谷中七福神めぐり(前半)

20170115

1月6日に歴史クラブ行事として行いました。

コース
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山手線田端駅を10:30ちょっと過ぎにスタートしました。

【①東覚寺:福禄寿】
所在地:北区田端2-7-3  真言宗豊山派・白龍山寿命院東覚寺
本尊は不動明王像です。延徳3年(1491)源雅和尚が神田筋違に創建、根岸への移転を経て、慶長年間に当地へ移転したと伝えられる。江戸時代には、寺領7石の御朱印状を拝領した。
※赤紙仁王:身体の悪い人が、疾患のある部分に赤い紙を貼って祈願すれば、病気が回復すると信じられ、現在もなお、祈願する人が絶えない。横の草鞋(わらじ)は、祈願して病気が回復した人々によって供えられたものです。江戸時代の末期までは、田端村の鎮守である八幡神社の社前にありましたが、明治維新の神仏分離を契機に、別当寺であった東覚寺の境内に移された。

右が赤紙仁王のある不動堂、左の門を入ると東覚寺境内。
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赤紙仁王
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赤紙がびっしりと貼られ、仁王はまったくわからない。
右手に病気が回復した人々によって供えられた草鞋(わらじ)がある。
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不動堂の不動明王
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東覚寺境内
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七福神の福禄寿
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賽銭箱は龍が彫られた立派なもの。
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本堂前の弘法大師
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その横に、今では珍しい二宮金次郎の銅像。
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境内に、享保3年(1718)造立の庚申塔があり。
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庭が公開されていた。
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僧形八幡像があり。
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ここに、一か所七福神があり。
恵比須
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布袋尊
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福禄寿
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毘沙門天と寿老人
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弁才天
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大黒天
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おまけで、可愛い小僧の石仏。
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次の青雲寺に向かう途中あったお風呂屋さん二軒。
千歳湯
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富来湯
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【②青雲寺:恵比須】
所在地:荒川区西日暮里3-6-4  臨済宗妙心寺派・浄居山青雲寺
本尊は観音を安置す。智光禅師が開山となり創建、堀田相模守正亮が宝暦年間(1751-64)に中興したといわれます。江戸時代の中頃より「日ぐらしの里」と呼ばれ、庶民に親しまれてきたこの地は、四季折々の花を楽しむ人々で賑わった。そのため花見寺ともいわれていた。
滝沢馬琴の筆塚の碑(文化6年)、硯塚の碑(寛政10年)、日暮里船繋松の碑、狂歌師安井甘露庵の碑など、江戸を代表する文人の碑が多く残っている。
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七福神の恵比須
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滝沢馬琴の筆塚の碑(文化6年)
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硯塚の碑(寛政10年)、日暮里船繋松の碑、狂歌師安井甘露庵の碑
(下見のときの写真)
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当日は、水仙が咲いていた。
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撫子も咲いていた。
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雲が、タツノオトシゴの形になっていた。
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【③修性院:布袋尊】
所在地:荒川区西日暮里3-7-12  日蓮宗・運啓山修性院
天正元年(1573)豊島郡田中村(現練馬区南田中)に創建、寛文3年(1663)当地に移転したと伝えられます。江戸時代より花見寺として親しまれている。
※木造布袋尊像(荒川区登録文化財)は、「日ぐらしの布袋」ともよばれる。

塀に布袋さんのタイル絵があった。
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入ってすぐに本堂。
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本堂の中に安置された、七福神の布袋尊。
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本堂前に、珍しい「ランタナ」という可愛い花が咲いていた。
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この後、谷中銀座に出たところで参加者は自由行動とし、好きなところで昼食となった。

