木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)/日本の神々の話

20170123

記紀に登場する神である。
『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫と表記する。
『古事記』では神阿多都比売(カムアタツヒメ)が本名、『日本書紀』では鹿葦津姫または葦津姫(カヤツヒメ)が本名で、コノハナノサクヤビメは別名としている。

『古事記』邇邇芸命の巻、「木花之佐久夜毘売」の段
(読み下し文)
 ここに天津日高日子番能邇邇芸能命、笠沙の御前に麗しき美人に遇ひたまひき。ここに「誰が女ぞ」と問ひたまへぼ、答へ白さく、「大山津見神の女、名は神阿多都比売、亦の名は木花之佐久夜毘売と謂ふ」とまをしき。また「汝の兄弟ありや」と問ひたまへぼ、「我が姉、石長比売あり」と答へ白しき。ここに、「吾汝に目合(まぐはい)せむと欲ふは奈何に」と詔りたまへぼ、「僕はえ白さじ。僕が父大山津見神ぞ白さむ」と答え白しき。かれ、その父大山津見神に乞ひに遣はしたまひし時、いたく歓喜びて、その姉石長比売を副へ、百取の机代の物を持たしめて、奉り出しき。かれここに、その姉はいと凶醜(みにくき)きによりて、見畏みて返し送り、ただその弟木花之佐久夜毘売を留めて、宿婚したまひき。
 ここに大山津見神、石長比売を返したまひしによりていたく恥ぢ、白し送りて言はく、「我が女二並べて立奉りし由は、石長比売を使はさば、天つ神の御子の命は、雪零り風吹くとも、恒に石の如く常はに堅はに堅はに動かず坐さむ。また木花之佐久夜比売を便はさば、木の花の栄ゆるが如栄えまさむと、うけひて貢進りき。かく石長比売を返さしめて、独り木花之佐久夜毘売を留めたまひし故に、天つ神の御子の御寿は、木の花のあまひのみ坐さむ」といひき。かれここをもちて、今に至るまで天皇命等の御命長からざるなり。
 かれ、後に木花之佐久夜毘売参出て白さく、「妾は妊身みて、今産む時になりぬ。この天つ神の御子は、私に産むべからず。かれ請す」とまをしき。ここに詔りたまはく、「佐久夜毘売一宿にや妊める。これ我が子には非じ。必ず国つ神の子ならむ」とのりたまひき。ここに答へ白さく、「吾が妊める子、若し国つ神の子ならば、産む時幸くあらじ。若し天つ神の御子ならば、幸くあらむ」とまをして、即ち戸無き八尋殿を作りて、その殿の内に入り、土以ちて塗り塞ぎて、産む時にあたりて、火をその殿につけて産みき。かれ、その火の盛りに焼ゆる時に生みし子の名は、火照命。こは隼人阿多君の祖なり。次に生みし子の名は、火須勢理命。次に生みし子の名は、天津日高日子穂穂手見命。

オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)の娘で、姉にイワナガヒメ(石長比売、磐長姫)がいる。ニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)の妻として、ホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)を生んだ。

日向国に降臨した天照大神の孫、いわゆる天孫ニニギノミコトと笠沙の岬(宮崎県。鹿児島県内にも伝説地)で出逢い求婚される。父のオオヤマツミ(墓は国指定陵墓・宮崎県西都市の西都原古墳群にある90号墳)はそれを喜んで、姉のイワナガヒメと共に差し出したが、ニニギは醜いイワナガヒメを送り返してコノハナノサクヤビメとだけ結婚した。オオヤマツミはこれを怒り、「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギ)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたからである。コノハナノサクヤビメだけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」と告げた。それでその子孫の天皇の寿命も神々ほどは長くないのである。
コノハナノサクヤビメは一夜で身篭るが、ニニギは国津神の子ではないかと疑った。疑いを晴らすため、誓約をして産屋に入り、「天津神であるニニギの本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中でホデリ(もしくはホアカリ)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦、山稜は宮崎市村角町の高屋神社)の三柱の子を産んだ。ホオリの孫が初代天皇の神武天皇(ヤマト・イワレヒコ)である。

