役小角 /黒須紀一郎

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関東36不動を巡拝中だが、そこで「役行者、または役小角」に出会う。
たとえば高尾山では、
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-537.html
浄心門を入ってすぐに神変堂があり、修験道の開祖「役小角」である「神変大菩薩」を祭っています。
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それで、気になっていたのだが、ちょうど面白そうな本を見つけたので読んだ。
第一巻が「異界の人々」、第二巻が「神の王国」とサブタイトルがついている。

役小角だけでなく、中大兄皇子や大海人皇子についても、今までの認識を覆された。
すごく面白かった。

筆者の「あとがき」を引用しながら紹介しよう。
 役行者という名を聞けば、誰でも想起するのは、その超能力的な話であろう。
葛城山などの岩屋(岩窟)に住み、身には葛布をまとい、松の実を食し、その勝れた呪力によって鬼神を使役し、海上をさながら陸地のように走り、鳳風のように天空高く飛翔するといった話である。また、日本独自の金剛蔵王権現を祈りだして、これを大峯山上ケ岳の蔵王堂に祀った修験道の開祖としても知られている。
 室町時代の末ごろに出来た『役行者本記』が、役行者に関してまとめられた書物の初めだといわれているが、これとても偉人伝説の類に漏れず、行者を神格化した幻想的な話が多い。
では、役行者という人物は実在しなかったのかというと、そうではない。彼の存在は、正史である『続日本紀』 の文武天皇三年(六九九年)五月二十四日の条に、はっきりと記されている。

 五月二十四日、役の行者小角を伊豆鴫に配流した。はじめ小角は葛木山に住み、呪術 をよく使うので有名であった。外従五位下の韓国連広足の師匠であった。のちに小角の能力が悪いことに使われ、人々を惑わすものであると讒言されたので、遠流の罪に処せられた。世間のうわさでは「小角は鬼神を思うままに使役して、水を汲んだり、薪を採らせたりし、若し命じたことに従わないと、呪術で縛って動けないようにした」といわれる。                         (宇治谷孟訳『続日本紀』)

 小角とは役行者の名であり、正確には賀茂役君(かものえだちのきみ)小角といった。『役行者本記』などから類推すると、小角の生きた時代は七世紀の半ば前(六三四年)から八世紀の初頭(七〇三年) ということになろう。そして、この時代は、当時倭国といわれた日本が、激動した時代でもあった。乙巳の変(大化の改新)、百済出兵、白村江敗戦、壬申の乱と、古代史の中でも特筆すべき事件が並んでいる。
 小角もこの事件の最中に生きていたわけだから、後世になって神格化された役行者ではなく、この乱世に実在した役小角に光を当てたら、どのような小角像が浮かびあがってくるか・・・
それが、本書のモチーフとなっている。
たしかに、小角は葛木山(金剛山・葛城山)を中心にした山中で修行をし、原始的な山岳信仰に、大陸から伝わってきた陰陽道や道教、それに雉密呪術を加えて、修験道の原型を作り上げたのも事実であろう。反面、小角が関わったとされる吉野から宇陀、伊勢、美濃を結ぶラインは、壬申の乱で挙兵した大海人が軍を進めた道筋と奇妙に重なるのである。この道は、丹砂や鉄、銅の産出する道でもある。となれば、壬申の乱で、小角が大海人と何らかの接点を持った可能性も出てくる。
本書では、積極的に時の政権と関わりを持つことによって、自らの夢を実現しょうとする小角の生身の姿が描かれている。


小角たち賀茂の民は、蘇我宗家に隷属する部曲(かきのたみ)であった。私有する民であるから自由はない。
小角の家は、代々この葛城上郡辺りの賀茂一族を束ねる家柄だった。
乙巳の変(大化の改新)で蘇我宗家が滅び、大王家の部民にされ、扱いは奴婢と同じになってしまった。
小角の父親、間介麻呂は役君(えだちのきみ)で、賀茂の役民(えだちのたみ)の長である。