そして「夕焼けだんだん」で集合し、七福神めぐりを再開。

【④長安寺:寿老人】
所在地:台東区谷中5-2-22  臨済宗妙心寺派・大道山長安寺
老山和尚禅師(享保9年1724年寂)が開山、長安軒として安藤右京亮屋敷内に創建、正徳2年(1712)大道山長安寺の寺号が認められ、当地に移転したといいます。
※長安寺板碑(台東区登載文化財):1.建治2年(1276)4月 円内にキリーク種字を刻む、
2.弘安8年(1285)8月 上部にキリーク種字を刻む、3.正安2年(1300)2月 「比丘尼妙阿」と刻む、4.応永3年(1396)正月 上部に阿弥陀三尊の種字を刻む
※狩野芳崖墓(台東区登載文化財)
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寿老人は本堂の中に安置。
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寿老人
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本堂前の「長安寺板碑」(台東区登載文化財)
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1、建治2年(1276)4月 円内にキリーク種字を刻む
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2、弘安8年(1285)8月 上部にキリーク種字を刻む
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3、正安2年(1300)2月 「比丘尼妙阿」と刻む
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4、応永3年(1396)正月 上部に阿弥陀三尊の種字を刻む
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狩野芳崖墓(台東区登載文化財)
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門内参道には、いろいろな石仏あり。
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ここから天王寺に向かいましたが、続きは次の記事で。


谷中七福神めぐり(後半)を見る




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佐倉(国立歴史民俗博物館、佐倉城址、武家屋敷)探訪

20161119

10月12日(水)に歴史クラブの秋季定例見学会で訪ねました。
46名の参加で、電車で移動しました。京成佐倉駅に10時半に到着。
まずは歩いて10分ほどの、国立歴史民俗博物館を見学です。

入り口から夢少し登ったところに、臼杵石仏のレプリカがあり。
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【国立歴史民俗博物館】
全景の写真を撮らなかったので、公式HPから写真を借用しました。
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入場チケット
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入場して記念写真を撮ってから集合までの、昼食を含めての自由時間が3時間。
6つの室に分かれているが、一つの室をきちんと見たら2時間はかかります。
見たかった「民俗」の室はリニューアルに入ったため、来年の4月以降に再訪する予定。

ここでは、6月の下見のときにじっくり見た「中世」と、10月本番のときの「近世」を載せておきます。
全部が面白かったので、載せたいところだが、膨大なものになってしまうので、ほんの一部だけ載せておきます。

■中世
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宮廷の模型。狛犬の発祥「鎮子(ちんす)」がある。
鎮子:几帳などが風にあおられないよう、押さえるもの
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「乎己止点図」が面白かった。
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徳川家康が使用した印刷の活字
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武士の館
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洛中洛外図屏風
特に市中の様子が面白い。
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洛中洛外図をジオラマにしたもの
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「海東諸国紀」と「籌海図編」
書き込まれている日本の地域名がメチャクチャで面白い。
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1632年、マテアスが作った地球儀。
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織田信長の楽市令制札
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「高尾観楓図屏風」
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茶売り
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春日社の田楽
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浦嶋明神縁起絵巻
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■近世
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江戸図屏風
川越が描かれている。
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朝鮮通信使
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輸出品
生糸
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鮫皮加工品
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海産物
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須弥山世界
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算木
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のぞきからくり
「時代屋の女房」を思い出す。
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アイヌの着物「チカルカルベ」
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蝦夷国魚場風俗図鑑
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早竹虎吉の軽業
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養蚕技術の輸出
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奉納算額
「天地明察」に刺激されて、川越にある算額を探して歩いたことがある。
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平田国学
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村芝居の世界
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阿波人形
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百姓一揆の作法(夢の浮橋)
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国立歴史民俗博物館の見学を終え、その時間帯のなかで、レストランなどで昼食も済ませており、集合後佐倉城跡を見学。
時間の関係で、歩きながら見る、といった感じだったので、下見のときの写真も併せて載せておきます。

【佐倉城址】
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佐倉城は、鹿島山の西端部に築かれ、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ北側には印旛沼に至る低湿地が広がっていた。 戦国時代、本佐倉城主千葉親胤が大叔父にあたる鹿島幹胤に命じて築城を開始したが、親胤が暗殺されたために工事は中止され、千葉邦胤の代にも工事が試みられたものの今度も邦胤の暗殺によって完成することはなかった。だが、いつしか築城予定地には鹿島親幹にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになったという。