火中出産の説話から火の神とされ、各地の山を統括する神である父のオオヤマツミから、火山である日本一の秀峰「富士山」を譲られ、祀られるようになり富士山に鎮座して東日本一帯を守護することになった。

ただし、浅間神社の総本山である富士山本宮浅間大社の社伝では、コノハナノサクヤビメは水の神であり、噴火を鎮めるために富士山に祀られたとしている。また、この説話から妻の守護神、安産の神、子育ての神とされており、コノハナノサクヤビメにちなんで桜の木をご神木としている。

富士山麓忍野八海の湧池はコノハナノサクヤビメにゆかりの池として、毎年行うコノハナノサクヤビメの祭りで神輿をこの池の水で洗い浄める。

さらに、ホオリらが産まれた時にオオヤマツミが狭名田(現在の鹿児島県霧島市)の茂穂をもって、今日の甘酒とされる天舐酒(アマノタムケザケ)を造ったとの説話があることから、オオヤマツミはサカトケノカミ(酒解神)、コノハナノサクヤビメはサカトケコノカミ(酒解子神)と呼ばれて、酒造の神ともされる。

富士山を神体山としている富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)、山梨県側の北口本宮冨士浅間神社、富士御室浅間神社、富士山下宮小室浅間神社などの浅間神社と、配下の日本国内約1300社の浅間神社に祀られている。

浅間神社の他、安産や子育ての神として子安神社(皇大神宮所管社、東京都八王子市など)に、酒解子神として梅宮大社(京都府右京区)に、また、伊都国の中心とされる福岡県糸島市三雲の細石(さざれいし)神社にも姉のイワナガヒメと共に祀られている。

「木花開耶姫命像」 江戸時代 富士吉田市歴史民俗博物館蔵
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佐久津彦命(さくつひこのみこと)/日本の神々の話

20170118

『先代旧事本紀』、『但馬故事記』では、瓊々杵尊の天孫降臨に先だって、饒速日命が天津国より天降っているが、そのとき随行した神である。

『但馬故事記』では、このように書かれている。
「天照国照彦櫛玉饒速日天火明命は、天照大神の勅を奉じ、外祖高皇産霊神より十種瑞宝(奥津鏡・辺津鏡・八握剣・生玉・死去玉・足玉・道反玉・蛇比礼・蜂比礼・品物比礼)を授かり、妃天道姫命と与(とも)に、坂戸天物部命・二田天物部命・嶋戸天物部命・両槻天物部命・垂樋天物部命・天磐船長命・天船山命・天楫取部命・稲年饒穂命・長饒穂命・佐久津彦命・佐々宇良毘売命・佐々宇良毘古命・佐伎津彦命等を率い、天磐船に乗り真名井原に降り、豊受姫命より五穀蚕桑の種子を穫て射狭那子獄に就き、真名井を堀り、稲の水種や麦菽黍粟の陸種を為べくこれを国の長田・狭田に植え昼夜生井・栄井の水を灌ぐ。すなわち、其の秋瑞穂の稲の可美稲野面に充ち狭し。
(以下略)

このときの饒速日尊命の巡回コースは以下のようなものであったらしい。
「田庭の比地真名井原(丹波国与謝郡)-但馬国美伊(美方郡香美町香住区三川)-小田井(豊岡市小田井)-佐々前(ささくま 豊岡市日高町佐田)-屋岡(養父市八鹿町八鹿)-比地(朝来市和田山町比治)-田庭津国(丹波)-河内国いかるが峰」

