イリアム/ダン・シモンズ

20111030

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この本を手に取った時に、パラパラと拾い読みした時にたまたまギリシャ神話の神々が書かれていて、その人間臭い描写に、これは面白そうだと買って帰った。
そして長い小説だというのも気に入った。
なにしろ比較的小さい活字で、1ページに上下二段に書いてあって780ページ。厚さ4.5センチである。
面白くなかったら、とんだ苦行と化すが、面白かったから良かった。

どんな話かと言うと、ブックカバー裏のあらすじを転載しておこう。
*****
 はるか数千年もの未来、地球化された火星のオリエンボス山のふもとに住む学者ホッケンベリーは、イリアムの平原でギリシア神話の神々や英雄たちがホメ一ロスの『イーリアス』さながらに戦うトロイア戦争を観察していた。神々にナノテクで復活させられたホッケンベリーは、この戦争の記録をとらされていたのだ。だが、彼は思いもよらぬ使命をある女神からさずかる。
 地球でわずかに生き残っている人類は、仕事も学問もせず、衣食住のあらゆることを自動機械の下僕たちに任せ、享楽的な生活を送っている。この世界の仕組みに疑問をもった男ハーマンやその友人アーダとディーマンは、世界の謎をつきとめるべく旅に出た。
 木星の衛星エウロバに住む半生物機械モラヴェックのマーンムートは、イオのオルフらとともに、火星探険隊の一員として、火星へと向かった。地球化された火星で起こっている異常な量子擾乱の原因を調査しようというのだが‥…・
*****
このように、三つの話が同時進行で語られていく。
そして三つの話が一つに収束していくのだ。

やはり私が夢中になったのは、トロイの木馬で有名な「トロイア戦争」というギリシャ神話の世界である。この戦争では人間が戦うのだが、神々も両派に分かれ、ゼウスの妻ヘーラー、アテーナー、ポセイドーンがギリシア側に、アポローン、アルテミス、アレース、アフロディーテーがトロイア側に味方して、いろいろと介入するのである。


登場人物のなかで、うらやましいのが学者ホッケンベリーである。
神々からさずかった指名を遂行するために、いろいろな道具を与えられる。
まずは「QTメダリオン」だ。これは瞬時に望む場所に移動できる。
そして「変相ブレスレット」で、ほかの人間の姿を借りることが出来る。
それから「ハデスの兜」をかぶると、彼の姿はだれにも、神にも見えない。ただしゼウスとか特別な神には見えるらしいので注意が必要。
「QTメダリオン」と「変相ブレスレット」で、時には一兵卒の姿で、時には隅に居て差支えのない一武将の姿で、トロイア戦争の合戦のさなかに、戦評定の会議のさなかに紛れ込んで観察していることができる。

