原発にノーを

20110616

今朝の朝日新聞「天声人語」:
イタリアの人々が原発に「ノー」を選択した。その報に、かの国の天才ダピンチの手記の一節が胸に浮かんだ。(君が手にふるる水は過ぎし水の最後のものにして、来たるべき水の最初のものである)(杉浦明平訳)。
美しい言葉だと思う。
人々の触れる水は、いまや脱原発という新しい流れである。「イタリアは原発にさよならを言わなければならない」と、放言王のベルルスコーニ首相もさすがにしおらしい。
だが代弁者らしき人が日本に現れた。自民党の石原幹事長である。
伊の選択を「あれだけ大きな事故があったので、集団ヒステリー状態になるのは心情としては分かる」と語ったった。他国の民意をヒステリー呼ばわりは失礼だが、言葉の先に日本の世論もあるなら、少し国民を侮っておられよう。
たしかに、嵐の日の決意は晴天の日には忘れられると言う。しかし福島第一原発事故で、私たちは原発の真実」をつぶさに知った。それ以前とは適う。その意味で事故は、時代を分かつ最後の水にして最初の水であろう。
知ったことの一つに、放射能について確かなことが乏しい実態がある。行政は混乱し、住民は何を信じるかで、安心と恐怖の間で振り子のように揺れる。「原爆・原発一字の違い」と言う。やはり人間とは容易には相容れない。
(木は自分の破滅をもって木を伐る者に復讐する)もダビンチの手記にある。木を伐る者は人間しかいない。どこか「神の火」をあやつる後世への警告めいて、天才の言葉は響く。
*******

これを読みながら、私が見ているテレビでは、佐賀県の玄海町の住民が「原発を動かしてくれないと困る」と口々に言う。それに対して隣の唐津市は市の大半が20KM圏内なので、不安を訴える。
玄海町は人口6000人。かなりの人が原発で食べているみたいだ。
小さな町なのに、持っているコンサートホールの巨大なこと。各種施設の建物の立派なこと。
しかし・・・・・、これらの立派な施設は電気料金の収益から出ているのではない。
私たちが、電気料金と別に取られている、月に500円の「エネルギー対策費」が巨額の交付金になってバラまかれているのだ。

石原幹事長は、悲惨にあえいでいるフクシマの国民の姿は目に入らず、このような原子力マネーの利権の今後の心配が先に立っているようだ。

日本は、原爆で悲惨な苦しみを味わいながら、原子力の危険に目をつぶり、フクシマの悲惨な事故を防げなかった。そして、三度目の悲惨な事態に突き進もうというのだろうか。
国会議員と言うのは、国(=国民)のために働くために存在しているのだと思うのだが、放射能で生活を狂わされている国民に頭を下げて、「脱原発」を誓う人はどれだけ居るのだろうか。


スポンサーサイト

コメント

非公開コメント
プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード

Pagetop