『国司文書 但馬故事記』第一巻・気多郡故事記冒頭に、最初に登場するのは、佐々原とここ佐久宮(佐久神社)である。
(口語訳)
天照国照彦天火明命(あまてるくにてるひこ あめのほあかりのみこと)は大巳貴命(おおなむちのみこと)の勅を奉じ、両槻天物部命の子・佐久津彦命をして佐々原を開かしむ。
佐久津彦命は篠生原(しのいくはら)に御津井を掘り、水を灌(そそ)ぎ、御田を作りました。後の世に、その地を名づけて、佐田稲生原(さたいないはら)と云います。いまの佐田伊原と称している気多郡佐々前(ささくま)村がこれです。
佐久津彦命は、佐久宮に住まわれました。天火明命の行幸や祭礼などのときのお供をされる神である、天磐船長命(あめのいわふねのおさのみこと)は、磐船宮に住まわれました。
天磐船長命は、天磐樟船命(あめのいわくすふねのみこと)の子です。
佐久津彦命は、鳴戸天物部命の娘、佐々宇良姫命を妻にし、佐伎津彦命・佐久田彦命を生みました。
佐伎津彦命は佐々前の県主(あがたぬし)となりました。

ここに登場する「佐久宮」だが、兵庫県豊岡市日高町佐田に鎮座する「佐久神社」が比定され、当地は和名抄にある「氣多郡樂前郷佐々乃久萬」の地と推定され、佐々乃久萬が「佐久」と変化し社名となったようだ。

よって、但馬国氣多郡樂前(ささくまI郷に住んだ、饒速日命を奉じる氏族の祖先神ということであろう。



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神大市比売(かむおおいちひめ)・大歳御祖命(おおとしみおやのみこと)/日本の神々の話

20170109

『古事記』だけに登場する神。

別名:大市比売命(おおいちひめのみこと)、大歳御祖命(おおとしみおやのみこと)
伏見稲荷大社の上社祭神「大宮能売大神」はアメノウズメと同一視されることもあるが、これを『二十二社註式』、『稲荷神社考』では大市姫命に当てている。

大宮能売大神は、狭山市廣瀬神社の末社杉森稲荷社の祭神である。
宇都宮二荒山神社境内社「市神社」の祭神が大市比売命。

大山祇神の娘ということで、木花咲耶姫神(このはなさくやひめのかみ)、磐長姫神(いわながひめのかみ)、木花知流姫神(このはなちるひめのかみ))の姉妹です。

『古事記』の須佐之男命の系図に登場する。大山祇神の子で、櫛名田比売の次に須佐之男命の妻となり、宇迦之御魂神(稲荷神)と大年神を産んだ。

『古事記』の「天照大御神と須佐之男命」の巻、「須佐之男命の神裔」の段
 かれ、その櫛名田比売を以ちて、くみどに起して生みし神の名は、八島士奴美神と謂う。また大山津見神の女、名は神大市比売を娶して生みし子は大年神。次に宇迦之御魂神。兄八島士奴美神、大山津見神の女、名は木花知流姫神を娶して生みし子は、布波能母遅久奴須奴神。この神、淤迦美神の女、名は日河比賣を娶して生みし子は、深淵之水夜礼花神。この神、天之都度閇知泥神を娶して生みし子は、淤美豆奴神。
 この神、、布奴豆奴恐神の女、名は布帝耳神を娶して生みし子は、天之冬衣神。この神、刺国大神の女、刺国若比賣を娶して生みし子は、大国主神。亦の名は大穴牟遅神と謂ひ、亦の名は葦原色許男神と謂ひ、亦の名は八千矛神と謂ひ、亦の名は字都志国玉神と謂ひ、井せて五つの名あり。

神社の祭神としては大歳御祖神(おおとしみおやのかみ)の神名で祀られることが多い。
東京都青梅の式内社・虎柏神社のご祭神である。

2柱の御子神(宇迦之御魂神(稲荷神)と大年神)はどちらも農耕に関係のある神であり、神大市姫命もまた農耕神・食料神として信仰される。
神名の「大市」は大和・伊勢・備中などにある地名に由来するものとみられるが、「神大市」を「神々しい立派な市」と解釈し、市場の守護神としても信仰される。



