本に書かれており、私が感動した物語はいくらでもあるが、紙数の関係から、私が「目からウロコ」の部分を少し書いておく。
皇女和宮を正室に迎えたことから、将軍家茂と光明天皇の仲はすこぶる良かったことである。
将軍家茂が諸般の情勢から上洛したのは、実に家光以来であるから、これはすこぶる「大英断」であった。
これを決心したのは、皇女和宮が降嫁の道中詠んだというこの歌を思ったときに決断できたと、この本で紹介されている。
 惜しまじな 君と民との為ならば
    身は武蔵野の露と消ゆとも


天璋院をはじめとする武家女たちと相容れず、大奥から疎んじられながらも、また幕府が降嫁時の約束の不履行を何度重ねても、一度だって和宮は都に帰ると言い出したことはなかった。
それは、国家のために、己は犠牲になることを決めていたからに違いない。
はじめてこの歌を聞いたとき、家茂は「ずいぶんごたいそうな覚悟だな」程度にしか思わず、それほど自分のもとは恐ろしげなところかと、不快な気持ちにもなつたりした。
だが、そんな自分は、つくづく稚かったと思う。
上洛することが決まった今になつて、ようやく和宮の気持ちがわかった。

和宮が生まれてすぐ父の天皇が亡くなったため、孝明天皇は和宮の兄ではあるが、父親のような気持ちで和宮を育てた。
そのこともあり、孝明天皇は上洛した将軍家茂と何度も膝をまじえて、身内として話し合い、家茂を非常に信頼して、政治は家茂にまかせるつもりであった。
これを証明するのが、天皇が家茂を従一位に叙したことである。表向きの理由は「歴代山陵修補の功賞」だったが、その実は義弟を一段と取り立てたかったのだろう。彼の妻である、たった一人の妹のためにも。〝従一位″といえば、臣下が到達できる最高の位である。正一位は死者に追贈されるもので、生存中賜られることはない。

だから、家茂が病のため急死しなければ、幕末維新の様相はかなり異なったものになったに違いない。
天皇のもとの政府になっただろうが、首相くらいの地位に「徳川家茂」がなっていたかもしれない。


もう一つ、家茂は必要があって海路上洛する際に、勝海舟を知り、彼と親しく交わり、彼から神戸に操練所開設、それを諸藩士を含めて教育することを提言され、閣老たちの反対を覚悟した上での独断で許可する。
操練所と併せて、将軍直々に経営が許された勝の海軍塾に集まった面々の中には、土佐の脱藩士、坂本龍馬もいた。
塾頭を務め、勝の指導のもと、時流を見る目と柔軟な思考を養った龍馬は、のちに(船中八策)なる国策をまとめて、大政奉還の偉業へと導くのである。ここで学んでいなければ、いくら龍馬といえどもこの秘策は生まれなかっただろうし、家茂の英断がなければ、操練所は創設されなかった。
つまり、世に称えられる「坂本龍馬」は存在しなかったかもしれない。
そういう意味では、家茂と勝麟太郎が、「坂本龍馬の偉業」の基をこしらえたのである。


そして、どうしても書いておきたいのは、「会津藩」のことである。
会津藩主松平容保は、非常に実直な人柄で関係者に信頼されていた。このように書かれている。
帝の厚遇はたいそううれしかったが、家茂は時勢というものの力を目のあたりに見せつけられたような気がした。そして、その流れにいとも簡単に呑まれてしまう人間の弱さを。
ともあれバ手のひらを返したようなこの朝廷の変化も、守護職松平肥後守(容保)の努力なくしてはありえなかったことだけは、はっきりとしている。
いつになく心安らかに天皇と会見できたことが、肥後守の献身的な働きの賜物であることを、家茂は十分に承知していた。
それゆえ、二条城に戻るなり、肥後守を呼び出すと、彼を主賓に酒宴をもうけて、その労をねぎらった。
「前回に増しての帝の厚遇、すべてその方の尽力のおかげだ、肥後。よくやってくれた。苦労をかけたな」「いえ……。今はすべてが喜びに変わりました」
主君の言葉に、一段と痩せこけた守護職が目尻を濡らす。
将軍上洛実現のために、文字どおり骨身を削ってきた容保は、将軍家に対する帝の恩遇が望外であったことを聞き及んで、人一倍歓喜するところが大きかった。
さらに数日後、家茂は再び容保を召して、親しく茶を共にしながら京洛の話を聞くと、今までの働きを賞して、手ずから金品を授けた。