彼がはじめてオリュンポスの丘にもぐりこんだ時は、こんな場面だった。
*****
 主だった神々は、激論の真っ最中だった。そのあいだをぬって、下位の女神のひとりであるへーべが、神々の黄金の酒杯に黄金の神酒をついでまわっている。玉座にすわっているのは、大神ゼウスだ。あれがここを統べる存在であることは、ひと目見ただけでわかった。雷雲を操る神々の中の神、ゼウス ー。まさに雲をつくような大男であり、よくある漫画的なイメージなど微塵もなく、あごにはたっぷりと顎鬚をたくわえ、全身を香油で濡れ光らせており、いかにも帝王然としたその存在自体の強烈さに、わたしの血は畏怖で凍りつきそうになった。
「こんなありさまで、いかにすればこの戦を統制できるというのか!」居ならぶ大物の神々に向かって、ゼウスはことば鋭く問いかけた。ただし、射抜くような目でにらみすえている相手は、自分の妃、ヘラだ。「ヘレネの運命もまた然り。アルゴス晶眉のへラに、アカイアの守護者たるアテナ ー こういう女神たちがなおも介入をつづけるのであれば - いままさにアトレウスの子の首を刎ねんとするアキレウスの手を止めるようなふるまいを今後もくりかえすのであれば・・・・戦いを終わらせようがないではないか!」
 ゼウスはここで、嵐雲のごとく荒ぶる視線を動かし、紫色のクッションに寝そべる女神をにらみすえた。「そなたもだ、アフロディテ。そなたはつねに笑いながら、いつもいつも気にいりの若者パリスの味方をし、悪しき魂どもを追いはらい、狙いすまして投げられた槍を跳ね返すことをやめぬ。そなたらおせっかいな女神どもが、(運命) に背いてまで気にいりの者たちを保護しつづけるのであれば、いかにして神々の意志が - さらにだいじなことには、このゼウスの意志か - 分明になるというのか。
 そなたらの策謀にもかかわらず、ヘラよ、メネラオスはへレネを故郷へ連れ帰るかもしれぬし……イリアムがこの戦に勝利せぬともいいきれぬ。この戦はな、けっしてひとにぎりの女神が口出ししてよいものではないのだぞ」
 ヘラがほっそりとした腕を組んだ。『イリアス』 のなかで、ヘラは頻繁に(白い腕の女神)と描写されていたので、はかの女神の腕よりも白いのだろうとわたしは思っていたのだが、じつさいのへラの肌色は、たしかに白くはあるけれど、アフロディテやへラの娘へーベ、その他、このイメージ・プールのそばの特等席から姿が見えるはかの女神たちの腕とくらべて、とりたてて白いわけではなかった。ただ、女神たちの肌がみな白いなか、一柱だけ例外がいる。アテナだ。アテナだけは、不思議と褐色の肌色をしていたのである。この 〝白い腕〟 のたぐいの形容を、ホメロスが叙事詩のなかで好んだことはわたしも知っている。たとえば、アキレウスはたびたび 〝いと疾き者〟 と呼ばれているし、アポロンは〝彼方から矢を射かける老〟 と何度も言及されている。アガメムノンの名前の前には 〝あまねく支配する者〟 や 〝人間たちの王〟 かつくのかふつうだし、アカイア勢には 〝固い脛当てをつける老〟、アカイアの軍船には 〝黒〟 や 〝中空〟等の形容がつきものだ。これらの形容詞か頻繁にくりかえされるのは、形容のためよりも、強弱六歩格を成立させるためであり、吟唱詩人が決まり文句
でリズムを整えるための手段にほかならない。わたしには、このような定式文、たとえば 〝東雲が彼女の薔薇色の指を伸ばす〟 というような表現は、じつはことばの緩衝帯のようなものであって、吟唱詩人が - 即興で詩作するところまではいかずとも - つぎの数行を思い出すのに必要な数秒を稼ぐための、方便だったように思えてならない。
 とはいえ、そう思っていながらも、ヘラが夫に反論しはじめると、ついついその白い腕に目をやってしまうことは避けられなかった。
「クロノスの子よ - 万神が畏怖する偉大な王よ」白い腕を組んだまま、ヘラはいった。「いったいなにをおっしゃっておいでやら。わたくしの数々の努力を指して、よくもまあ無駄などといえたもの。アカイア勢を遠征させ、勇敢な男どもの自我をなだめ、トロイア勢を滅ぼす前に味方同士で殺しあわぬようにするために、このわたくしがどれほど汗を - 不死者の汗をかいたとお思いか、おおゼウスよ。また、プリアモスとプリアキスの子らを、そしてプリアモスの都イリアムを困窮させるべく、わたくしが -このわたくしみずからが - どれほどの手をかけたとお思いか」
