城山砦の清掃

20160730

今年の3月まで、市から委嘱されて「NPO・ユーアイネット柏原」が城山砦を管理していましたが、その期間が終了し、その後は「城山砦を守る会」が城山砦を守っていこうということになりました。

その最初の取り組みが、今回の清掃(草刈り)で、昨日29日(金)に行われました。

作業に参加したのは19名で、歴史クラブからは5名が参加しました。

ちょっと早めに行って、清掃前の状態を撮っておきました。
入り口付近
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二の郭付近
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本郭
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訪問者の休憩用にベンチを置いてあるのですが、ちょっと入れませんね(汗)
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というように、至る所雑草が生い茂っているのですが、2時間の作業でどこまで綺麗になるのか??

「NPOユーアイネット柏原」の手持ちの道具を活用しました。
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さあ、作業開始!!
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歴史クラブが参加したグループは、本郭を担当。
最初は、鎌や鋏で雑木や大きな草を刈ったり、枯れ枝を片付けたり・・・・
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動力付き刈り払い機で仕上げ。
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正直なところ、2時間の作業は、やはり暑くて大変でした(汗)
熱中症にはならないようにと、注意して頑張った。

2時間で、作業は終了しましたが、思ったよりもきちんと、大体のところは綺麗に出来ましたね。
皆さんの頑張りが素晴らしかったです。

入り口の農道わきも、綺麗にスッキリしました。
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本郭の、手入れ前と、手入れ後です。
ほんとに綺麗になって、嬉しくて仕方ありませんでした(笑)
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訪問者休憩場所の、手入れ前と手入れ後です。
これなら、気持ち良く休んでもらえますね。
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ほとんどの場所が、こんな感じになりました。
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充分な達成感をもって、お互いに感謝しながら作業を終えました。
「城山砦を守る会」の皆さん、お疲れ様でした。
歴史クラブから参加の皆さん、お疲れ様でした。

歴史クラブも、いままで地域連携活動として、主としてガイドに力を注いできましたが、今年から「地域連携活動部会」を発足させ、従来の活動に加え、文化財を守る活動にも参加していこうとしているので、今回の参加は有意義なものだったと、嬉しく思いました。

(了)


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浅草寺「四万六千日」&下町七夕まつり

20160710

7月9日(土)に、歴史クラブ行事として催行されました。
前日から、雨の予報だがどうしようと、スタッフでやきもきしましたが、せっかくの「功徳日」でもあり、小雨位なら決行しようとなりました。

朝起きた時は、雨は止んでいてホッとしたのですが、浅草に着いたときには雨(泣)

仲見世も傘の行列です。
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今日は縁日とあって、宝蔵門もすごい人だかり。
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宝蔵門から入ったところで、長老から薀蓄の披露がありました。
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浅草寺には、室町時代以降に「功徳日(くどくび)」と呼ばれる縁日が新たに加えられました。月に一日設けられたこの日に参拝すると、百日分、千日分の参拝に相当するご利益(功徳)が得られると信仰されてきました。
中でも7月10日の功徳は千日分と最も多く、「千日詣」と呼ばれていましたが、浅草寺では享保年間(1716~36)ごろより「四万六千日」と呼ばれるようになり、そのご利益は46,000日分(約126年分)に相当するといわれるようになりました(この数については「米一升分の米粒の数が46,000粒にあたり、一升と一生をかけた」など諸説ございますが、定説はありません)。

まずは参拝
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本堂は、すごい人の波。
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四万六千日と雷除の縁日です。
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「雷除」については、江戸の昔、落雷のあった農家で「赤とうもろこし」を吊るしていた農家だけが無事であったことから、文化年間(1804~18)以後に「雷除(かみなりよけ)」として赤とうもろこしが売られるようになりました。ところが明治初年に不作が原因で赤とうもろこしの出店ができなかったことから、人々の要望により「四万六千日」のご縁日に「雷除」のお札が浅草寺から授与されるようになり、今日に至っています。

本堂の中は、人波でお賽銭箱に近づくのも大変(笑)
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四万六千日の9日・10日限り授与される「雷除札」をいただきました。
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本堂を出ると、押し寄せてくる人の波がすごい。
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「ほおずき市」を楽しみました。
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お隣の、三社祭で有名な「浅草神社」にもお参り。
参道には、七夕飾りが林立(笑)
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待ち合わせ場所の宝蔵門に行くと、艶やかな浴衣姿につられて、ついパチリ(笑)
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浅草寺を出ようとして、スカイツリーが目に入った。上は雲で隠れていた。
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浅草寺を出て、かっぱ橋本通りに行く途中で、昼食のお店を物色。
女性軍は「かき小屋」を発見。生牡蛎と牡蠣のフライを楽しんだ。
男性軍は今半でスキヤキを堪能。

「下町七夕まつり」のかっぱ橋本通りにやってきました。
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残念ながら、雨のため七夕飾りも元気が無い。
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この通りは、通りの向こうにスカイツリーが見えるのが売り。
さっきより、雲が下に来ている。
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あちこちにカッパが居ます。
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ここで、ハーレーのパレードに遭遇。
唯でさえハーレーは迫力があるのに、サイドカー付きで満艦飾でした。
すごかった。
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「かっぱ寺」を皆さんに案内できると思っていたら、なんと門が閉じられていて中に入れず(泣)
残念!!