その父親から、かってこの国は賀茂一族の開いた国だったことを教えられ、倭国を最初に治めた饒速日(にぎはやひ)大王、またの名を天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)の宮殿跡を教えられる。
宮殿跡の柱の穴を、独りで木の棒で掘っているときに、小角は山の民の棟梁「五鬼童」に声をかけられる。
山の民というのは、朝廷や豪族に虐げられて、山に逃げ込んだ賀茂一族がほとんどであり、その神の宮殿跡を掘っている小角に五鬼童は感心し、後継者とすべく飛鳥寺の僧「自覚」と共に小角を教育する。
小角も、虐げられている役民(えだちのたみ)を救いたいと、強くなることを志願して山に入り修行を続ける。
山の生活を小角に教えて助けるのが、「前鬼」、「後鬼」の夫婦であった。
高尾山の神変堂でも鬼が従っていたが、これで納得。

小角が薬師の真鳥に教わっている場面で、
「おお、あった。これだ、これだ」
 真鳥が叫んだ。
 見ると、真鳥の背丈と同じくらいの大きな草が、紅紫色で筒状の花をつけている。
「これが烏頭(トリカブト)です。わしらは、ブシとも呼んでいます」
 真鳥は、小角に、手に取ってよく見るように言うと、担いでいた袋の中から、長めの刀子(小刀)を取出して、その根元を掘り始めた。見事な手際である。そして、引き抜くと、拳大の根が出てきた。
「この毒は凄いんですぞ、小角さま。この汁を矢尻に塗って射かけたら、熊でもころりと倒れます。だから、むやみやたらに使ってはなりませぬ。これを干したのは熱病に効きますが、量を間違えると、それこそころりと逝ってしまいます」
 真鳥は、小角によく見せた後、その根を袋の中に入れた。
「おお、そうそう。小角さま、醜女を何でブスというのか知っていなさるかな」
 真鳥が、真剣な表情で小角を見た。勿論、小角には分からない。
「このプシの量を間違えると、ああなってしまうということです。顔が歪むほど苦しまねばなりませぬ。よくよく用心なさることです」
 真鳥は、何度も鳥頭の危険性と効用を説明して、その場を離れた。


小角が20歳になったとき、都では大事件が起きる。
大王孝徳を難波に置き去りにして、中大兄は飛鳥に帰ってしまう。皇后も付いて行ってしまう。
天皇が、皇太子や母親、重臣・群臣たちによって、置き去りにされたのである。皇后の間人までもが、夫を捨てて中大兄に従ったのだ。
孝徳帝は憤死する。

 孝徳の後の斉明は、奇怪な女帝であった。六五五年に飛鳥板蓋宮で即位すると、先ず手がけたのが、小墾田宮の造営であった。瓦葺きの宮殿を建てようというのである。それまでの宮殿は殆どが茅葺きか草葺きで、板葺きとなったのも、板蓋宮が最初であった。ところが瓦葺き、大変な難工事である。
 しかし、斉明はそれを強行しょうとした。が、懸念した通り、工事は難航した。
結局、斉明の計画は失敗に終わった。しかもその間に、肝腎の板蓋宮までもが焼失してしまったのである。
諦め切れない斉明は、今度は場所を変えて、飛鳥岡本に造営を決めた。これは、何とか完成に漕ぎつけられたが、次に斉明がやろうとしたのが、両槻宮(ふたつきのみや)造営である。何とこれを、多武峰の頂上に築こうというのである。飛鳥の東にそびえる多武峰は、高さが二百丈(六〇〇メートル)を越える。ここに、楼閣を造り、周りを堅牢な石垣で囲もうというのだから、まさに正気の沙汰とは言えない。巨大な石を運ぶため、香久山の西から石上山まで運河を掘り、そこに二百艘の船を浮かべた。運河掘削に三万余人の人夫を要し、石垣を組むのに七万余人が徴発された。世人はこれを「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」と呼び、「石の山岡は、造った端から壊れるだろう」と誹謗した。
 これほどの民の怨嵯の声にも拘らず強行した両槻宮だが、これも結局完成することが出来なかった。残ったのは、膨大な浪費と民の疲弊であった。怒りは直接斉明に向けられ、岡本宮が放火されるという事態にまで発展した。
 そして、この次に斉明が行なったのが、蝦夷の討征である。斉明四年(六五八)に始まったこの阿部比羅夫を将とする遠征は、その後五年、六年と三年間つづけて行なわれた。百八十般の船団が、秋田から津軽半島にまで北進して行くのである。その戦費たるや、膨大なものになる。このように考えていくと、斉明の行なったことは、全てが国力の消耗につながることばかりである。