 ゼウスは眉をひそめ、あまりすわり心地がよさそうには見えない玉座の上で身を乗りだした。その巨大な白い手は、何度もぐつと握りしめられたり開かれたりしている。
 ヘラは腕組みを解き、不愉快そうに両手をふりあげた。「お好きになさるがよろしいわ、あなたはいつもそう -ただし、わがまま勝手を押し通されたとき、わたくしたち不死者のなかに、けっしてあなたの行動を讃える者がいるとは思われないことね」
 ゼウスはすっくと立ちあがった。はかの神々が八フィートから九フィートほどだとすれば、ゼウスの身の丈は十二フィートもあるにちがいない。その額は、畝ができているというよりも、深い畝ができているというほうが適切だろう。つぎの瞬間、ゼウスは - これはけっして暗喩でも誇張でもない - 雷鳴の怒声を轟かせた。「ヘラよ - わが愛しき妻、飽くことなき欲望に憑かれたへラよ! プリアモスとプリアモスの息子たちがそなたになにをしたというのだ! そなたをそれほどに激怒させ、イリアムの都をあれほど容赦なく苦しめさせる、いったいなにをしでかしたというのだー」
 ヘラは両手を腰にあて、無言で立っている。これかまた、いっそう大神ゼウスの怒りをかきたてたらしい。
「そなたの介入は、怒りよりも強欲のなせるわざであろうが、ヘラよ!」ゼウスの音声が轟きわたった。「トロイアの門という門を打ち毀し、堅固な城壁を突き崩し、トロイアの民を生きたまま喰らうまで、そなたが満足することはあるまい!」
 ヘラの表情は、ゼウスの糾弾を否定するつもりがないことを物語っている。
 「ならば……ならば……」ゼウスはつかのま、ことばに窮した。悠久の時を経てもなお、妻と夫の力関係はあいかわらずらしい。「好きにせい! ただし、ひとつだけいっておくぞ---しつかりと肝に銘じておけよ、ヘラ ー いずれ余がひとつの都を破壊しっくし、その民を皆殺しにせんと決意する日がきたならば ー 余が愛でるイリアムに対してそなたがそうしているように、そなたが愛でる都を余が滅ぼすときがきたならば - けっしてわが怒りを押しとどめようとは思わぬことだ」
 ヘラは三歩、ゼウスに詰めよった。捕食者が獲物に襲いかかるような、チェスの名人が相手の隙を見つけて一気にたたみかけるような、そんな動きだった。「いいでしょう! さまざまな意味において、わたくしがもっとも愛する都は、アルゴス、スパルタ、ミュケナイの三つ。いずれも道広く、不運なイリアムに劣らぬ壮麗な都市ばかり。この三つを、あなたの野蛮な心か満足するまで蹂躙しつくされるがよろしいわ、わが王よ。異議などは唱えますまい。あなたのご意志にどうして逆らいましょう。逆らったとて無益というもの。あなたのはうがわたくしよりも強いのだから。けれど、これだけはお忘れにならないことね、おおゼウスよ - わたくしは、あなたの妃ではあるけれど、あなた同様、クロノスの子でもあり、それなりに尊重されてしかるべきなのですよ」
「そなたを尊重しなかったことは一度もない」
 ゼウスはつぶやくように答え、固い椅子に腰をおろした。
「だったら、たがいに譲歩しませんこと~」 ヘラの声が歴然と甘ったるい響きを帯びた。「わたくしもあなたに譲歩する。あなたもわたくしに譲歩する。下位の神々に否やがあろうはずもなく。アキレウスが戦場を離れたいま、トロイア勢とアカイア勢が対峙する戦場には干戈を交える音が絶えたまま -。この休戦をトロイア方が先に破り、アカイア勢が多数討ち死にするよう手配していただきましょう。
それも、ひときわ武門の誉れ高きアカイアの勇将たちが討ち死にする形で」
 ゼウスはうなり、うめき、椅子の上で姿勢を変えたものの、結局は、成りゆきを注視していたアテナにこう命じた。「ただちにトロイア勢とアカイア勢の喚声途絶えし戦場に赴き、トロイア方が先に休戦を破り、武名あるアカイアの猛将らか多数討ち死にするように手配せよ」
*****