「台東区のヘソ」のところにある「かっぱの乙女」
人気があります。
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本当は、「越中おわら節」を見たかったところですが、雨の中2時間くらい待っているわけにもいかず、上野駅入谷口まで歩いて、終了としました。

私は、富山県が故郷なので、「越中おわら」は何度も見ています。
今回、「越中おわら」が見られなくて残念な方は、その記事をご覧ください。

その記事を見る



(了)


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堀兼地区史跡めぐりウォーク/地域連携活動・狭山台中央自治会

20160626

6月20日(月)に行われた、狭山台中央自治会が企画し、歴史クラブが支援して行った史跡めぐりウォークです。
今回のコースは「堀兼地区」です。
コースは、下新田の共同墓地⇒権現橋の石仏群⇒あぐれっしゅげんき村⇒堀兼神社⇒堀兼の井⇒上赤坂の弁財天と庚申塔⇒堀兼の新田開発
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【下新田の共同墓地】
所在地:狭山市大字北入曽636付近
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向かって右が普門品読誦供養塔、左が馬頭観音供養塔
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1)普門品(ふもんぼん)読誦(どくじゅ)供養塔(くようとう) :明治3年(1870)
比較的新しい供養塔で、台座に刻まれている銘文から、観音経を唱えた北入曽村の信者集団が、ある回数観音経を唱えたことの記念と自分たちの村の安寧を祈って立てたものと云うことがわかります。
この供養塔の台座の右側面には「右 扇町屋」、左側面には「左 三ヶ島八王子道」とあるように、道標も兼ねています。
もとはこの先の堀兼(上)の交差点付近にありましたが、道路の拡張工事に伴い、現在の場所に移転されました。

2)馬頭観音供養塔(文字塔) :天保9年(1838)8月
馬頭観音は観音菩薩が姿を変えた仏様で、衆生の無知や煩悩を断ち切り、諸悪を破壊消滅させる力を持っています。ここにあるのは文字塔で、銘文から北入曽下新田の馬持中が建てたものとわかります。馬頭観音は、頭上に馬の頭を乗せ、怒った形相で表現される浮彫像も各地で見られます。近世には民間信仰と結びつき、現当二世安楽を願って建てるものと、生産社会の中で大切な役割を果たしていた馬の守護神として建てるものとにかわってきました。
この供養塔も同様に道標を兼ねており、「右 新かし(河岸)、左 川こへ(越)」と刻まれ、もとは下新田バス停付近の三叉路に立っていたものですが、いつの頃からか。現在の場所に移転されました。

【権現橋の石仏群】
所在地:狭山市大字堀兼743付近
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権現橋は不老川にかかっている。
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 権現橋の袂に石仏が4体並んでいます。この場所は、旧鎌倉街道の枝道(堀兼道)と江戸時代に産業道路として栄えた新河岸街道と合流する道との交差点であり、多くの人々が行き交いました。
石仏は以前、旧鎌倉街道に面し、鳥居やケヤキ、近くに茶店もあって、旅人はここで一休みし、旅の無事などを願ったと言われています。
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現在は、旧鎌倉街道に直角に、不老川に面して並んでいる。
石仏は正面向かって右から、地蔵菩薩、子の大権現、馬頭観音、月待供養塔であり、権現橋の名前は子の大権現に由来しています。

○地蔵菩薩
向かって右端が地蔵菩薩です。造立されたのは享保4年(1719)、本体には堀金村施主と刻まれ、高さは174cmです。地蔵菩薩は極楽往生に力を貸してくれる仏であるところから、多くの人々に及ぶようにと人通りの多いこの交差点に造立したものと思われます。
なお、この地蔵には次の「化け地蔵」の伝説があります。昔、東三ツ木住んでいた気の弱い大工さんが、仕事帰りに地蔵さんの前を通ると、突然大入道のようなものが現れて道を塞ぎました。怖くなって持っていた斧を振り下しました。実は大入道は地蔵さんで、今も右肩が欠けており、化け地蔵だから切られたと言われ、遠くまで知れ渡ったそうです。
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○子(ね)の大権現
右から2番目が「子の大権現」で、正面に「子大権現」と刻まれた文字塔です。橋の名前はこの文字塔の名前に由来しています。造立されたのは文政5年(1822)11月、台座には堀金村中と刻まれています。
この「子の大権現」は飯能市吾野の通称「子の権現」を本社として、大麟山雲洞院天龍寺で延喜11年(911)                 に創建されています。子の年、子の月、子の日、子の刻に生まれた子(ね)の聖が各地行脚の後当山を開かれたそうです。その後、弟子の恵聖上人が子の聖を大権現と崇め、子の聖大権現社を建立したそうです。
なお、子の聖が亡くなる時、足腰の病める者は一心に祈れば、その効き目を得るでしょうと言われて以来、足腰守護の神仏として信仰されたことから、交通上重要なこの交差点に堀金村が子の大権現を勧請したものと言われています。この「子の権現」には草鞋や下駄が奉納されています。
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○馬頭観音(馬頭観世音菩薩の略)
向かって右から3番目が馬頭観音で、元文5年(1740)9月の造立です。正面右側に為先祖有縁聖霊追建立之、下部に堀兼村願主横山氏と刻まれています。なお、馬頭観音が数多く造立されたのは18世紀半ば以降で、物資の輸送や農耕に馬が盛んに利用され始めた結果、馬の供養塔が増えたものと考えられます。
しかし、この馬頭観音は銘文から先祖や諸々の霊を供養する為に造立したものです。馬頭観音に現当二世安楽の願いを託す本来の信仰の姿を示し、ここを往来する人々に手を合わせて貰うのが、最大の供養であると思われています。
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○月待供養塔
左端が「月待供養塔」で、正面に元禄2年(1689)2月造立、武州入間郡河越領堀兼村 相岳儀円首座 願主心窓妙伝大姉 名主宮沢口左衛門と刻まれ、その下に与頭吉沢□右□□ほか15名と刻まれていました。
左側面には上赤坂ほか64ケ村、右側面には双柳(なみやなぎ:飯能市)ほか54ケ村、裏面には月待講 小澤平次郎ほか10名とありました。
正面の浮彫像は、月待供養の本尊の勢至菩薩で、月待とは十三夜、十五夜、二十三夜などに月の出を待って拝むことで共同飲食の場でもありました。この供養塔の特徴は、側面に120ケ村の村名が刻まれて                 いたことにあり、この各村々は交通安全を願って造立に協力したものでないかと言われています。
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ここから歩きだしてすぐのところに、道端に大きなサボテンがはみ出していて、大きな花を咲かせていた。
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堀兼神社に向かう途中、JA直売所「あぐれっしゅげんき村」で休憩。
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この日は暑かったので、日陰の道になると大喜び(笑)
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【堀兼神社】
 堀兼神社については、既に詳しく記事にしているので今回は省略します。