斉明と中大兄は過酷な税金を取り立て、使役に駆り出す。
そのころ小角は里に下りて、病を治したり、雨止めを行ったりして、修得した不動明王の修験力をみせる。
税金の確保のため、浮浪人狩りがはじまり、山に逃げ込む人が増える。
小角と前鬼、後鬼がこれを助ける。


この時期、海の向こうの韓半島では、激震がうねっていた。百済、高句麗、新羅の三つ巴の争いから、新羅は唐に助けを求める。
唐にしてみれば、韓半島に介入する絶好の口実が出来たのである。
唐・新羅の連合軍が百済、高句麗を攻める。

斉明と中大兄は百済を助けるため、出兵を決定する。
斉明は百済系の人間で、百済・倭国の大連合国を夢見ていたようだ。
中大兄は、のちに百済から亡命してきた高位高官たちで、倭国に新百済国を作ろうとした。
それにしても、この中大兄という人は、不思議な人物であった。
彼が鎌足らと図って、乙巳の変を起こしたのは、二十年前のことである。この変に成功して、中大兄は孝徳大王の日嗣王子となった。当然、次の大王位に即く立場である。しかし、六五四年に孝徳が崩御した後、大王となったのは斉明であった。中大兄の母親であり、しかも斉明は、鮮明の後皇極という名で大王位に即いているから、二度目ということになる。この時、中大兄は三十歳だから、大王となるには充分過ぎる年齢である。それだけではない。中大兄は、六四五年の乙巳の変に成功した時、既に二十歳であった。しかも、母の皇極は、彼を大王に推したという。しかし、彼は大王とはならなかった。
 孝徳が崩御した後、大王とならない中大兄の正体を、民は訝しんだ。
そして、人々の疑問が晴れないまま、孝徳から斉明へと大王位が引き継がれ、今度の斉明崩御という事態となった。しかもその時は、白村江へ向けて大軍を進発させる真っ最中であった。それでも、中大兄は、大王位に即かない。倭国の興廃を懸けた一戦に、倭国は最高指揮官を欠いたままで戟おうというのである。無茶な話であった。なぜ中大兄は、大王位に即こうとしなかったのか。と、いうよりは、即けなかったのか。謎は多い。

 中大兄が、二万七千の将兵に出撃命令を出したのが六六三年の三月であったが、それより二年前、つまり斉明が崩御した年の八月には、既に阿曇比羅夫らをして、武器や食糧を百済に送らせていた。
 つづいて九月には、朴市秦田釆津らに五千の将兵を与えて、百済へ向かわせた。田釆津は、あの古人大兄事件に連座した罪と引き替えに、出兵を強制された豪族の一人である。
 翌六六二年一月には、百済抵抗軍の鬼室福信らに、矢十万本・糸五百斤・綿一千斤・布一千端、他になめし皮や種叔などの軍需物資を送っている。
 三月に入ると、唐・新羅の攻撃を受けている高句麗からも、救援の依頼がきた。それに対し、倭国は将兵を派遣している。この将兵は直接倭国から出撃したものか、それとも百済に向かった先遣部隊がこれに当たったのか、その辺のことを『日本書紀』は何も記していない。
 五月、再び阿曇比羅夫らは、百七十隻の軍船を率いて、百済の王子余豊嘩を百済に送り届けた。豊嘩は、前武王の時代に、倭国へ送られてきた王子である。以降、三十年間も倭国に留めおかれたままであった。しかし、百済王家が滅び、義慈王以下王子たちが捕虜として、唐へ連行されてしまった今となっては、抵抗軍には、担ぐべき旗頭がいない。そこで、倭国に置き去り同然となっていた豊嘩に白羽の矢が立ったのである。中大兄は、鬼室福信の要望を受け入れて、豊嘩を百済に送り届け、しかも、百七十隻の軍船をも発進させたのであった。この百七十隻に何人の将兵が乗っていたかは、記されてはいない。しかし、少なくとも五千から万に近い数だったのではなかろうか。豊嘩は、この船団に送られて無事百済の港に着き、鬼室福信らの出迎えを受けて王位に即いた。 更に、中大兄は諸国に命じて、軍船、武器、兵糧などを那ノ大津に集めさせた。
 そして、翌六六三年三月、いよいよ二万七千の大軍団が玄界灘を渡って、韓半島へと向かったのである。目指すは百済の首都を流れる白村江(自江)である。二万七千の軍勢は、前・中・後の三軍に分かれ、上毛椎子、巨勢訳語、阿倍比羅夫らがそれぞれの将軍となった。
 八月には、先に出撃していった大船団の後詰めとして、伊豆水軍の塵原君臣に、一方の兵を率いて白村江へ向かうよう命令が下った。
 このように見ていくと、数字に現われている将兵の数だけを合計しても、四万二千となる。この他に、六六二年一月に矢十万本や糸五百斤などを送った船には、将兵は乗っていなかったのであろうか。また、同じ年の五月に豊嘩を送り届けた百七十隻の軍船にも、将兵はいなかったのでぁろうか。そのことについて、『日本書紀』は何も語っていないが、もし仮にこれら二度の派遣に、将兵が乗船していたとなると、唐・新羅との戦いに送られた数は、五万人近くになる。恐るべき数である。当時の倭国の総人口は、六百万ほどだったと言われているから、何と人口の一分弱の将兵が、動月されたことになる。現在の人口で換算すれば、百万近い数となろう。信じられないほどの数である。これだけの数が、亡国間近の百済救援に向かおうというのだ。暴挙というだけでは済まされない。