そして、天皇からも一方ならぬ信頼をされていたことが、このように語られている。
そもそも、体調に自信のなかった容保は、会議に出席できないことを理由に、当初から参与の辞意を表明していたが、慶喜がそれを認めなかった。帝の信任篤い会津藩主を、名前だけでも面子に連ねておきたかったのである。そんなわけで、「国事参与松平中将」が実際に会議に参加したことは、ただの一度もなかった。
だが、神経衰弱ぎみの容保には、かえつてそのほうが幸いだったかもしれない。線が細く、何事も真面目に受け止めてしまう質の謹直な彼には、まるで狐狸のごとき慶喜や久光と渡り合うことなど、土台不可能だった。
これより前の二月十三日、まったく復調の見通しが立っていないにもかかわらず、容保は参与会議で決定した長州攻めの副将となる(軍事総裁職)に任じられた。精鋭会津藩の武力が必要とされたからに他ならない。
このため、一年数カ月にわたる京都守護職は解任されたが、不意の人事に驚いた孝明天皇が、容保の復職を迫る異例の事態が起こった。
十六日の夜、容保は廷臣の野宮定功から、一通の極秘書簡を受け取った。
(長州征討の一件で、そなたは副将に任じられたため、守護職を免じて、替えを春嶽になすことを関白から承った。甚だ残念でならず、副将を他の藩主に替えるよう一橋中納言に申し入れたが、卿は国事が最重要であると言って承知しなかった。兵力のあるそなたの藩がその任にうってつけであることは、朕も承知している。だが、免職は遺憾でならない。できるだけ早い復帰を望む)
という文面であり、紛れもなく天皇の御簾筆だった。
容保が内密の御嵩翰を受け取るのは、これがはじめてではない。八日に続いて二度目である。いずれも帝の赤裸々な本音が綴られた、きわめて個人的なものであり、武臣にしてこれほどまでに深く信頼を寄せられるのは未曾有のことで、誠にもって栄誉なことといえた。

これほど、天皇から信頼されていた会津藩が、なぜに「朝敵」とされてしまったのか。
これは「蛤ご門の変」で長州を都から追い落としたのが会津藩だったからに他ならない。
これも朝廷守護のため、当時の朝廷の出した結論から会津藩が実行したに過ぎない。

維新の際の「会津戦争」というのは、一重に長州の「会津憎し」による、私怨報復なのだ。
それと長州に落ちて、また復活した長州派の公家の策謀であろう。
幕末に、朝廷守護に任じていた会津藩が「朝敵」というのはやはりおかしい。
家茂が急死し、慶喜の「トカゲのしっぽ切り」に翻弄され、松平容保の「一徹さ」が生んだ悲劇である。