※千葉親胤は暗殺された当時、反北条氏的な立場であったらしく、暗殺劇の裏には北条氏と、千葉氏筆頭家臣で実力的には千葉氏を抑えていた原氏らの意向が伺える。

※千葉邦胤の暗殺のキッカケは「屁コキ事件」。天正十三(1585)年正月、邦胤が本佐倉城内に家臣を迎えての新年の宴を催した。その最中に配膳役の桑田万五郎が、役目の最中に二度に渡って屁を放った。当然、邦胤が怒ったが、万五郎は自然現象と開き直った。激怒した邦胤は万五郎を蹴り倒し、謹慎にした。万五郎はこの時の遺恨が忘れられず、ついに寝所に忍び入り、邦胤を二太刀斬り付けたという。結局万五郎は城下で自刃(あるいは斬殺)となり、邦胤も数日後にこの傷が元で死去してしまった。

1610年(慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、ついに佐倉城が完成した。江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、なおかつ初期は城主の入れ替わりが多かった。

江戸初期に城主であった堀田正信(後に改易されている)の弟・堀田正俊の孫・堀田正亮が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、堀田家が安定した藩の経営を行った。なかでも、幕末期の藩主・堀田正睦(ほった まさよし)は、日本を開国に導いた開明的な老中として有名である。

城郭は石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としている。 明治維新後に廃城令により建物のほとんどが撤去された。その後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となった。

1962年(昭和37年)3月28日に市の史跡に指定され、現在跡地は佐倉城址公園として整備されている。城の北西端に国立歴史民俗博物館が建っており、東端には出土遺物や明治初期撮影の城門・櫓の古写真、城の模型が展示され、日本100名城スタンプが置かれた佐倉城址公園センター(佐倉城址公園管理センター)がある。
本丸、二の丸、三の丸やさらにその外縁部の椎木曲輪、天神曲輪などの多くの郭の形状が広大かつ良好に残る。また、巨大な馬出空堀や天守跡、銅櫓跡の土塁形状や水堀に守られた西出丸、南出丸の形状なども良好に残っている。

博物館のすぐ横にある、巨大な「馬出し空堀」
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本丸跡への入り口に立つ「堀田正睦とタウンゼント・ハリス」の像
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少し進むと、正岡子規の句碑がある。
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深い空堀
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一の門跡
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広大な本丸跡
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土塁が高い
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本丸跡の土塁にある、「夫婦モッコク」
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雑木林の中を行く。
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三の門跡
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極めて幅の広い空堀
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佐倉城は、普通の大きな城に見られるような、石垣と水堀は無いが、高い土塁と広大な空堀に守られた良い城であることがわかった。

佐倉城址を後にして、少し歩き「ひよどり坂」に向かった。

【ひよどり坂】
急坂の両側を深い竹林が囲んでいて、とても良い坂なので、あえてコースに入れた。
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【武家屋敷通り】
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例えば、金沢の武家屋敷町は、石垣と土壁で通りと隔て、家は瓦葺きなのに対して、
佐倉の武家屋敷は、通りには土塁を築きその上に生垣を設け、家は茅葺だったりして、全く趣の違うものである。
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三軒の武家屋敷が公開されている。
時間の関係で、中に入らなかった。
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但馬家住宅
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くらやみ坂
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河原家住宅
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静かな空間だ。
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児玉源太郎が住んでいた。
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これで、武家屋敷の見学を終え、この日の予定は終了。
旧商家町を通って、駅に向かった。

旧佐倉町道路元標と佐倉藩高札場跡
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佐倉市立美術館
レトロな建物部分は、旧川崎銀行佐倉支店(千葉県指定有形文化財)です。
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街灯もいいですね。
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京成佐倉駅に帰りつき、この日の見学会は終了。
まだまだ、佐倉には行きたいところが沢山ある。
再訪を期しています。



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城山砦の清掃

20160730

今年の3月まで、市から委嘱されて「NPO・ユーアイネット柏原」が城山砦を管理していましたが、その期間が終了し、その後は「城山砦を守る会」が城山砦を守っていこうということになりました。