一方、「弟王子」が五鬼童の推薦で小角に会う。
この王子は、大海人皇子のことで、中大兄と同様現帝斉明を母、鮮明を父とする直系の王子とされている。しかし噂では、弟王子の方が実際には年齢が上ではないかといわれ、そう思ってみると、体型、容貌ともに兄中大兄とは似ていない。また一説では、斉明がまだ鮮明に嫁ぐ前、高向王の妃であったことがある。その二人の間に生まれたのが弟王子で、斉明は鮮明と再婚するに当たって、この弟王子を連れてきたのでは、とも言われている。ともあれ、現在ではれっきとした中大兄の弟王子であることにちがいはないし、立派な王位継承者でもある。ところが、何故か、禁裏ではこの王子の名を呼ぶことはなく、ただ弟王子と言っているだけなのだ。

倭国は、白村江の戦いで唐に大敗する。

667年3月、中大兄は突如として近江への遷都を決定した。
近江政権は多数の百済亡命高官を政権の中枢に入れるのである。まさしく、唐から派遣されている郭務悰が企図した通り、倭国は新百済国となる。百済国であれば、その国は、新旧を問わず必然的に唐の属国となる。だから、唐に併合されても文句は言えない。戦わずして、倭国を乗っ取るという唐の戦略に乗ってしまったのである。

小角は蓑面寺で、金押実と会う。
金押実は、新羅で第6位の高官。臣下では筆頭の地位。新羅は、唐とことを構えることにしたと、小角に告げる。
唐は百済を倒した後、反転して新羅を討つつもりだと。
やはり、倭国の動静が重要となるのだ。

天智十年(六七一)十一月、いったん唐に帰った郭務悰がやって来た。軍船四十七般、兵月二千人を率いて。
本当は数万を率いて出発したのだが、新羅水軍により壊滅的な打撃を受けて、残った兵ではあった。
郭務悰の軍は、近江朝だけを狙った威嚇の軍勢であった。
この一報は、那ノ大津を守っていた栗隈王から弟王子へ直接届けられた。
栗隈王によって、郭務悰軍は那ノ大津に足止めされる。


大王天智が失踪する。
これは、延暦寺の僧皇円が記した『扶桑略記』 の中の記載である。
皇円は、平安時代の僧で、比叡山の阿閣梨となった高僧であり、彼の弟子には浄土宗の開祖法然がいる。この『扶桑略記』によれば、天智は馬で山階郷に行き、そのまま帰らなかった。山林のどこで崩じられたかは分か
らない。ただ、履いていた沓が落ちていたので、そこを墓とした。場所は、山城国宇治郡山科郷北山だ、というのである。

『日本書紀』では、天智は痛死したことになっている。大海人王子吉野入りの契機となった天智病床の記述は有名である。
天皇は病が重くなり、「私の病は重いので後事をお前に任せたい」云々といわれた。東宮は病と称して、何度も固辞して受けられず、「どうか大業は大后にお授け下さい。そして大友皇子に諸政を行なわせて下さい。私は天皇のために出家して、仏道修行をしたいと思います」といわれた。天皇はこれを許された。
十二月三日、天皇は近江宮で崩御された。十一日、新宮で精した。
となっていて、どこにも天智が山科で行方不明となったことを匂わせる記載はない。
不思議なのは、『日本書紀』に、天智の陵墓の記載がないということ。
『日本書紀』が完成したのは、天智の死後五十年も経っていない。
病没ならば、きちんと陵墓があり、記載されたはず。
そうなれば、遺体もなく死亡したかどうかも定かではない天智の陵墓を造ることは憚られたと考える方が自然だ。