その記事を読む


堀兼神社は、境内のほぼ全域が木陰となっていて、皆さんホッとして説明を聞いています。
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随身門前での説明。
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随身門には欄間の彫刻とか立派です。
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境内にある石仏の説明を聞く。
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随身門から本殿に上がると、富士塚の頂上です。
富士塚の参道を下って、五合目の小御嶽神社、麓にある日枝神社の彫刻なども確認しました。
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【堀兼の井】
堀兼神社の由緒にあるように、日本武尊が掘ったという言い伝えがありますが、詳しいことは不明です。「ほりかねの井」は古い文献にも出てきます。最も古いところでは伊勢大輔が詠んだ「いかでかと思ふこころは堀かねの井よりも猶深さまされる」の1首です。平安時代に清少納言が著した『枕草子』には「井はほりかねの井、玉ノ井、走り井は逢坂なるがをかしきなり」という有名な文があります。しかし、記録がないので、ここが「ほりかねの井」かどうかははっきりしていません。
井戸の傍らにある石碑の内、川越藩主の秋元喬知(たかとも)が建てさせた左側の石碑に「この凹んだ地形のところがいわゆる堀兼の井の遺跡である。しかし長い年月の間にその由来がわからなくなるのを恐れるので、石の井桁を窪みの中に置き、石碑にそのことを刻んでその傍らに建て、以て構成の参考に備える次第である。云々」(原文は漢文)とあり、これによって堀兼の井といえばここであることが定説となりました。
大正13年(1924)に県の文化財に指定されています。

「堀兼の井」の前で説明を聞く。
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堀兼の井
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川越藩の石碑
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【上赤坂弁財天】
所在地:狭山市大字上赤坂87付近

説明はコース手前の、上赤坂の森を出る直前に木陰の下で行いました。
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上赤坂弁財天:
弁財天は、元禄13年(1700)  頭に鳥居を戴き、右手に宝剣(現在は欠損)、左手に宝珠を持つ浮彫2臂で、台座には波を切って走る帆掛け船が刻まれています。
最下部には「これより中山はんのふ(飯能)、此の道大目(青梅)、左ハ武蔵野所沢」と刻まれていて、作善としての道標も兼ねていることがわかります。
手前の道は江戸時代には河岸街道とよばれていて新河岸川の河岸場へと通じる道です。当時、新河岸周辺は舟運により江戸と川越を結ぶ物資の集散地でした。川越からは米・茶などの農産物が江戸に運ばれ、江戸からは肥料や古着等が送られてきました。狭山周辺の村もその物流経済の中にありましたので、この弁財天の特徴である台座の帆掛け舟は、舟運による流通経済の発展と舟の安全を願って刻まれたものとも推察されます。
弁財天はインドから豊穣をもたらす大地の神として伝わったものですが、仏教が民間に広く普及するとともに、庶民の発想による様々な弁天様が登場します。圧倒的に多いのは水の恵みと深くかかわる弁天様です。狭山市周辺でも豊かな水の恵みを請い、五穀豊穣を祈って建てられた弁天像がいくつか見られます。上赤坂の弁財天も水の乏しいこの地域にあって、本来の役割を担うとともに、現世のご利益をも受け持つ多彩な神様となっています。

上赤坂弁財天と庚申塔がある十字路。
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弁財天
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台座の帆掛け舟
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横にある庚申塔:
この庚申塔は、元文5年(1740)10月造立、一面六臂の浮彫青面金剛立像で、上赤坂の村民13名によって建てられたことが碑文によってわかります。邪鬼を踏みつけ、その下に三猿が刻まれています。持ち物は鉾・弓・矢と左手が欠落していますが法輪を持っていたと思われます。日・月・鶏も印刻されています。これらのことから五穀豊穣・現当二世安楽を願ってたてられたものでしょう。
また、この庚申塔の場所は。旧堀兼村と旧上赤坂村の村境で、村外から侵入してくる疫病や病虫害から守る「塞ぎ(ふせぎ)」を目的として建てたといわれています。
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【堀兼の新田開発】

不老川を挟んで向う側に、新田開発された畑が見通せる場所で説明。
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天正18年(1590年)北条氏が滅亡し、豊臣秀吉の命令で新たな領主として徳川家康が江戸に入城しました。それを契機として江戸周辺地域で年貢収入の増加を図るために、多くの新田開発が実施されました、当地北武蔵の新田開発は、年貢の増収を図ることで藩の財政を少しでも豊かにするために川越藩の政策で行われました。
尚、江戸幕府創立は徳川家康・征夷大将軍の慶長8年(1603年)―大政奉還は徳川慶喜・慶応3年(1867年)の264年間です。
徳川家康は天文11年(1543年1月31日)生まれで死亡は元和2年(1616年6月1日)です。

堀兼の新田開発は三代将軍家光に仕えて、寛永16年(1628年)忍藩(おしはん)から第五代川越藩主として入城した老中の松平伊豆守信綱で慶安2年(1649年)に着手しました。信綱は「知恵伊豆」と称された人で新河岸川を整備して川越と江戸の間に舟運を開設し、玉川上水の工事を完成させ野火止用水を開削、この飲料水を利用して武蔵野の畑作新田を開発しました。
この地域の新田村で最も古いのは柏原新田で50石、その後開発されたのが堀兼村で1300石、続いて開発されたのが上赤坂村の300石、中新田の260石です。川越市分は今福、中福、上松原、下松原、下赤坂の新田が有ります。