トロイア戦争は、トロイアの王子パリスがスパルタ王メネラーオスの妃ヘレネを奪い去ったために、起こったのであるが、その絶世の美女ヘレネを一目見ようとホッケンベリーはパリスの館に忍び込む。
*****
 胸をどきどきさせながら、風に揺れるカーテンをかきわけ、開かれたままの戸口をくぐつて室内に入る。大理石の床を踏むサンダルは、はとんど音をたてない。屋敷内の犬たちならわたしの存在にも気づくだろうが――(ハデスの兜)も匂いまでは隠してくれないのだ―― 犬たちがいるのは一階、それも外庭で、パリスとへレネが住む中庭側には一頭もいない。
 へレネは湯浴みをしていた。そばには三人の侍女がかしづき、素足で大理石の階段を上り下りしては、石に濡れた足跡を残しながら、床より低い位置に設けられた浴槽に湯を注ぎこんでいる。浴槽そのものは薄いカーテンで囲われていたが、カーテンの内側には三脚燭台が置かれ、ランプも吊ってあるので、極薄のカーテンの生地はまったく視界を妨げる役にたっていない。不可視のまま、わたしは小さく揺れるカーテンの外に立ち、湯浴みするへレネを見つめた。
(これが―― 千隻もの軍船を動員させた乳房というわけだ)
 そう思ってすぐに、こんな下劣なことを考えた自分を叱りつけた。
 ここで彼女の肢体を形容するべきだろうか。その美貌のオーラが、その裸身の美しさが、なぜ三千年以上もの冷却期間を超えてなお男たちを魅了できるのか、理由を説明するべきだろうか。
 いや、それはやめておこう。けっして慎みや礼節からいっているのではない。わたしの貧弱な表現力では、とうていへレネの美しさを形容しえないからだ。いままでたくさんの女性の乳房を見てきたが、ヘレネの柔らかで豊満な乳房に、はたしてそれらとちがうところがあるのだろうか。太腿のあいだの三角形をした黒い秘毛が、いっそう完壁な形をしているか? 白い筋肉質の大腿にいっそう劣情をそそるものがあるのか? 純白の尻、力強い背中、小さな肩に、いっそう驚くべきなにかがあるのか?
 もちろん、ある。しかし、そのちがいを語ることは、わたしの能力を大きく超えている。失われた過去の生において、わたしは名もない学者でしかなかった。その生に関する空想のなかでは小説家だったような気もするが、ヘレネの美しさを的確に形容するには、ホメロスの、ダンテの、さらにはシェイクスビアのそれをも超える詩才が必要だろう。
 わたしは浴室をあとにし、閏房の外にある無人のテラスへ移動すると、ひんやりとした夜気のなか、細い変相ブレスレットに手を触れた。
「知ったことか」
 わたしは声に出してそういうと、ブレスレットの変相アイコンを親指で押しつけ、パリスの姿に変相した。(ハデスの兜)をかぶっているので、わたしの姿はだれにも見えないままだ。浮揚ハーネスその他一式も、すべて問題ない。
 おもむろに、兜以下、すべての装備をはずした。そのままなのは、変相ブレスレットと、首にかけた小型のQTメダリオンのみだ。はずした装備一式は、バルコニーの隅にある鼎の陰に隠した。いまのわたしは、人間の軍装だけを身につけたパリスだ。こんどは鎧と外衣を脱ぎ、これもバルコニ-に残した。これで柔らかな寛衣を身につけただけのパリスとなった。
 バルコニーのカーテンをかきわけ、浴室にもどる。わたしが浴槽のカーテンをあけると、ヘレネが驚いて顔をあげた。
「あなた?」一瞬、ヘレネは挑むような視線を送ってきたが、すぐにその視線を落とした。ヘクトルの前で手厳しいことばを投げかけたことを詫び、服従の意を表わそうとしているのかもしれない。
 語気も荒く、ヘレネは侍女たちに命じた。
「さがりなさい」 侍女たちは濡れた足でそそくさと退出していった。
 トロイアのへレネは、浴槽の階段をゆっくりとあがってきた。髪は全体に乾いており、濡れているのは肩甲骨と胸にかかったいくすじかの房だけだ。まだうつむきかげんのまま、ヘレネは長い睫毛のあいだから上目づかいにわたしを見あげ、たずねた。
「なんのご用でしょう、愛しい夫?」
 いおうとすることばが、なかなか出てこなかった。二度失敗したのち、わたしはようやく、パリスの声でこういった。
「褥へおいで」