その最初の取り組みが、今回の清掃(草刈り)で、昨日29日(金)に行われました。

作業に参加したのは19名で、歴史クラブからは5名が参加しました。

ちょっと早めに行って、清掃前の状態を撮っておきました。
入り口付近
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二の郭付近
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本郭
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訪問者の休憩用にベンチを置いてあるのですが、ちょっと入れませんね(汗)
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というように、至る所雑草が生い茂っているのですが、2時間の作業でどこまで綺麗になるのか??

「NPOユーアイネット柏原」の手持ちの道具を活用しました。
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さあ、作業開始!!
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歴史クラブが参加したグループは、本郭を担当。
最初は、鎌や鋏で雑木や大きな草を刈ったり、枯れ枝を片付けたり・・・・
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動力付き刈り払い機で仕上げ。
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正直なところ、2時間の作業は、やはり暑くて大変でした(汗)
熱中症にはならないようにと、注意して頑張った。

2時間で、作業は終了しましたが、思ったよりもきちんと、大体のところは綺麗に出来ましたね。
皆さんの頑張りが素晴らしかったです。

入り口の農道わきも、綺麗にスッキリしました。
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本郭の、手入れ前と、手入れ後です。
ほんとに綺麗になって、嬉しくて仕方ありませんでした(笑)
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訪問者休憩場所の、手入れ前と手入れ後です。
これなら、気持ち良く休んでもらえますね。
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ほとんどの場所が、こんな感じになりました。
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充分な達成感をもって、お互いに感謝しながら作業を終えました。
「城山砦を守る会」の皆さん、お疲れ様でした。
歴史クラブから参加の皆さん、お疲れ様でした。

歴史クラブも、いままで地域連携活動として、主としてガイドに力を注いできましたが、今年から「地域連携活動部会」を発足させ、従来の活動に加え、文化財を守る活動にも参加していこうとしているので、今回の参加は有意義なものだったと、嬉しく思いました。

(了)


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浅草寺「四万六千日」&下町七夕まつり

20160710

7月9日(土)に、歴史クラブ行事として催行されました。
前日から、雨の予報だがどうしようと、スタッフでやきもきしましたが、せっかくの「功徳日」でもあり、小雨位なら決行しようとなりました。

朝起きた時は、雨は止んでいてホッとしたのですが、浅草に着いたときには雨(泣)

仲見世も傘の行列です。
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今日は縁日とあって、宝蔵門もすごい人だかり。
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宝蔵門から入ったところで、長老から薀蓄の披露がありました。
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浅草寺には、室町時代以降に「功徳日(くどくび)」と呼ばれる縁日が新たに加えられました。月に一日設けられたこの日に参拝すると、百日分、千日分の参拝に相当するご利益(功徳)が得られると信仰されてきました。
中でも7月10日の功徳は千日分と最も多く、「千日詣」と呼ばれていましたが、浅草寺では享保年間(1716~36)ごろより「四万六千日」と呼ばれるようになり、そのご利益は46,000日分(約126年分)に相当するといわれるようになりました(この数については「米一升分の米粒の数が46,000粒にあたり、一升と一生をかけた」など諸説ございますが、定説はありません)。

まずは参拝
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本堂は、すごい人の波。
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四万六千日と雷除の縁日です。
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「雷除」については、江戸の昔、落雷のあった農家で「赤とうもろこし」を吊るしていた農家だけが無事であったことから、文化年間(1804~18)以後に「雷除(かみなりよけ)」として赤とうもろこしが売られるようになりました。ところが明治初年に不作が原因で赤とうもろこしの出店ができなかったことから、人々の要望により「四万六千日」のご縁日に「雷除」のお札が浅草寺から授与されるようになり、今日に至っています。

