黛 敏郎/歌劇『古事記』
20120618
イザナギ:甲斐栄次郎(バリトン)
イザナミ:福原寿美枝(メゾソプラノ)
スサノヲ:高橋 淳(テノール)
アマテラス:浜田理恵(ソプラノ)
オモイカネ:妻屋秀和(バス)
アシナヅチ:久保田真澄(バス)
天つ神/クシナダ:天羽明惠(ソプラノ)
使者 :吉田浩之(テノール)
語り部 :観世銕之丞
合唱:新国立劇場合唱団/日本オペラ協会合唱団
管弦楽 :東京都交響楽団
指揮:大友直人
演出:岩田達宗
2011年11月20日 東京文化会館大ホール
黛敏郎の歌劇『古事記』は1996年、ドイツのリンツ州立歌劇場の委嘱によって制作された。言語は、ドイツ語の古い語彙を使ったという。
これが国内では2度目の上演となるが、大友直人が東響で初演した際には舞台装置がつかないコンサート形式だったため、今回が舞台上演による日本初演となるとのことである。
素材は『古事記』のなかでも、よく知られたエピソード4つに求められている。すなわち、イザナギとイザナミによる国づくり、黄泉の国における2人の破局。アマテラス・スサノヲ姉弟の不和に端を発するアマテラスの岩戸隠れとそれを止めさせる神々の計略の顛末、そして改心したスサノヲによるオロチ退治の件。そして、姉弟の和解と、ニニギの天孫降臨までである。
1996年といえば、既にバブル経済が崩壊し、日本は「失われた10年」の只中にあったときだ。オウムが地下鉄サリン事件を起こしたのが1995年で、我が国の精神状態が不安定な分裂症状を示していた。このあいだ高橋克也がつかまり、やっとオウムの指名手配者が全員つかまり、あの荒唐無稽な悲惨な言語道断な事件も終局を迎えようとしているが。
黛は人々が下を向き、もはや未来がないと嘆いているときに、このような作品を書いたのである。イザナギとイザナミは、我々の「希望」において結びつく。アマテラスが過去を照らし、スサノヲは現代を平らげ、ニニギに未来が託される。この流れは、当時意味を持っていたと思う。
プロローグと第一幕
神秘的な、宇宙の始まりを思わせる序奏の中、語り部(観世銕之丞氏)が、現代の日本から太古の世界への回帰を語る。

「始源すべては空にして荒涼、生命の萌芽はいずこに?」とコーラスが歌い始めるところから第一幕。
夫婦神イザナギ、イザナミによる「国生み」の物語、8つの大きな島々を始め、海の神、山の神、川の神などを次々と生み出すイザナミ。


だがイザナミは、火の神の誕生によって命を失う。

イザナミを取り戻しに黄泉の国へ赴くイザナギ。
しかしイザナギはイザナミを取り戻すことができない。

やがて、太陽の神アマテラス、月の神ツキヨミ、そして気性の激しい海の神スサノヲの3柱の神が誕生する。



第2幕
天界に容れられなかったスサノヲは、荒れ狂って乱暴狼藉。
怒ったアマテラスは「天の岩戸」に姿を隠す。
アマテラスを誘い出そうと、知恵の神オモイカネが一計を案じ、

岩戸の前でアメノウズメの舞踏が繰り広げられる。

陽気に騒ぐ神々に誘われて、再び姿を現す太陽の女神アマテラス。

スサノヲはアマテラスによって、天界から放逐される。
第3幕
天界を追われたスサノヲは、やがて中つ国(地上の国)の出雲にたどり着く。

アシナヅチとその娘クシナダに出会ったスサノヲは、彼らを苦しめる八岐大蛇を退治して、クシナダと結婚する。


第4幕とエピローグ
戦いの準備を進める神々で、高天原は騒然としている。
中つ国には、いまだ神々に逆らう悪霊どもがはびこっているとあって、神々は戦いをも辞さぬ覚悟をしているのである。
そこへスサノヲからの使者が到着。
使者は、スサノヲが既に中つ国を平定したこと、またアマテラスとの和解を求めていることを告げる。