皇女和宮のイメージは、この本を読んで劇的に変わった。
和宮は、しっかり自我をもったお人だった。
もうすでに、有栖川宮という婚約者がいた和宮は、当然のごとく抵抗した。
「嫌やっ。都を離れるくらいなら、尼にでもなつたほうがましや!」
とても故郷離れがたく、和宮は兄帝に直書を奉って、そのお勧めを固く辞退した。
秋風も吹きはじめた八月の半ばすぎ、関東から幕府の切り札ともいえる強力な仲介者が京に上ってきた。
元大奥上臈年寄「姉小路」こと勝光院である。
勝光院はたいそうな妹腕家で、十二代将軍家慶の死によって一線を退くまで、奥女中の最高権力者たる(本丸取締り)の老女として、江戸城大奥に君臨していた。
さる天保の改革の折、大奥に贅沢品の使用や購入を禁じた水野越前守の政策に反発し、「大奥は人間の三欲の一つ、性欲を捨てての一生奉公。そこへまた、もう一つの欲も奪うのでございますか?して、貴殿もまた、お部屋方(妻妾)の数をお減らしになられましたかえ?」
と詰め寄って、やり手の老中首座を赤面させたという逸話は、殊に有名である。
勝光院は公家橋本家の出身で、和宮の母・観行院にとって叔母にあたる。
勝光院は和宮に言う。
「では、さっそく用件に入りましょうか。はっきり申し上げますが、宮さまはちと、わがままが過ぎるのではあらしやいませんか?」
 案の定、勝光院の言葉は、しよっぱなから若い皇女の胸をえぐつた。
「み、宮が、わがままと言うんか?」
「世間がそう申しております。お側の者はみなご遠慮申し上げて、お耳に入れませんやろが」
「ど、どうして……」
「たった一人の御皇妹でありながら、国事にお困りの御上の御簾襟をお悩ませするとは困ったものやとか、世間知らずの姫宮さんやから、甘えが通ると思っているんやとか……。
まあ、御上がお国のためと思い、考えに考えてお決めになられたことを拒絶なされば、道義にもとると思われても致し方ありますまいが」
また、現実的な面からも和宮を諭した話も面白かった。
そんな袖が擦り切れた着物を着ることもなくなる。和宮の母の実家の橋本家でも、玄関で秘伝の膏薬「白丁散」を売って、わずかな足しにしている始末であるが、それも助けられるだろうと。
当時の天皇家、公家は本当に困窮していたのである。

そして、覚悟を決めた和宮は、交換条件に姉の敏宮の住まいを定めてもらう。
敏宮は、婚約者だった開院宮愛仁親王が亡くなってしまったので、皇女ゆえにめったな再縁も望めず、独り身のまま閑静な生活を送っていた。朝廷にはこの皇女のための邸宅を新造する余裕がなかったので、その住居は一定せず、現在は翰王寺門跡の京都の里坊である河原屋敷を借用して住んでいるという、肩身の狭い身の上である。
他ならぬ和宮の懇願なので、幕府は無下に拒絶することもできず、今後先例としない条件でこれを承諾した。
和宮が姉のもとに暇乞いに訪れたときは、すでにこの約束がなされたあとだったので、敏宮は腹違いの妹の厚意にたいそう感謝して、深く頭を下げた。
「そんなお気になさいますな。いま宮が姉宮さんにして差し上げられることといえば、関東に命じてやることぐらいですやろから」
そう答えつつ和宮は、(見も知らぬ東の荒夷に皇女の操を捧げるんや。これくらい安いもんや)と思っていた。

そうしてて徳川家に嫁ぎ、家茂の実直な人柄に出会い、家茂を愛して彼を支えた。
家茂もまた、和宮を愛した。
こんな話が載っている。天皇が家茂に和宮の様子を聞く。
「だから、せめて将軍の口から、宮の近況を聞きたいと思う。のろけでも何でもよい」
そう言われて、家茂はしばし思案した。他でもない、天皇の求めでは、はぐらかしてしまうこともできないので、自分たちの親密な夫婦仲をあまり露骨でなく語れ、かつ和宮の人柄のよさが感じられるような逸話はないものかと、記憶の糸をたぐる。
考えた末、去年御浜御殿に行ったときのことを話すことにした。
「……昨年、私が江戸に戻りましてから、宮さまと品川沖沿いの別業に行ったことがございました - 」
去る秋、家茂と和宮と天埠院は、将軍家の別荘である御浜御殿を訪れた。
御浜御殿は、もともとは四代将軍家綱の弟、甲府宰相こと徳川綱重の下屋敷だったが、それを相続した綱重の子・綱豊が五代将軍綱吉の養嗣子となり、六代将軍家宣となつたため、以後将軍家の海辺の別邸として利用されるようになつていた。
そのときに庭を散策しようということになって、御殿の広縁から外に出ようとしたら、どうしたわけか、宮と院の草履だけが沓脱石の上にあり、将軍のそれは下に置かれていた。
天璋院はかまわず先に降りたが、これを見た和宮は、とっさにポンと石の上に跳んで自分の履物をよけると、そこに家茂の草履を上げて、「どうぞ」とお辞儀したのだった。
その話を聞いた天皇は、心中ひそかに唸った。
この和宮の行為が、どれほど大きな意味を持つことか、家茂同様、孝明天皇にはよく理解った。
皇女が素足で踏み石の上に降りて、手ずから草履を直したのである。和宮の適切な判断力と機敏さを伝えるよい話であるが、内親王としてはあるまじき行為ともいえた。
古来の慣例どおり、自分では何一つ用事をしない特異な環境で育ってきた和宮が、その出自にそぐわぬ行動をためらわずとったのは、ひとえに家茂の影響であろう。彼への思いが、無意識のうちに彼女にそうさせたのである。
その心が察せられたからこそ、天皇は唸ったのだ。妹の夫への愛情を見せつけられたようで。確かに、申し分ないのろけ話だった。