本堂の中は、人波でお賽銭箱に近づくのも大変(笑)
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四万六千日の9日・10日限り授与される「雷除札」をいただきました。
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本堂を出ると、押し寄せてくる人の波がすごい。
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「ほおずき市」を楽しみました。
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お隣の、三社祭で有名な「浅草神社」にもお参り。
参道には、七夕飾りが林立(笑)
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待ち合わせ場所の宝蔵門に行くと、艶やかな浴衣姿につられて、ついパチリ(笑)
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浅草寺を出ようとして、スカイツリーが目に入った。上は雲で隠れていた。
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浅草寺を出て、かっぱ橋本通りに行く途中で、昼食のお店を物色。
女性軍は「かき小屋」を発見。生牡蛎と牡蠣のフライを楽しんだ。
男性軍は今半でスキヤキを堪能。

「下町七夕まつり」のかっぱ橋本通りにやってきました。
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残念ながら、雨のため七夕飾りも元気が無い。
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この通りは、通りの向こうにスカイツリーが見えるのが売り。
さっきより、雲が下に来ている。
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あちこちにカッパが居ます。
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ここで、ハーレーのパレードに遭遇。
唯でさえハーレーは迫力があるのに、サイドカー付きで満艦飾でした。
すごかった。
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「かっぱ寺」を皆さんに案内できると思っていたら、なんと門が閉じられていて中に入れず(泣)
残念!!

「台東区のヘソ」のところにある「かっぱの乙女」
人気があります。
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本当は、「越中おわら節」を見たかったところですが、雨の中2時間くらい待っているわけにもいかず、上野駅入谷口まで歩いて、終了としました。

私は、富山県が故郷なので、「越中おわら」は何度も見ています。
今回、「越中おわら」が見られなくて残念な方は、その記事をご覧ください。

その記事を見る



(了)


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堀兼地区史跡めぐりウォーク/地域連携活動・狭山台中央自治会

20160626

6月20日(月)に行われた、狭山台中央自治会が企画し、歴史クラブが支援して行った史跡めぐりウォークです。
今回のコースは「堀兼地区」です。
コースは、下新田の共同墓地⇒権現橋の石仏群⇒あぐれっしゅげんき村⇒堀兼神社⇒堀兼の井⇒上赤坂の弁財天と庚申塔⇒堀兼の新田開発
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【下新田の共同墓地】
所在地:狭山市大字北入曽636付近
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向かって右が普門品読誦供養塔、左が馬頭観音供養塔
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1)普門品(ふもんぼん)読誦(どくじゅ)供養塔(くようとう) :明治3年(1870)
比較的新しい供養塔で、台座に刻まれている銘文から、観音経を唱えた北入曽村の信者集団が、ある回数観音経を唱えたことの記念と自分たちの村の安寧を祈って立てたものと云うことがわかります。
この供養塔の台座の右側面には「右 扇町屋」、左側面には「左 三ヶ島八王子道」とあるように、道標も兼ねています。
もとはこの先の堀兼(上)の交差点付近にありましたが、道路の拡張工事に伴い、現在の場所に移転されました。

2)馬頭観音供養塔(文字塔) :天保9年(1838)8月
馬頭観音は観音菩薩が姿を変えた仏様で、衆生の無知や煩悩を断ち切り、諸悪を破壊消滅させる力を持っています。ここにあるのは文字塔で、銘文から北入曽下新田の馬持中が建てたものとわかります。馬頭観音は、頭上に馬の頭を乗せ、怒った形相で表現される浮彫像も各地で見られます。近世には民間信仰と結びつき、現当二世安楽を願って建てるものと、生産社会の中で大切な役割を果たしていた馬の守護神として建てるものとにかわってきました。
この供養塔も同様に道標を兼ねており、「右 新かし(河岸)、左 川こへ(越)」と刻まれ、もとは下新田バス停付近の三叉路に立っていたものですが、いつの頃からか。現在の場所に移転されました。