天智陵には、今でも沓塚という異名がある。
たまたま、私の会社が山科に工場があり、よく通った。
京都市営地下鉄東西線をよく利用したが、「御陵(みささぎ)」駅というのがあり、調べてみたら天智天皇の御陵だというので、訪ねたことがある。
とても閑静で、荘厳なところだった。
その時のことは、私のHPに載せてある。
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/yamashinagoryou.html

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弟王子(大海人皇子)は、唐から狙われている近江朝廷、ひいては倭国を救うため、大友皇子(弘文天皇)と対決することを決意し、兵を起こす。
壬申の乱で挙兵した大海人が軍を進めた、吉野から宇陀、伊勢、美濃を結ぶラインは、山の民(賀茂族)が支配する、丹砂や鉄、銅の産出する道でもある。
丹生または辰砂とも言い、硫化水銀である。この辰砂は『抱朴子』 にも出てくるように、古代においては不老長生の秘薬として珍重され、古代日本の王たちも血眼になってこれを求めた。古代の壬や豪族の墳墓に、辰砂が用いられているのも、その故であろう。古代の権力者は、死後の再生を願って、遺骸の枕元に辰砂を埋納させた。それほど辰砂は、古代人にとって秘薬だったのである。従って、その価値もまた極めて高かった。
しかし、辰砂の持つ価値は、そればかりではない。辰砂を熟して気化させ、それを水で冷やすと水銀が出来る。水銀は、金や叙、銅などと結合して合金を作る性質を持っている。つまり、それらの鉱石から金、銀、銅を抽出するには、水銀の原材料となる辰砂は欠かすことの出来ない物質なのである。仏教をもって国家の統一を図ろうとする権力者にとって、仏像の効能は大きい。その金色に輝く仏像は、水銀アマルガム法によって、初めて可能になるのである。他にも、贅をつくしたきらびやかな金、銀のメッキ細工も、このアマルガム法によらなければ出来ない。
 不老長生の秘薬であり、同時に大半の金属をたちどころに金銀の色に変えてしまう辰砂こそ、古代にあっては最高の宝であった。

つまり、大変な力を持っている一族を小角が統率して、弟王子(大海人皇子)に協力したので、大友皇子(弘文天皇)に大勝し、大友皇子は自ら首をくくって死ぬ。


そして、天武天皇の時代になるが、ここで小角に災難がふりかかる。
天武は密かに、自分の後継者を大津王子と考えていた。嫡子は、鹿野が生んだ草壁王子であったが、父親の天武に似ず、線が細く神経質なところがあった。それに引き替え、太田の生んだ次子大津は天武に似て、器量・才幹共に勝れ、王者の風格があった。天武はこの大津に後事を託す考えで、天武政権樹立に関わる二つの大事を打ち明けた。一つは、新羅の非公然の協力があって、天式政権が生まれたこと。そして、もう一つは、賀茂(神)の民との密約であった。
 しかし、六八六年、天武は大津を後継者に出来ないまま、崩御してしまった。そして、その一月後に、悲劇が大津を襲った。謀反の罪で謀殺されたのである。
同時に、天武と小角が交わした密約も、消失した。二十数年の努力が、一瞬で泡沫となった。
大王位には、后の鹿野が即いた。持続女帝である。そして、この持続政権に、藤原不比等が加わった。勿論、藤原鎌足の次子であり、日本史上屈指の大政治家となるその不比等である。不比等は、草壁王子とその子軽王子の後見人という重要な地位にいたのである。
不比等は驚くべき秘密を持統天皇から聞かされた。金峰山に住む役小角のことであつた。勝れた呪術者として、不比等もその名を知っていた。ところが何と、この行者の棟梁である小角と先帝天武との間に、驚くべき密約があったらしいというのだ。不確かではあったが、持統は天武の言葉の端々から、そのことを知ったという。
「天武の天下取りに協力した代償として、小角ら山の民に国を与える。その国は、倭国の山全体を版図とする」というのである。