各代将軍のなかで、唯一側室を持たなかったのが家茂である。
家茂は、実直に和宮を愛したようである。
それに引き替え、慶喜は一夜たりとも女性なしでは寝れないと、上洛にも複数の側室を連れていったそうである。

家茂亡きあと、事態は変転し、慶喜が将軍職を放り出して江戸にスタコラと逃げ帰ってきてからの、和宮の働きを勝海舟が振り返る。
維新での活躍以来、勝は和宮に一目置いている。一見かよわそうな姫宮さまだが、その実は現在の有栖川宮や、かつて精力的に政治に関わっていた中川宮こと賀陽宮にも劣らぬ気概の持ち主である。いや、勝自身は和宮を彼ら以上だと評価していた。
朝廷側の代表として二条関白とともに公武合体運動を担った中川宮には孝明天皇、征討大総督として関東に進軍してきた有栖川宮には新政府という力強いバックがあったが、徳川家の救済に努める和宮には、何も頼るべきものはなかった。それどころか、〝朝敵″というお荷物を背負っての戦いだった。
その悪条件のもとで、彼女は己の命を賭すことによって実を挙げた。
確かに、江戸総攻撃中止や無血開城は、自分と西郷の力によるものだったかもしれない……。
しかし、徳川家処分の軽減については、明らかに和宮の功が大であると、勝は思っていた。
戊辰の戦の折、十四代将軍の未亡人であると同時に、今上帝の叔母でもある和宮は、官軍が抱えるアキレス腱の一つだった。朝廷がわざわざ勝に宛てて勅旨を下し、彼女を保護して京都に送り返してくれるように頼んできたほどである。和宮が江戸城にいるままでは、新政府側は人質を取られているも同然だったからだ。
その和宮が、頑として帰京を拒んだぼかりか、朝敵である徳川家に敢然と味方し、具体的な嘆願運動を行ったのは、彼らにとって大いなる誤算だっただろう。
天皇は子供心に、関東にいる叔母宮のことをひどく心配していた。官軍の名を借りて東征を仕掛けている薩長軍は、叔母宮に無事であってほしいと願う幼帝の希望を無視することはできなかった。
天皇の気持ちを慮れば、和宮を死なせることはできず、そして婚家に殉ずる覚悟の宮を生かすためには、徳川家の息の根を止めてしまうわけにはいかなくなったのである。
勝は思う。
もし和宮が、婚家を見捨てて生家に戻り、徳川家の窮状も見て見ぬふりをして関知しなかったら、いったいどうなっていただろうか、と。
彼女のことがなければ、朝廷は徳川に対して何の義理もない。官職の一つである征夷大将軍を務めていたというだけの一武臣にすぎない。しかもその任官も、所詮は天皇の命によるものである。
したがってその場合は、自分たちや諸大名による嘆願など、一顧だにされなかった可能性もあった。
その結果、慶喜が処刑されたり、徳川家が取りつぶされたりしていたら、きっともっと多くの幕臣が黙ってはいなかっただろう。自分の努力も水の泡と消え、日本の首府・江戸は火の海と化し、天下の大騒乱となつていたに違いない。
慶喜の助命、幕臣の生活保障とともに、勝がもっとも心胆を砕いたのは、人口二百万ともいわれる江戸の市民を戦禍から救うことであり、経済的混乱を未然に防いで、早急に彼らの生活を安定させることだった。