アマテラスはスサノヲを許すと同時に、地上の世界に平和がもたらされたことを喜び、皇孫二二ギノミコトをその国の支配者として降ろすことを決意する。

華々しい天孫降臨の行列の間に、舞台は転換。

「こうして、我らの国は始まった・・・」と述べる、語り部の言葉で、オペラの幕が下りる。
現在、「古事記」にどっぷりハマっている私は、大きな期待でこのオペラを見た。
ワーグナーの「指輪」みたいなものを期待していた私は、しかしずっこけてしまった。
やはり「古事記」は無理なのかなあ。
古事記が扱っているのは日本民族のルーツではなく、天皇家のルーツの話だ。「指輪」では、生々しく性格描写された神々の滅亡と人間の時代の到来が示唆されるが、古事記では、神が降臨して地上を治めることになったと説かれる。
だから、人間の「私」とあまり結びつかないんですよね。感情移入の対象が見つからない。
始めのほうで、黛は「希望」の再生を狙ってこれを作ったんじゃないかと書いたが、その点では成功したかどうかわからない、私には。
有名な場面のつなぎ合わせで出来事は描かれるが、およそ人物像は描かれない。説明的な合唱が中心になるので、何か古事記の内容の「おさらい」を受けているような気分になる。
ドイツの人に「古事記」を説明しているようなものなんだな、と言い訳を探している私であった。
私が、オリンポスの神々の物語(説明書きでなくて)を読むときの昂揚感、オペラ「指輪」を見るときの昂揚感は、ここには無かった。
音楽が分かりやすく響いたのは、大友直人の指揮によるところも大きいと思う。要所要所で盛り上がって、聴きやすかった。東京都交響楽団の演奏も、とても良かったと思う。

イザナミ:福原寿美枝(メゾソプラノ)
スサノヲ:高橋 淳(テノール)
アマテラス:浜田理恵(ソプラノ)
オモイカネ:妻屋秀和(バス)
アシナヅチ:久保田真澄(バス)
天つ神/クシナダ:天羽明惠(ソプラノ)
使者 :吉田浩之(テノール)
語り部 :観世銕之丞
合唱:新国立劇場合唱団/日本オペラ協会合唱団
管弦楽 :東京都交響楽団
指揮:大友直人
演出:岩田達宗
2011年11月20日 東京文化会館大ホール
黛敏郎の歌劇『古事記』は1996年、ドイツのリンツ州立歌劇場の委嘱によって制作された。言語は、ドイツ語の古い語彙を使ったという。
これが国内では2度目の上演となるが、大友直人が東響で初演した際には舞台装置がつかないコンサート形式だったため、今回が舞台上演による日本初演となるとのことである。
素材は『古事記』のなかでも、よく知られたエピソード4つに求められている。すなわち、イザナギとイザナミによる国づくり、黄泉の国における2人の破局。アマテラス・スサノヲ姉弟の不和に端を発するアマテラスの岩戸隠れとそれを止めさせる神々の計略の顛末、そして改心したスサノヲによるオロチ退治の件。そして、姉弟の和解と、ニニギの天孫降臨までである。
1996年といえば、既にバブル経済が崩壊し、日本は「失われた10年」の只中にあったときだ。オウムが地下鉄サリン事件を起こしたのが1995年で、我が国の精神状態が不安定な分裂症状を示していた。このあいだ高橋克也がつかまり、やっとオウムの指名手配者が全員つかまり、あの荒唐無稽な悲惨な言語道断な事件も終局を迎えようとしているが。
黛は人々が下を向き、もはや未来がないと嘆いているときに、このような作品を書いたのである。イザナギとイザナミは、我々の「希望」において結びつく。アマテラスが過去を照らし、スサノヲは現代を平らげ、ニニギに未来が託される。この流れは、当時意味を持っていたと思う。
プロローグと第一幕
神秘的な、宇宙の始まりを思わせる序奏の中、語り部(観世銕之丞氏)が、現代の日本から太古の世界への回帰を語る。

「始源すべては空にして荒涼、生命の萌芽はいずこに?」とコーラスが歌い始めるところから第一幕。
夫婦神イザナギ、イザナミによる「国生み」の物語、8つの大きな島々を始め、海の神、山の神、川の神などを次々と生み出すイザナミ。


だがイザナミは、火の神の誕生によって命を失う。

イザナミを取り戻しに黄泉の国へ赴くイザナギ。
しかしイザナギはイザナミを取り戻すことができない。

やがて、太陽の神アマテラス、月の神ツキヨミ、そして気性の激しい海の神スサノヲの3柱の神が誕生する。



第2幕
天界に容れられなかったスサノヲは、荒れ狂って乱暴狼藉。
怒ったアマテラスは「天の岩戸」に姿を隠す。
アマテラスを誘い出そうと、知恵の神オモイカネが一計を案じ、

岩戸の前でアメノウズメの舞踏が繰り広げられる。

陽気に騒ぐ神々に誘われて、再び姿を現す太陽の女神アマテラス。

スサノヲはアマテラスによって、天界から放逐される。
第3幕
天界を追われたスサノヲは、やがて中つ国(地上の国)の出雲にたどり着く。

アシナヅチとその娘クシナダに出会ったスサノヲは、彼らを苦しめる八岐大蛇を退治して、クシナダと結婚する。


第4幕とエピローグ
戦いの準備を進める神々で、高天原は騒然としている。
中つ国には、いまだ神々に逆らう悪霊どもがはびこっているとあって、神々は戦いをも辞さぬ覚悟をしているのである。
そこへスサノヲからの使者が到着。
使者は、スサノヲが既に中つ国を平定したこと、またアマテラスとの和解を求めていることを告げる。