 トロイアのへレネと愛しあうのがどういうものか、それを説明することはできる。しかし、あえて語りはすまい。そんなことを話すのが紳士的ではないのはもちろんだが、理由はそれだけではない。その詳細が、ここでわたしが語るべき物語の一部ではないからだ。
 だが、ひとつだけ言いきれることがある。
 執念深くわたしを探しつづけるムーサや逆上したアフロディテに見つかったとしても - 最初のラウンドをおえて、たがいに身を離し、汗に濡れたシーツの上に横たわって、息をととのえつつ、嵐の先触れの冷たい夜気でからだのはてりを冷ましているとき、怒れるムーサと美の女神が踏みこんできて、その場で殺されてしまったとしても- トーマス・ホッケンベリーの短い第二の生は幸せなものだったといえる。すくなくとも、幸せの絶頂でおわったといっていい。
 その至福の時がおぁってまもなく - だしぬけに、ヘレネがわたしの腹に短剣をつきつけた。
 「あなた、何者?」
 「ばくはきみの……」
 わたしはその先を呑みこんだ。ヘレネの目のなにかが、パリスだといいつのることを思いとどまらせたのだ。
「わたしの新しい夫だといおうものなら、ためらわずにこの刃を腹に突き刺すわよ」 
ヘレネは平然といった。「あなたが神なら、パリスに化けたことには目をつむりましょう。でも、もし神ではないのなら・・・・」
「神ではない」
 わたしはかろうじて声を絞りだした。短剣の切先は腹に突き当てられている。軽くひと押しするだけで、血が流れるはどに強く。この短剣、いったいどこから出したのだろう? セックスしているあいだも、クッションの下に隠してあったんだろうか。
「神ではないなら、どうやってパリスの姿になれたの?」
 わたしは実感した。これはまぎれもなくトロイアのへレネ―― ゼウスが人間に産ませた娘であり、神々と人間がしじゅぅセックスしている宇宙に―― 神々とそれ以外の者とを問わず、人間に姿を変えた着たちが人間界を闘歩し、因果関係がまったく異なる意味を持つ世界に―― 生きる女だ。
「神々に力を与えられたんだ。変相する……つまり、外見を変える力を」
「では、あなたはだれ?」とへレネはきいた。「何者?」
 怒っているふしはないし、驚いているふうでもない。声は冷静そのもので、美しい顔も恐怖や怒りに歪んではいない。ただ、腹に突きつけられた短剣はそのままだった。これは答えずにはすまないだろう。
「わたしの名はトーマス・ホッケンベリー、 学師だ」
 名前や仕事をいったところで意味がないとわかってはいる。それにしても、なめらかな響きを持つ古代言語のなかに混じると、わたしの名前は、自分自身の耳にさえ、ごつごつした感じに聞こえた。
「トー・マス、ホッ・ケン・ベア・リー……」 ヘレネは口真似をした。「ペルシア系の名前のようね」
「ちがう。実際には、オランダ、ドイツ、アイルランド系の名前だ」
 ヘレネは眉をひそめた。意味が通じないだけではなく、ひどく異様に聞こえたにちかいない。
「服を着なさい。テラスに出て話をしましょう」
 ヘレネの大きな寝所は、両側にテラスがあり、いっぽうからは中庭を見おろし、もういっぽうからはイリアムの南した。
 この恐るべき女性の前で、青白い裸身をさらして立ちつくす、中年男の図。辞書に 〝哀れ〟 の完壁な定義が必要なら、いまこの瞬間の写真を載せればいい。
「もうキトンをはおってもいいわ」
 わたしの裸身をじろじろと見ていたへレネは、ややあって、そういった。
 わたしはキトンをかき集め、はおった。布が裂けているので、片手で前を押さえねばならない。ヘレネはなにかを考えているようだった。それから数分間、わたしたちは無言でテラスに立っていた。
 もうかなり遅い時刻だというのに、イリアムのあちこちに立つ塔は松明の光で僅々と輝いている。遠い城壁の上には見張りの葦火も燃えていた。ずっと南のほう、スカイア門の向こうに見えるのは、死体を焼く炎だ。南西の方角では、そそりたつ嵐雲のなか、雷が閃いている。星はひとつも見えてはおらず、空気はイダ山の方角から近づいてくる雨の匂いを含んでいた。
 ややあって、わたしはたずねた。
「どうしてわたしがパリスではないとわかったんだ?」
 ヘレネはわれに返り、小さくほほえんだ。
「女はね、愛する夫の目の色は忘れても――声色や笑いかた、からだの特徴は忘れても――セックスの仕方だけは忘れないものなのよ」
 驚いて目をしばたたくのは、こんどはわたしの番だった。これはへレネの卑俗な表現のせいばかりではない。ホメロスは、今夜、都の外で待つヘクトルのもとへ駆けつけるパリスの外見を誉め讃え、〝常日ごろ潤沢に飼葉を与えられた駿馬〟と形容している。ある翻訳を引用すれば、〝昂然とこうべをかかげ、長い髪をたてがみのごとく肩になびかせ、つややかな体躯を栄光に輝かせて、駿足もたのもしく、堂々と戦場へと駆けていった〟 とのことだ。わが前世におけるティーンエイジャーの俗語を使えば---パリスはイケメンなのである。そして、ヘレネと褥をともにするあいだ、わたしはパリスの流れるような髪、褐色に陽灼けした肉体、賛肉のない腹、オイルを塗った筋肉などを……。
 唐突に、ヘレネがいった。
「あなたのほうがペニスが大きいし」
 わたしはふたたび目をしばたたいた。こんどは二度もだ。もちろん、ヘレネが 〝ペニス〟 という単語を使ったわけではない。この当時、ラテン語はまだ言語として成立途上にあった。それに、ヘレネが選んだギリシア語はスラングで、むしろ〝○○○〟 に近い。しかし、なんにせよ、ヘレネのいうことは矛盾している。彼女とセックスしているあいだ、わたしが使っていたのは、パリスのペニスだったのだから。
「といっても、あなたが夫ではないとわかった理由は、それだけではないわ」わたしの心を読んだかのように、ヘレネはいった。「いまのは、ただの感想」
「では、どうやって……」
「それはね - わたしを褥へ誘うときのやりかたよ、ホッ・ケン・ベア・リー」
 それについては、いうべきことがなかった。また、あったとしても、ろくに口にすることもできなかっただろう。
 ヘレネはふたたびほほえんだ。
「パリスがはじめてわたしを抱いたのは、わたしを勝ちとったスパルタの地でもなければ、このイリアムでもない。ここへくる途中に立ちよった、クラナエという小さな島でのことだったの」
 クラナエという島の名前は、わたしの知識にはないし、この単語は、古代ギリシア語では、〝岩がち〟 を意味するものでしかない。おそらくパリスは、ヘレネを連れてくる航海の途中、同乗のクルーに見られるのをいやがり、岩がちの小さな無人島に上陸して、ことにおよんだのだろう。とすると、パリスは……堪え性がないということになる。(それはおまえも同じだぞ、ホッケンベリー)
 自分の 〝良心の声〟 に聞こえなくもない声がささやいた。だが、いまごろ良心が出てきたところで、もう手遅れだ。「あのひとがわたしを抱いて - わたしもそれに応えて。以来、何百回も愛しあってきたわ」 ヘレネは静かにいった。
「でも、今夜みたいなセックスは経験したことがない……今夜みたいなセックスはね」
 わたしは混乱と疑念と誇らしさで興奮した。これは 〝よかった〟といっているのか? それとも、文句をいっているのか? いや、待て……こんなことを考えるのはばかげている。ホメロスはパリスを神のごとくに誉め讃えているではないか。.魅力的な美丈夫で、恋人としての手管にすぐれ、人間と女神とを問わず、女はみなメロメロになってしまうと。だとすれば、ヘレネかいう意味はただひとつ――。
「あなたはね」混乱に満ちたわたしの思いをさえぎって、ヘレネはいった。「あなたは……このうえなく情熱的なの」
 情熱的。わたしはキトンをいっそうしっかりと押さえ、混乱を隠そうとして、近づいてくる嵐に目を向けた。
 情熱的……。
「そして、誠実。とても誠実だわ」
 ヘレネはそこで口を閉じた。
*****