【権現橋の石仏群】
所在地:狭山市大字堀兼743付近
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権現橋は不老川にかかっている。
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 権現橋の袂に石仏が4体並んでいます。この場所は、旧鎌倉街道の枝道(堀兼道)と江戸時代に産業道路として栄えた新河岸街道と合流する道との交差点であり、多くの人々が行き交いました。
石仏は以前、旧鎌倉街道に面し、鳥居やケヤキ、近くに茶店もあって、旅人はここで一休みし、旅の無事などを願ったと言われています。
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現在は、旧鎌倉街道に直角に、不老川に面して並んでいる。
石仏は正面向かって右から、地蔵菩薩、子の大権現、馬頭観音、月待供養塔であり、権現橋の名前は子の大権現に由来しています。

○地蔵菩薩
向かって右端が地蔵菩薩です。造立されたのは享保4年(1719)、本体には堀金村施主と刻まれ、高さは174cmです。地蔵菩薩は極楽往生に力を貸してくれる仏であるところから、多くの人々に及ぶようにと人通りの多いこの交差点に造立したものと思われます。
なお、この地蔵には次の「化け地蔵」の伝説があります。昔、東三ツ木住んでいた気の弱い大工さんが、仕事帰りに地蔵さんの前を通ると、突然大入道のようなものが現れて道を塞ぎました。怖くなって持っていた斧を振り下しました。実は大入道は地蔵さんで、今も右肩が欠けており、化け地蔵だから切られたと言われ、遠くまで知れ渡ったそうです。
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○子(ね)の大権現
右から2番目が「子の大権現」で、正面に「子大権現」と刻まれた文字塔です。橋の名前はこの文字塔の名前に由来しています。造立されたのは文政5年(1822)11月、台座には堀金村中と刻まれています。
この「子の大権現」は飯能市吾野の通称「子の権現」を本社として、大麟山雲洞院天龍寺で延喜11年(911)                 に創建されています。子の年、子の月、子の日、子の刻に生まれた子(ね)の聖が各地行脚の後当山を開かれたそうです。その後、弟子の恵聖上人が子の聖を大権現と崇め、子の聖大権現社を建立したそうです。
なお、子の聖が亡くなる時、足腰の病める者は一心に祈れば、その効き目を得るでしょうと言われて以来、足腰守護の神仏として信仰されたことから、交通上重要なこの交差点に堀金村が子の大権現を勧請したものと言われています。この「子の権現」には草鞋や下駄が奉納されています。
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○馬頭観音(馬頭観世音菩薩の略)
向かって右から3番目が馬頭観音で、元文5年(1740)9月の造立です。正面右側に為先祖有縁聖霊追建立之、下部に堀兼村願主横山氏と刻まれています。なお、馬頭観音が数多く造立されたのは18世紀半ば以降で、物資の輸送や農耕に馬が盛んに利用され始めた結果、馬の供養塔が増えたものと考えられます。
しかし、この馬頭観音は銘文から先祖や諸々の霊を供養する為に造立したものです。馬頭観音に現当二世安楽の願いを託す本来の信仰の姿を示し、ここを往来する人々に手を合わせて貰うのが、最大の供養であると思われています。
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○月待供養塔
左端が「月待供養塔」で、正面に元禄2年(1689)2月造立、武州入間郡河越領堀兼村 相岳儀円首座 願主心窓妙伝大姉 名主宮沢口左衛門と刻まれ、その下に与頭吉沢□右□□ほか15名と刻まれていました。
左側面には上赤坂ほか64ケ村、右側面には双柳(なみやなぎ:飯能市)ほか54ケ村、裏面には月待講 小澤平次郎ほか10名とありました。
正面の浮彫像は、月待供養の本尊の勢至菩薩で、月待とは十三夜、十五夜、二十三夜などに月の出を待って拝むことで共同飲食の場でもありました。この供養塔の特徴は、側面に120ケ村の村名が刻まれて                 いたことにあり、この各村々は交通安全を願って造立に協力したものでないかと言われています。
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ここから歩きだしてすぐのところに、道端に大きなサボテンがはみ出していて、大きな花を咲かせていた。
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堀兼神社に向かう途中、JA直売所「あぐれっしゅげんき村」で休憩。
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この日は暑かったので、日陰の道になると大喜び(笑)
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【堀兼神社】
 堀兼神社については、既に詳しく記事にしているので今回は省略します。