アマテラスはスサノヲを許すと同時に、地上の世界に平和がもたらされたことを喜び、皇孫二二ギノミコトをその国の支配者として降ろすことを決意する。

華々しい天孫降臨の行列の間に、舞台は転換。

「こうして、我らの国は始まった・・・」と述べる、語り部の言葉で、オペラの幕が下りる。
現在、「古事記」にどっぷりハマっている私は、大きな期待でこのオペラを見た。
ワーグナーの「指輪」みたいなものを期待していた私は、しかしずっこけてしまった。
やはり「古事記」は無理なのかなあ。
古事記が扱っているのは日本民族のルーツではなく、天皇家のルーツの話だ。「指輪」では、生々しく性格描写された神々の滅亡と人間の時代の到来が示唆されるが、古事記では、神が降臨して地上を治めることになったと説かれる。
だから、人間の「私」とあまり結びつかないんですよね。感情移入の対象が見つからない。
始めのほうで、黛は「希望」の再生を狙ってこれを作ったんじゃないかと書いたが、その点では成功したかどうかわからない、私には。
有名な場面のつなぎ合わせで出来事は描かれるが、およそ人物像は描かれない。説明的な合唱が中心になるので、何か古事記の内容の「おさらい」を受けているような気分になる。
ドイツの人に「古事記」を説明しているようなものなんだな、と言い訳を探している私であった。
私が、オリンポスの神々の物語(説明書きでなくて)を読むときの昂揚感、オペラ「指輪」を見るときの昂揚感は、ここには無かった。
音楽が分かりやすく響いたのは、大友直人の指揮によるところも大きいと思う。要所要所で盛り上がって、聴きやすかった。東京都交響楽団の演奏も、とても良かったと思う。

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コメント
オペラもあるんですね
こんばんは。
古事記は最近妙に気に入っているのですが、オペラもあるのですね。
内容の善し悪しは良く判りませんが、一つ利口になりました^^
古事記は最近妙に気に入っているのですが、オペラもあるのですね。
内容の善し悪しは良く判りませんが、一つ利口になりました^^
No title
四季歩さん、こんにちは
古事記ですか。古田武彦氏の著作には、古事記に付いても出てきますね。
古事記の中には「天照大神」が出てきますが、古田氏によるとこれは「アマテルオオカミ」と言うのが正しい読み方のようで、九州には「あまてる神社」と言うのがあるのだそうです。
また、「天照大神」が住んでいたのは「天国(あまこく)」で、どれは、現在の「沖ノ島」ではないかと推測しています。確かに、ここは祭祀の島として有名な所で、今でも多数の捧げられたものが埋まっているそうですので。
古事記ですか。古田武彦氏の著作には、古事記に付いても出てきますね。
古事記の中には「天照大神」が出てきますが、古田氏によるとこれは「アマテルオオカミ」と言うのが正しい読み方のようで、九州には「あまてる神社」と言うのがあるのだそうです。
また、「天照大神」が住んでいたのは「天国(あまこく)」で、どれは、現在の「沖ノ島」ではないかと推測しています。確かに、ここは祭祀の島として有名な所で、今でも多数の捧げられたものが埋まっているそうですので。
コメントありがとうございました
薄荷脳70 さん
私も、最近「古事記」にハマっています。
まだ神様の名前を覚えるのに懸命な段階ですが(笑)
まあ、このオペラでの内容は、すでに知っていることの
オサライにすぎませんでしたが。
matsumoさん
古事記に書かれていることについては、
ものすごく諸説があるんでしょうね。
今は、神様の名前とはっきりしている系統関係の整理と、
どういう神様かを整理している段階です。
私が住んでる地域にある神社の祭神だけでも、
かなりありますね。
東京にまで広げたら、またけっこう増えそうです。
私も、最近「古事記」にハマっています。
まだ神様の名前を覚えるのに懸命な段階ですが(笑)
まあ、このオペラでの内容は、すでに知っていることの
オサライにすぎませんでしたが。
matsumoさん
古事記に書かれていることについては、
ものすごく諸説があるんでしょうね。
今は、神様の名前とはっきりしている系統関係の整理と、
どういう神様かを整理している段階です。
私が住んでる地域にある神社の祭神だけでも、
かなりありますね。
東京にまで広げたら、またけっこう増えそうです。
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
山本様
ご連絡ありがとうございます。
お問い合わせの件ですが、フルーレイ(BD-R)に
焼いたものであれば、差し上げることは出来ます。
いかがでしょうか?
お問い合わせの件ですが、フルーレイ(BD-R)に
焼いたものであれば、差し上げることは出来ます。
いかがでしょうか?