「お願い。私が死んだら、けっして皇室のほうに葬らないで。徳川家のほうへ埋めて。大樹さまのお側に…‥」
和宮は、常々近侍の看たちにそう言って聞かせ、死を語るなど不吉だと制されながらも、会う人ごとにその切なる願いを口にした。
そして維新から9年が経ったころ、和宮はにわかに脚気を患い、侍医の遠田澄庵に転地療養を勧められた。澄庵は元江戸城の奥医師で、家茂の末期に和宮の命で急ぎ江戸から大坂へ駆けつけた漢方医の一人である。医師の指示に従って、箱根の塔の沢に湯治に赴いた和宮だったが、八月三十日、衝心が起きて、危篤状態に陥った。
それから三日後の明治十年九月二日、同地の旅館「環翠楼」にて、和宮はこうじた。
享年三十二歳。誕生年月も一緒だったおしどり夫婦らしく、命を落とした死因まで夫家茂と同じであった。
箱根で客死した和宮の遺骸は、東京へと戻され、増上寺の徳川御廟に葬られることになつた。
降嫁したとはいえ、天皇家の一員であり、二品内親王という高位の女性が、一度は朝敵ともなった臣下の家の霊廟に入るのである。異例のことだった。遺言によって、特に許されたのだ。新政府に生前の功労を認められた和宮だからこそ許可された特別措置だった。
葬儀は徳川宗家が喪主となつて盛大に行われ、その宝塔は、本人の願いどおり、夫君昭徳院の脇に建てられた。将軍夫妻の塞が隣同士に並べられたのも、これがはじめてのことだった。
棺の中には、黄泉路につく和宮が、死出の旅の供に選んだひと品があった。当時としてはまだ珍しい、一枚の写真である。
そこには、齢二十一で時を止めた、若き日のままの十四代将軍が写っていた。和宮は彼の隣で、彼の写真を胸に抱いて、永遠の眠りについたのである。死のその間際まで、亡き家茂を愛していたのだ。
法名「好誉和順貞恭大姉」 -。波潤の生涯を終えた皇女は、彼女が終生変わらずに愛しつづけたその夫とともに、異郷の地-武蔵野の露となったのだった。


ずいぶん長く書いてしまった(汗)
いままで知らなかった将軍家茂と和宮のことを、この本で知ることができた。
ふたたびだが、「歴史の綾」を思わせることが多かった。
歴史好きには、たまらない本である。

スポンサーサイト

コメント

No title

四季歩さん、こんにちわ

ううん、和宮ですか、京都から嫁いだこと位しか知りませんでした。そもそも、江戸時代って、5代将軍位まではともかく、それ以降はあまり記憶にありません。まして、第15代はともかく、第14代は第13代の子供で無いことを初めて知りました(吉宗も同様なことは勿論、知っていましたが)。

それにしても、脚気ですか、白米を食べていたからなのでしょうね。多分、その頃の「贅沢病」の1つだったのでしょうね。

matsumoさん

コメントありがとうございます。

坂本竜馬とか篤姫くらいしか知らなかった
私も、ほんとに勉強になりました。

何気に手に取った本ですが、目からウロコが
ずいぶんありました。

だから本は面白い。

No title

四季歩様

いや~実にいい話を聞かせていただきました。
本当にいい感じの話でした。
最近は、歴史ものというと、あれがいいの悪いのと
主張するごつごつものが多いのですが、そういうこともなく
話が実に「ほんわか」と温かく、とても感心いたしました。
歴史の真実性が肌で伝わってきたという感じです。
ありがとうございました。

いの様

コメントありがとうございます。
歴史というのは、知れば知るほど
驚くことも多いですね。
かなり歴史にハマッてしまいました(笑)

私は、こういう話が好きです。
非公開コメント
プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード

Pagetop