その記事を読む


堀兼神社は、境内のほぼ全域が木陰となっていて、皆さんホッとして説明を聞いています。
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随身門前での説明。
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随身門には欄間の彫刻とか立派です。
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境内にある石仏の説明を聞く。
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随身門から本殿に上がると、富士塚の頂上です。
富士塚の参道を下って、五合目の小御嶽神社、麓にある日枝神社の彫刻なども確認しました。
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【堀兼の井】
堀兼神社の由緒にあるように、日本武尊が掘ったという言い伝えがありますが、詳しいことは不明です。「ほりかねの井」は古い文献にも出てきます。最も古いところでは伊勢大輔が詠んだ「いかでかと思ふこころは堀かねの井よりも猶深さまされる」の1首です。平安時代に清少納言が著した『枕草子』には「井はほりかねの井、玉ノ井、走り井は逢坂なるがをかしきなり」という有名な文があります。しかし、記録がないので、ここが「ほりかねの井」かどうかははっきりしていません。
井戸の傍らにある石碑の内、川越藩主の秋元喬知(たかとも)が建てさせた左側の石碑に「この凹んだ地形のところがいわゆる堀兼の井の遺跡である。しかし長い年月の間にその由来がわからなくなるのを恐れるので、石の井桁を窪みの中に置き、石碑にそのことを刻んでその傍らに建て、以て構成の参考に備える次第である。云々」(原文は漢文)とあり、これによって堀兼の井といえばここであることが定説となりました。
大正13年(1924)に県の文化財に指定されています。

「堀兼の井」の前で説明を聞く。
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堀兼の井
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川越藩の石碑
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【上赤坂弁財天】
所在地:狭山市大字上赤坂87付近

説明はコース手前の、上赤坂の森を出る直前に木陰の下で行いました。
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上赤坂弁財天:
弁財天は、元禄13年(1700)  頭に鳥居を戴き、右手に宝剣(現在は欠損)、左手に宝珠を持つ浮彫2臂で、台座には波を切って走る帆掛け船が刻まれています。
最下部には「これより中山はんのふ(飯能)、此の道大目(青梅)、左ハ武蔵野所沢」と刻まれていて、作善としての道標も兼ねていることがわかります。
手前の道は江戸時代には河岸街道とよばれていて新河岸川の河岸場へと通じる道です。当時、新河岸周辺は舟運により江戸と川越を結ぶ物資の集散地でした。川越からは米・茶などの農産物が江戸に運ばれ、江戸からは肥料や古着等が送られてきました。狭山周辺の村もその物流経済の中にありましたので、この弁財天の特徴である台座の帆掛け舟は、舟運による流通経済の発展と舟の安全を願って刻まれたものとも推察されます。
弁財天はインドから豊穣をもたらす大地の神として伝わったものですが、仏教が民間に広く普及するとともに、庶民の発想による様々な弁天様が登場します。圧倒的に多いのは水の恵みと深くかかわる弁天様です。狭山市周辺でも豊かな水の恵みを請い、五穀豊穣を祈って建てられた弁天像がいくつか見られます。上赤坂の弁財天も水の乏しいこの地域にあって、本来の役割を担うとともに、現世のご利益をも受け持つ多彩な神様となっています。

上赤坂弁財天と庚申塔がある十字路。
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弁財天
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台座の帆掛け舟
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横にある庚申塔:
この庚申塔は、元文5年(1740)10月造立、一面六臂の浮彫青面金剛立像で、上赤坂の村民13名によって建てられたことが碑文によってわかります。邪鬼を踏みつけ、その下に三猿が刻まれています。持ち物は鉾・弓・矢と左手が欠落していますが法輪を持っていたと思われます。日・月・鶏も印刻されています。これらのことから五穀豊穣・現当二世安楽を願ってたてられたものでしょう。
また、この庚申塔の場所は。旧堀兼村と旧上赤坂村の村境で、村外から侵入してくる疫病や病虫害から守る「塞ぎ(ふせぎ)」を目的として建てたといわれています。
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【堀兼の新田開発】