六九七年、持統が孫の文武に譲位した。
翌年、持統の退位を待っていたかのように、不比等は動いた。間人として葛木山に放っていた韓国広足をして、小角を護訴させたのである。『続日本紀』は、そのことを次のように記している。
五月二十四日(文武天皇三年・六九九)、役の行者小角を伊豆嶋に配流した。はじめ小角は葛 木山に住み、呪術をよく使うので有名であった。外従五位下の韓国連広足の師匠であった。
のちに小角の能力が悪いことに使われ、人々を惑わすものであると謹言されたので、遠流の罪に処せられた。
刑部省の役人は、小角を捕らえる先に、先ず茅原村に向かい、母親の白尊女を捕縛した。そして、金峰山の小角の許に人を送り、母親を助けたければ素直に縛につくように命じた。そうでもしなければ、険阻な金峰山の頂上(山上ケ岳) にいる小角を捕まえることは到底出来なかったからだ。

 六九九年五月、小角は従容として縛につき、伊豆大島に流された。
十七歳で葛木山に入り、数々の修行を重ねてきた小角にとって、大島での生活もこれまでと変わることはなかった。小角は、海の見下ろせるこの岩穴に寵もり、金剛蔵王権現の力を借りて、全国に広がっているカスミと交信した。各地の重要なカスミには、小角の念波を受信出来る弟子が配置されていた。彼らと互いに交信しながら、小角はこの大島の岩穴にあって、賀茂の民の民人済度を祈りつづけた。
 いずれにしても、小角はこの大島で三年の流刑生活を終えた。しかし、小角は大和にも吉野にも帰ることはなかった。いや、帰ることが出来なかったというべきであろう。遠流というのは、重い刑である。たとえ刑期を終えたからといって、自分の故郷に戻ることは許されないのだ。大島を出た小角の足は、各地の霊山をカスミとする神の王国へと向かった。数百年もの昔から、賀茂(神) の民が夢見つづけた神の王国を、自分の目で確かめる旅に小角は出た。それは、亡き五鬼童への報告も兼ねていた。大島にあって、毎日のように仰ぎ見た霊峰富士、峨々たる山塊をなす箱根の霊山、それらを手始めに小角は一歩一歩歩を進めていった。
 手にした錫杖が、軽やかな音を立てている。ふと、前鬼の顔が、小角の脳裏に浮かんだ。おそらく、どこかの霊山の奥深くで、天智と共にひっそりと暮らしているにちがいない。ひょっとして、前鬼に逢えるかもしれぬな。
 そう思いながら、小角は嬉しそうに目を細めた。その柔らかな視線の先には、幾重にも重なり合って天を突く神の王国があった。
 役小角の没年は、大宝元年(七〇一) とされている。六十八歳であった。


高尾山をはじめ、役小角の行跡が残っているのは、伊豆大島から許されて帰って諸国を歩いた時だろう。
薬、鉱石、天文、気即法などを極めた小角は、各地で神のように崇められたのは間違いない。

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コメント

こんばんは

私は古代史が好きなので、ご紹介の本は興味がそそられました。
しかも、実在した人物の話とは...
絶対、読みますよ^^

No title

四季歩さん、こんにちわ

役行者ですか、数年前に、越生駅よりバスにて黒滝に行き、そこより、大平山に行きました。ここには、有名な石の役行者像があります。ただし、これ、その何年か前に故意に壊され、首から上を復元したものでしたが。この側には色々な石像も安置されていました。

日本書記にしろ、続日本書記にしろ、歴史書にはその時の為政者に都合の良いことしか書かれていないので、敵は鬼とか、書かれるのでしょうね。それが現在まで続いていますが。例えば、現在の中国の歴史には、共産党の大失政は書かれていないそうですね。毛沢東の大躍進政策の大失敗により2000万人以上が餓死したとか、森林を大伐採したために、それが現在では大影響を与えているとかの話は書いてないそうですね。

コメントありがとうございます

kurt2さん
そうでしたね。
お好きですよね、古代史。
このあたりの時代は激動期なので、
興味深々ですね。
「額田王」に一番関心あります。

matsumoさん
あのあたりに、役小角の像があるんですか?
知りませんでした。
そんなに遠くないので、近いうちに
行ってこようと思います。
教えてくださって、ありがとうです。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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