近隣の新田は川越藩領として県道126号線沿いの所沢方面に三冨(さんとめ)新田(上冨、中富、下富)や三芳新田があります、その他今福、中福、上松原、下松原、下赤坂の新田が有ります。
五代将軍綱吉に仕えて元禄7年(1694年)に江戸在勤から第8代川越藩主として入城した大老格の柳沢吉保が開発に着手しました、論語より三富(さんとめ)の名をとって近世新畑開発のモデルとしました。

堀兼の開発責任者は上奥富村の名主の二男だった志村次郎兵衛(ベーエ)が選任され、堀兼の開発引受人として宮沢兵右衛門が当てられました。
承応年間(1652-55年)になると、近隣の村から次男・三男が入植して開発が進められました。(着手から3年後に入植)
入植から10年余り経った寛文元年(1661年)5月の検地帳によりますと、入植者は62戸となっています。

この新田は千年前の政治家王安石の考案した短冊形農地で、千百(せんぱく)法による地割(南北の畦道、東西の畦道)によっています。間口が約20間(約36m)、奥行き約460間(830m)の長方形の土地で面積は1戸当たりおよそ3町歩(3ha)と広大でした、今見ても整然と区画された土地は開発当時からの姿です。
所有面積は7町歩が3戸、4町歩が8戸、3町歩が22戸、2町歩が24戸、1町歩が5戸です(合計62戸)。土地が短冊状に区割りされた理由は、牛馬が農作業をやり易いようにし、住居を出来るだけ1か所に集め、後背の林も集中させ、幹線道路へのアクセスを各戸が平等に便利になるように考えたためといわれています。

開拓作業は生い茂るススキの原野を焼き払って、くわ、すき、かま、モッコ等を使い全て人力で開墾しました。
堀兼の地は、大昔この辺りは古多摩川が流れており、大小の石ころで大変な労苦を強いられました。
土地の北側に家を建て、南に広がる原野を開墾していきました、そして北側にコナラ、クヌギ等の広葉樹を植え、その枯葉を堆肥として、木や枝を燃料としました、今我々が目にする雑木林は当時植えたもので、人によって管理された2次林です。

不老側の向こうに、短冊形に開発された畑が広がっています。
家があり、その向こうの屋敷林までで、830mとなります。
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カーブミラーに、説明を受けている皆さんが映っていた。
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これで、予定は全て完了。
出発地点近くまで戻り、涼しいレストランで昼食・歓談をしてから、解散となりました。


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「狭山市の歴史を訪ねる」記事一覧に飛ぶ



狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/堀兼地区-3(三ツ木村・加佐志村)

20160623

6月14日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
『新編武蔵風土記稿』に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。

堀兼地区の三回目で、堀兼地区の概要については、前々回の記事に載せてあります。

今回の説明は、川田さん。

この日のルートは、推定鎌倉街道堀兼道枝道⇒東原富士塚⇒愛宕神社⇒伝上杉定朝討ち死にの場⇒阿弥陀堂⇒鎌倉街道切り通し遺構⇒寿荘(トイレ休憩)⇒馬頭観音(道標)⇒共同墓地⇒羽黒神社⇒普門寺跡伝承地⇒石橋供養塔⇒三ツ木家の観音堂(子育て観音)⇒東三ツ木薬師堂
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『新編武蔵風土記稿』における、該当する部分
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【推定鎌倉街道堀兼道枝道】
進行方向左手に三ツ木が原古戦場跡、その向こうに道路を挟んでホンダ技研の狭山工場が見えます。
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「三ツ木が原の合戦」の戦場になったのは三ケ窪(現在の本田技研の入口から工場にかけてのあたり)周辺と伝えられています。
『新編武蔵風土記稿』記述:
「三ケ窪より末に鎌倉の古道とて小径あり南の方と所澤より、堀兼村にかかり加佐志青柳の界を経て村内へかかり五町許を経て奥冨の内にて八王子道に合ふ。北条氏の寄せ来りしは此の道なるべしと云」

この道は、振り返ると西武新宿線線路で切断されている。
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この角を左に行くと、「三ツ木が原古戦場」碑が立っている公園があり。
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【東原富士塚】
所在地:狭山市新狭山三丁目(東原)
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小御嶽神社碑
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「書行(角行)大神・身禄大神」碑
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山頂には、「富士岳神社」碑
裏面に明治16年建立とある。
碑が「神社」となっていることからも、明治に建てられたものであることが裏付けられる。
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随身の猿が御幣と神楽鈴を持っているのが、実に良い。
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境内社か、以前からここにあったものか。

琴平神社
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保食社(うけもちしゃ)
祭神は保食神(うけもちのかみ)と云い、食物神である。
同じ食物神である宇迦之御魂神(稲荷神社の祭神)とも同一視され、稲荷神社に祀られることもある。
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これも、以前からここ(付近)にあったものと思われる。
文政7年(1824)建立の馬頭観音
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【愛宕神社】
鎮座地:狭山市大字東三ツ木字下の沢79
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由緒碑
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 明治41年12月21日、古くから祀られていた当神社は堀兼神社に合祀されたそうです。
そのあとに祀られていた愛宕神社石祠(寛政二年1789建立)・七柱神社石祠(明治二十二年)・山田神社石祠(明治十八年)をもとの愛宕神社の祀られていた所に集めて境内社とし、昭和50年神殿を造営して今の愛宕神社となった。