こんな場面は、後にも先にもこれっきりなのだが、ファンタジーにあふれているギリシャ神話の世界が具体的に、きわめて人間臭く語られていて、読んでいてまさに「血沸き肉躍る」話ばかりである。

人類の、考えられる未来の一つであろう「地球でわずかに生き残っている人類は、仕事も学問もせず、衣食住のあらゆることを自動機械の下僕たちに任せ、享楽的な生活を送っている。」
その先に待っている事とは何か?
この話もまた、大いに考えされられる話だった。

ものすごい分量の本を夢中で読み進んできて、読み終わったばかりだ。
二、三回読み返さないといけないだろうな。

すごく面白かった。


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コメント

こ、困りますよう~(笑)

四季歩さん、こんにちは。
すっかりご無沙汰してしまいました。お元気ですか?^^

記事、一気に読ませていただきましたが、困りますよう~。欲しくなっちゃうじゃないですか。秋の夜長にピッタリですね!^^

朝寝坊の私・・・QTメダリオンが欲しいデス。。。orz

渡 章魚禰(たこ)さん

コメントありがとうございます。

おかえりなさいっ!!!
いやあ嬉しいのなんのって・・・・・・

お久しぶりです。
お元気でなによりでした。

ぜひこの本読んでください。

私は「ハデスの兜」かなあ。
うひひ・・・・・(笑)

しまったデス><

そ、その使い道がありましたね(笑)<ハデスの兜

渡 章魚禰(たこ)さん

そうですよ(笑)

実に、欲しいですね。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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