不老川を挟んで向う側に、新田開発された畑が見通せる場所で説明。
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天正18年(1590年)北条氏が滅亡し、豊臣秀吉の命令で新たな領主として徳川家康が江戸に入城しました。それを契機として江戸周辺地域で年貢収入の増加を図るために、多くの新田開発が実施されました、当地北武蔵の新田開発は、年貢の増収を図ることで藩の財政を少しでも豊かにするために川越藩の政策で行われました。
尚、江戸幕府創立は徳川家康・征夷大将軍の慶長8年(1603年)―大政奉還は徳川慶喜・慶応3年(1867年)の264年間です。
徳川家康は天文11年(1543年1月31日)生まれで死亡は元和2年(1616年6月1日)です。

堀兼の新田開発は三代将軍家光に仕えて、寛永16年(1628年)忍藩(おしはん)から第五代川越藩主として入城した老中の松平伊豆守信綱で慶安2年(1649年)に着手しました。信綱は「知恵伊豆」と称された人で新河岸川を整備して川越と江戸の間に舟運を開設し、玉川上水の工事を完成させ野火止用水を開削、この飲料水を利用して武蔵野の畑作新田を開発しました。
この地域の新田村で最も古いのは柏原新田で50石、その後開発されたのが堀兼村で1300石、続いて開発されたのが上赤坂村の300石、中新田の260石です。川越市分は今福、中福、上松原、下松原、下赤坂の新田が有ります。

近隣の新田は川越藩領として県道126号線沿いの所沢方面に三冨(さんとめ)新田(上冨、中富、下富)や三芳新田があります、その他今福、中福、上松原、下松原、下赤坂の新田が有ります。
五代将軍綱吉に仕えて元禄7年(1694年)に江戸在勤から第8代川越藩主として入城した大老格の柳沢吉保が開発に着手しました、論語より三富(さんとめ)の名をとって近世新畑開発のモデルとしました。

堀兼の開発責任者は上奥富村の名主の二男だった志村次郎兵衛(ベーエ)が選任され、堀兼の開発引受人として宮沢兵右衛門が当てられました。
承応年間(1652-55年)になると、近隣の村から次男・三男が入植して開発が進められました。(着手から3年後に入植)
入植から10年余り経った寛文元年(1661年)5月の検地帳によりますと、入植者は62戸となっています。

この新田は千年前の政治家王安石の考案した短冊形農地で、千百(せんぱく)法による地割(南北の畦道、東西の畦道)によっています。間口が約20間(約36m)、奥行き約460間(830m)の長方形の土地で面積は1戸当たりおよそ3町歩(3ha)と広大でした、今見ても整然と区画された土地は開発当時からの姿です。
所有面積は7町歩が3戸、4町歩が8戸、3町歩が22戸、2町歩が24戸、1町歩が5戸です(合計62戸)。土地が短冊状に区割りされた理由は、牛馬が農作業をやり易いようにし、住居を出来るだけ1か所に集め、後背の林も集中させ、幹線道路へのアクセスを各戸が平等に便利になるように考えたためといわれています。

開拓作業は生い茂るススキの原野を焼き払って、くわ、すき、かま、モッコ等を使い全て人力で開墾しました。
堀兼の地は、大昔この辺りは古多摩川が流れており、大小の石ころで大変な労苦を強いられました。
土地の北側に家を建て、南に広がる原野を開墾していきました、そして北側にコナラ、クヌギ等の広葉樹を植え、その枯葉を堆肥として、木や枝を燃料としました、今我々が目にする雑木林は当時植えたもので、人によって管理された2次林です。

不老側の向こうに、短冊形に開発された畑が広がっています。
家があり、その向こうの屋敷林までで、830mとなります。
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カーブミラーに、説明を受けている皆さんが映っていた。
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これで、予定は全て完了。
出発地点近くまで戻り、涼しいレストランで昼食・歓談をしてから、解散となりました。


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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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