社殿
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本殿が扉に接して置かれていて、全体は撮れない。
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主祭神;軻遇突智命
合祀神:天神七世尊、倉稲魂尊
天神七世とは『古事記』では、次の神である。
1.国之常立神(くにのとこたちのかみ)
2.豊雲野神(とよぐもぬのかみ)
3.宇比邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ)
4.角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)
5.意富斗能地神(おおとのじのかみ)・ 大斗乃弁神(おおとのべのかみ)
6.淤母陀琉神(おもだるのかみ) ・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)
7.伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)
(左側が男神、右側が女神)

「元弘天文之戦場」碑が境内にあり。
堀兼村青年団東三ツ木支部・堀兼村女子青年団東三ツ木支部が建てたもの。
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【伝上杉定朝討ち死にの場(江丸橋東公園付近)】
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川越城を北条氏綱に奪われた上杉朝定が北条氏網の後を継いだ氏康の奇襲を受けて戦死したと伝えられている場所です。このあたり一帯まで激戦の戦場となっていたことが推測できます。

加佐志にある鎌倉街道標示
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【阿弥陀堂】
西丸山の共同墓地にあり。
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安置されている阿弥陀仏
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入り口付近にある、元文4年(1739)造立の馬頭観音。
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【鎌倉街道切り通し遺構】
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此の道はこの後2つに分かれます。一方は川越市の大袋新田、池辺を経て上戸の河越館に、一方は奥冨の前田集落を経て柏原の城山砦付近を通り上宿で分岐しますが、ともに以後の道筋ははっきりしません。

【寿荘(トイレ休憩)】
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この辺りは昔は湧水が出ていて、縄文時代の生活跡が発掘されています。
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上池の跡
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【馬頭観音(道標)】
明治15年 粕谷久五郎 
右 所沢 四谷道   左 上とめ道  板橋
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【共同墓地】
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「耳だれ地蔵」
元禄七年(1694)建立 浮彫立像地蔵菩薩 願主;斎日講中 現当二世安楽
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 ※洒を入れた「たかずっぽ(竹筒)」を供えて巌掛けをし、代わりに以前供えてあるたかずっぽを持ち掃って中の酒を耳に付ける。治った時はお礼に2本のたかずっぽを収める。
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「三体の丸彫り地蔵菩薩立像」
 1.(石橋供養塔)安永十年(1781)2月 願主;得性(僧侶?行者?)
    久保川に架けた石橋の完成記念  銘文に「風下村」
 2.(念仏供養塔) 享保四年(1719) 加佐志村村民による
       岩船地蔵信仰に基づいて建てられたものと思われます。
 3.(三界万宝塔) 享保八年(1723)8月 願主;加佐志村奥冨氏
※明治30年代(189了~1906)赤痢の流行‥・橋の傍らから3体の地蔵菩薩(夢のお告げ)
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【羽黒神社】
鎮座地:狭山市大字加佐志174
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・主祭神:稲倉魂尊(うがのみたまのみこと)
合祀神:須佐之男命、火産霊命、十九神霊社(大東亜戦争戦没者19柱を祀る)

・出羽の国羽黒山出身の伴蔵人一俊が応永年間(1394~1497)に創建か?
 羽黒権現を村の産土神に。 「奥冨扇斗」に改名⇒ほとんどが「奥冨」姓

・菩提樹;伴蔵人一俊が奥州羽黒山より持参し植えたという言い伝えがあります。
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この日は、ちょうど花が終わったところ。
葉の裏から華房がぶら下がっている。
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これは2012年に撮った、もうちょっと遅い時期の写真。
葉から実がぶら下がっている。
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別当寺は寶林寺(峯林寺)といい、現在は加佐志集会所となっている。
宗派は新義真言宗・羽黒山恵日院と号し、靑梅市金剛寺未と云われ、開基は村内百姓甚五郎衛門(元和二年三月二日1616没。)
本尊は大日如来立像。体内仏があるといわれていますが、不明です。
大日如来立像を中心に33体の金箔の木造坐像が安置されています。台座を含め、高さ30cm程度。これらの坐像は文化文政のころ60年間に作られ、江戸の商人や寺からの寄贈名と年月が書かれています。地元の先祖が靑梅の聞修院からもらいうけ、明治2年(1869)に遷し祀られました。
風土記稿によると観音堂があり、千手観音が祀られていたということですが、今は行方不明だそうです。

かって会員の方から、33体の金箔の木造坐像の写真を頂いてあるので載せておきます。
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【普門寺跡伝承地】
老人ホーム「さくら」周辺。「さくら」ができる以前は、遠くから見ると他の畑地よりも-段高くなっていて目立っていたということです。そういわれればそう見えなくもないところです。
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【石橋供養塔】
薪狭山南口交差点付近に、寛延三年(1750)造立の浮彫地蔵立像の石橋供養塔が久保川の三ツ木堀にかかっている小さな橋のたもとに立っています。
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【三ツ木家の観音堂(子育て観音)】
昔から子育て、安産にご利益があるとされ、個人所有の観音堂ですが祭りの日には屋台が出るほど賑わったそうです。すぐ近くのお茶屋、三ツ木園が代々管理している。
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本尊:十一面観世音菩薩坐像
背に墨書銘あり「干時慶長拾余年(1609)太良右門 妙春 武州入間都□郷観音
昭和11年に塗り直されていて、ピカピカです。
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境内に三ツ木家墓地。2基の書石塔婆があります。応安四年(1371)と明徳三年(1392)。
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【東三ツ木薬師堂】
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・金子国重⇒三ツ木国重 守護神の薬師如来の「夢のお告げ」により、金子領三ツ木から当地に移る。
・木造薬師如来立像及び十二神将(お堂の中にあって、見ることができません。)
当薬師堂縁起によると、奈良時代に行基が刻んだ尊像となっていたが、昭和3年(1928)の調査の結果、底の部分に「応永6年(1399)9月18日 作者常仁」と墨暮があることがわかりました。14世紀に当地を開いた金子国重の守護神といわれています

木造薬師如来立像及び十二神将については、以前文化財調査が行われた際に立ち会った会員の方から写真を頂いていたので、ここに載せておきます。
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・石幢六地蔵 
貞享五年(1688)10月15日
 三ツ木家の先祖の回向仏であるにもかかわらず近隣6か村の名も刻まれている。三ツ本家が当地の有力者であったためと思われる。
 ※貞享5年は9月29日迄。9月30日から元禄3年
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・馬頭観音(文字塔)
明治31年(1898)成5月16日 功徳主・三ツ木富之助
午の供養のために建てたものだといわれています。
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これで、この日の予定は全て消化しました。
満足して、新狭山駅前のレストランで昼食歓談後、解散しました。


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広瀬・根岸地区史跡めぐりウォーク/地域連携活動・鵜ノ木第七自治会

20160618

5月29日(日)に行われた、鵜ノ木第七自治会が企画し、歴史クラブが支援して行った史跡めぐりウォークです。
今回のコースは「広瀬・根岸地区」です。
コースは、本富士見橋(入間馬車鉄道)⇒本富士見橋⇒富士見橋架設記念碑⇒日暮らしの馬頭さん⇒廣瀬神社⇒入間馬車鉄道広瀬停車場⇒信立寺⇒広瀬浅間神社⇒清水宗徳の墓⇒明光寺⇒日光脇往還⇒根岸の渡し跡

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【本富士見橋(入間馬車鉄道)】
入間馬車鉄道は、埼玉県入間郡入間川町(項在の狭山刊と入間郡飯能町(現在の飯能市)を結んでいた馬車鉄道で、明治34(1901)年5月~大正6(1917)年12月までの16年間、武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)の開通前、鉄道の存在しなかつた飯能地区と、南北に伸びる川越鉄道(現在の西武新宿線)とを連絡する鉄道系交通幾関として重要な役割を果たしました。
(概要)
川越鉄道の入間川駅(現狭山市駅)の西口から北麓を回り込むように新たに鉄道用に造られた馬車新道(現在の狭山市駅から市民会館へ向かう道路の七夕通りの交差点まで)を走ったのち、入間川町の中心街(ほぼ三百戸の街並み)を経て、入間川を本富士見僑付近で渡り、水富村(項在の広瀬・根岸・笹井地区)をひたすら西進して飯能町の中心部に至っていました。
(停車場などの路線データ)
 全線で13の停車場がありました。停車場の位置は公表れた正確な記録が残っていないが、当時の経営者家族、株主、付近の古老など百人近い人々から聞取り調査した結果、ほぼ確定しています。
 入間川駅発着所-菅原一諏訪下-河原宿-広瀬-根岸-笹井-八木(はちぎ)-野田-岩沢一双栁-前田-飯能発着所。
(入間馬車鉄道の歴史)
当馬車鉄道敷設の契機になったのは、明治28年に開通した川越鉄道です。鉄道路線がなかった埼玉県西部地域が、この開通でようやく鉄道の恩恵を受けることが期待されました。しかし、同鉄道は南北に伸びる路線であり、直接的に恩恵を受けるのは所沢・入間川町・川越町などに限られた地域のみで、同鉄道の路線から大きく外れた飯能町方面からは、昔ながらの馬・馬車・大八車、数少ない人力車をもつて旅客や貨物を運ぶしかありませんでした。そこで川越鉄道を補助する東西の路線として、入間川駅を起点とする馬車鉄道が計画されたのです。入間馬車鉄道(株)はこのような期待のもと株主約2百名、資本金6万円(現在価値=2億4千3百万円)で発足しました。
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【本富士見橋】
「富士見橋架設記念碑」 
広瀬側本富士見橋たもと

刻文:
文化の進展は交通の利便に待つこと甚だ多く 交通の利便は橋梁の完備に関わること極めて大なり。然るに往年入間川飯能道は完全なる橋梁なく入間の奔流に交通を遮断させらるること屡(しばし)なりき。上広瀬の人清水宗徳氏夙(つと) に之を憂い明治八年官許を得て徴料広瀬渡船橋を榮し後 同族下邑登代作氏之に代わりて来往の便を謀りしが入間川水富の両町民は尚交通の安恒と利便とを期し渡津の利権を購(あがな) ひ大正九年十一月無賃渡船橋に改せり。柳本橋の堅否は地方の発達に甚大なる関係あるを以て同十一年十二月通常県会に於いて懸費架橋の議決を可決せり。乃(すなわ)ち本年三月工を起し八月成を告げ名つけて富士見橋と日(いう)。長さ八十四間幅弐間、工費に弐萬餘円を算す。
鳴呼、橋梁既に完し交通の便備わりき。今より後文化の進展に新生面を開かんことを必せり。茲に沿革を略叙し以て後昆に告ぐと云ふ。
大正十二年十一月県会議員 岡野近三撰
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【日暮らしの馬頭さん】
所在地:狭山市広頼1丁目1番付近
造立:文政13年(1830年)
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 元は旧上広瀬交差点近く(ヤオコー交差点の団子屋のところ)にありましたが、県道の拡幅で現在地へ移転しました。伝説にこんな話が伝わつています。
昔、下広瀬の街道脇に立派な馬頭醗世音の石碑が立っていました。ある日の事、石碑の前に一人の旅人が立ち止まり、「う-む、これは素晴らしい。なんとも見事な文字じゃ。実にうまい」としきりに感心し、とうとう座り込んでしまいました。通りがかった人たちも「云われてみると素晴らしい文字じや」と口々に云いながら眺めておりました。そのうちにお天道さまも西に傾き、やがて-番星が輝き始めました。それでも人々はあきずに文字を見続 けました。文字が立派でいくら見ていてもあきないことから、誰云うとなく「日暮しの馬頭さん」と云われるようになったとのことです。
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【廣瀬神社】
鎮座地:狭山市広瀬2丁目23番1号
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廣瀬神社は、延長5年(927)の延書式神名帳に記載されている神社であり、国が公認し、幣帛を奉った格式のある神社。武蔵の国には44座、入間郡には5座あるが狭山市には当社のみである。

廣瀬神社については、既に記事にしています。

その記事を読む


県指定文化財である、樹齢800年の大欅
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拝殿
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【入間馬車鉄道広瀬停車場】
廣瀬神社入り口付近
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【信立寺】
所在地:狭山市広瀬3丁目5番1号

 信立寺は日蓮宗の寺院で、本尊は一塔両尊四士四天王(いっとうりゆうそんしししてんのう)立像です。
一塔とは本堂にある宝塔のことで、両尊は釈迦如来坐像と多宝如来坐像、四士は法華経に説かれている無辺行・上行・浄行・安立行の各菩薩、四天王は持国天・広目天・毘沙門天・増長天の各立像です。
創建は天正18(1590)年ごろといわれ、開山は池上本門寺12世買主の目性(にっせい)上人、開基は当地方を領有していた加治家信です。寺宝の-つに軸装された日蓮上人真筆がありますが、これは家信が文禄年間(1592~96)に寄進したものです。家信は慶長17(1612)年に亡くなりましたが、その墓石とされる五輪塔が同寺に隣接する墓地にあります。なお、同寺の本堂は享保15(1730)年に再建されたもので、市内の寺院ではもっとも古い建物の一つです。

入り口
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山門
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本堂
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本堂内の祭壇
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本堂の左に鬼子母神堂あり。
鬼子母神は、法華経の守護神とされるため日蓮宗の寺院に祀られることが多い神で、安産や子育ての神としても信仰されています。
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お堂内部
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墓地に入っていくと、加治左馬之助家信の供養塔あり。
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加治氏(かじし)は、武蔵国高麗郡加治(現在の埼玉県飯能市)付近から秩父にかけて活動していた武蔵七党の丹党に属する豪族。

鐘楼
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 梵鐘は大東亜戦争の際、鋳つぶされてしまいましたが「此地往古ヨリ兵乱屡々アリテ幾多屍ヲ埋ムル処=テ‥・天正六年如月吉辰当国領主加治左馬之肋丹治家信公発願当寺ヲ創建シ‥・惺聖人ヲ聘シテ開山トシ惺安山信立寺卜号ス 正徳四年四月‥・佐野ノ名匠藤原家治ノ鋳セル梵鐘ハ花震月夕哺風吼霜永年近郷一円ニ妙音ヲ伝へ来レルモ昭和十九年大東亜戦争ニ際シ末曽有ノ国難ニ殉ジテ遂ニ姿ヲ失フニ至レリ‥・」と記されてあり、かっての梵鐘の再現に先代が拘ったものと思われます。家長が開基の発端となった戦乱とは北条氏政が上杉謙信に小田原城を包囲された後、謙信や武田信玄にも奪われた関東北部の失地回復に動いた時の戦乱ではないかと想像されます。

【広瀬浅間神社】
所在地:狭山市上広瀬983-2

脇から上る
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正面
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庚申堂の前で説明
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富士信仰について:
富士山は霊山として、噴火を神の怒りとして捉え、噴火を鎮めるために古く奈良・平安の時代から崇められてきました、江戸時代になると長谷川角行東覚により富士信仰の基礎が確立されました、享保年間(1716-36)に食行身録(じきぎょうみろく)と呼ばれた伊東伊兵衛の活躍により、江戸を中心とした関東一円に同信者の集団である富士講が組織されました。
富士倍抑の拠点富士塚:
富士山を模した塚を各地に築いて(初めは江戸高田)信仰の拠点としました。
ここにある広瀬浅間神社は上広瀬、下広瀬の富士講-丸ろ講の人々によって万延元年(1860)7月に隣接の愛宕神社の境内社として、安産、鎮火、養蚕業の発展を祈願して創建されました。
河岸段丘を利用して上り口に石造の鳥居があり、急斜面の道の両側には1合目から9合目までの丁石(ちよういし)をはじめ5台目の小御嶽大神、8合目の角行・食行の碑やいくつかの神社の石碑があり、頂上に「富士浅間宮」の石碑が建てられています。
ご祭神は木花咲開耶姫、彦火火見尊、大山大山祇之尊の三神です。
富士講の目的
塚の頂から富士山を望む遥拝所としての役割を担っています、地域の老人や女子にとっては、この塚に登れば富士登拝(とうはい)と同様の御利益が得られる有り難い場所でした。

山頂
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広瀬浅間神社については、既に詳しく載せた記事があります。

広瀬浅間神社の記事を読む


平成9年に(1997)狭山市指定文化財に(無形民陰対ヒ財)に指定されている、広瀬の火祭りは明治時代初期(1867)から始まりました、山梨県富士吉田市に鎮座する北口本宮富士浅間弼土の火祭り(8/26~27)を模倣したもので毎年8月21日に丸ろ講により行われます(富士山の山開きは7/1~8/未)。  

広瀬の火祭りについては、記事があります。

広瀬の火祭りの記事を読む



【清水宗徳の墓】
所在地:狭山市上広瀬の霞が丘墓地
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大変に高く(369cm)、大きい墓石で「前代議土清水宗徳の墓」と刻まれています。また、墓石の下には2本のレーノが敷かれています。
清水宗徳は狭山市が生んだ大人物で明治の先覚者であり、いまだに宗徳を超える人物は狭山市では出ていないと云われております。
清水宗徳は天保14年(1843)に当地、上広瀬の名主の長男として誕生しました。埼玉県が生んだ明治の大実業家である渋沢栄-が天保11年(1840)の生まれですので、渋沢栄-と同時代の人であり栄一の影響を受けたとも云われています。ペリーが黒船で浦賀に来航したのが嘉永6年(1853)ですので、栄「が10才の
時であり、1868年の明治維新を25才で迎えたわけです。
宗徳も最初は家督を継いで名主をしておりましたが、明治12年(1879)に第1回埼玉県県議会議員に選出され、次いで明治23年(1890)には第1回衆議院議員に埼玉2区で当選いたしました。
政治家としての宗徳は自由党に属し、地租徴収期限の改正等で活躍いたしました。
次に特筆すべき地域産業の発展、狭山市及びその周辺の近代化に尽くした実業家としての宗徳です。まず、狭山の地が桑の栽培に適しているとのことから、村有の荒れ地に桑の栽培を奨励し、養蚕の振興に寄与し、県内最初の機会製糸工場である暢業社を明治9年(1876)に創設し、その品質屈指との評判を得、経営的にも大変な好業績を残しました。また、当地域特産物である斜子織の改良に努め、斜子織の同業組合である「廣瀬組」を結成、製品の粗製乱造を防止し、廣瀬料子を全国的に広めました。そして斜子織はシカコで開催された世界博覧会で名誉賞を受けるほどになりました。
そして最大の功績は交通機関の敷設と思います。川越から所沢を経て国分寺を結ぶ鉄道である川越鉄道(現西武国分寺線)を開設し、更に、飯能、青梅方面と川越鉄道を接続させるべく道路にレールを敷いて馬車を走らせる馬車鉄道会社を設立して第2代社長として経営改善に貢献しました。墓石の下の2本のレールはその業績を讃え、馬車鉄道に使用されたレールを記念として敷いたものです。

墓石
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馬車鉄道のレール
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それから、水富公民館でトイレ休憩をしてから、明光寺に向かった。

【明光寺】
所在地:狭山市根岸2丁目5-1
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  明光寺は真言宗智山派の寺院で、本尊は木造地蔵菩薩坐像です。同寺は応和2(962)年に明光上人によ  り創設されたと伝えられています。『新編武蔵風土記稿』によると、明光は明応7(1498)年に没したとあります。中興開山は覚円(かくえん)で、天正7(1579)年に当地を領有していた加治家信(かじいえのぶ)から、南宋時代の禅僧牧黙(もつけい)が描いた楊柳(ようりゆう)観音画像の寄進を受けたと云い、寺宝となっています。また、天正19(1591)年に五石のご朱印を得ています。

明光寺の本堂に、地蔵十王図が掲げられています。十王とは冥途で死者を裁く王のことです。人は亡くなると、遺族は初七日・ニ七日(ふたなのか)・三七日(みなのか)にはじまり、百箇日・一年忌・三年忌と追善供養を行いますが、これは遺族が供養することによって、死者が極楽へ行けることを保証するという「地蔵十王思想」が、真言・天台・浄土などの諸宗派によって盛んに喧伝されたためです。
追善供養と十王は次の関係になります。
初七日→秦公王、二七日→初江王、三七日→宋帝王、四七日→五官王、五七日→閻魔王、六七日→変成王、七七日→太山王、百箇日→平等王、一年忌→都市王、三年忌→五道転輪王
この寺のものは、十王のほかに地蔵菩薩・奪衣婆・修羅の3幅を加えて、全部で13幅からなつています。

本堂に上げていただき、住職さんから地蔵十王図の前で説明をいただいた。
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地蔵十王図は、それぞれ縦93cm、横39cmのものです。
参考に13幅のうちから4幅を載せておきます。
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日光脇往還の説明は、明光寺山門前で行った。
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【日光脇往還】
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この街道の特徴は、日光山火防の任にあった八王子千人同心が警備につく際に往来した道であるという点です。このため、この街道は「千人同心日光道」や「日光御火之番様御通り之道」とも呼ばれています。

八王子千人同が日光山火防のため「日光勤番」を命ぜられたのは、慶安5(1652)年6月のことです。そして実際に日光勤番につくために八王子を出発したのは承応元(1652)年12月13日であり、以後、承応2年8月3日に第2番、9月25日に第3番が出発しています。第1番、第2番は八王子から江戸へ出て、千住から宇都宮を経由するという日光道中を用いています。第3番からは八王子から江戸へ向かわず「日光脇往還」を経ることになります。以後、幕末の慶応4(1868)年4月8日まで、217年間に約1030回の日光勤番を、日光脇往還を経て日光勤番が続くことになります。この点から日光脇往還の成立は承応2(1652)年以後といえます。

日光脇往還の経路は、八王子→拝島→箱根ヶ崎→二本木→扇町屋→根岸→高萩→坂戸→高坂→松山→行田→川俣→館林→佐野→冨田→栃木→合戦場→金崎→喩木→鹿沼→文挟-今市→日光。

八王子千人同心は、天正18(1590)年8月の徳∥家康の関東入国に伴い、武田氏や後北条氏の遺臣、その他浪人を集め、元八王子(現在の東京都八王子市)周辺に住まわせ、新領土である江戸の防衛のため、甲州口の備えと八王子を中心とする後北条氏遺臣の反逆に備えたのが、その始まりです。八王子千人同心が日光火之番を命ぜられたのは、慶安5(1652)年6月です。八王子千人同心が火之番を命ぜられた理由は定かではありませんが、本来の軍事的役割が薄れてきたためかとも思われます。

【根岸の渡し跡】
日光脇往還の交通量の増加により、入間川に渡船(わたしぶね)を設けることを幕府に出願し、文化8年(1811)に渡船場(とせんば)が開設され、その渡船場は「根岸の渡し」と呼ばれました。
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(了)


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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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