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三毛入野命(みけいりのみこと)・御毛沼命(みけぬのみこと)/日本の神々の話

20170103

記紀神話に登場する神。

私は神話のふるさと高千穂地方を取り上げたテレビの番組は欠かさず見ているが、それで知った神である。
高千穂神社(宮崎県西臼杵郡高千穂町)の社伝によれば、三毛入野命が神籬(ひもろぎ)を建てて祖神の日向三代とその配偶神を祀ったのに創まり、三毛入野命の子孫が長らく奉仕して、後に三毛入野命他の十社大明神を配祀、垂仁天皇の時代に初めて社殿を創建したと伝える。

『日本書紀』では「三毛入野命」や「三毛野命」・「稚三毛野命」、『古事記』では「御毛沼命(みけぬのみこと)」と表記される。
『日本書紀』・『古事記』によると、鵜葺草不合命(うがやふきあえずのみこと)と、海神の娘の玉依姫との間に生まれた子である。

『古事記』の「火遠理命」の巻、「鵜葺草不合命の生誕」の段
(現代語訳)
(前省略)
 この天津日高日子波限鵜葺草不合命(アマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアヘズノミコト)が、その叔母の玉依姫命を妻として、生んだ御子の名は、五瀬命、次に稻飯命、次に御毛沼命、次に若御毛沼命で、亦の名を神倭伊波礼毘古命(神武天皇)。
そして御毛沼命は、彼の上を踏んで常世国にお渡りになり、稻飯命は、亡き母の本 国のある海原におはいりになった。

ということで、初代神武天皇の兄神である。

『日本書紀』神武即位前紀では、兄弟とともに神武東征に従うが熊野に進んで行くときに暴風に遭い、「母も叔母も海神であるのに、どうして我々は波によって進軍を阻まれなければならないのか」と言って、波頭を踏み、常世に行ったとしている。

名前の考証として、本居宣長は『古事記伝』で、「み」は敬称で、「け」は食物を意味するとしている。

宮崎県高千穂町の伝承では、三毛入野命は常世に渡ったのではなく、兄弟たちからはぐれてしまったので、出発地の高千穂に帰還したとする。
高千穂には「鬼八(きはち)」という悪神がいて、人々を苦しめていたので、三毛入野命はこれを退治し高千穂の地を治めたと伝えている。
三毛入野命は高千穂神社の祭神であり、その妻子神とあわせて「十社大明神」と称されている。

宮崎県高千穂での伝承では「三毛入命」となっていて、その伝承を挙げておく。
高千穂の宮にいたミケイリは、兄弟たちとともに東遷のために出発した。ところが、ミケイリの船は強い風波のために押し流され、本隊と離れてしまい、高千穂に引き返した。
東遷に出発した後、高千穂地方では、鬼八(きはち)という悪者がいて、あちこち荒らし回って、人々を苦しめていた。ミケイリは高千穂の古都を荒らす鬼八を退治しようと決心した。
このことを知った鬼八は、ミケイリが引き返す道筋で邪魔を始めた。鬼八は、非常な健脚で山野を走り回ったり、悪霊を呼んで雨を降らせたりする術を使ったので、ミケイリは大変苦心した。
ミケイリが高千穂に向かって引き返す途中、川が増水して渡れなくなった。ミケイリは浅瀬を探して綱を両岸に張り、無事に渡った。この川が綱の瀬川である。さらに進んで、日之影町にある阿下(あげ)という村に着いた。ここで宿泊、その場所を御泊(おとまり)、また、その地に衣服を脱いで掛けた岩があり、この岩を「座敷のもと」と呼ぶようになった。
そこから舟の尾という村に出て、この村で食糧を入れた俵を集めて積み上げた。そこは今も俵石といっている。
鬼八は、先々で大雨を降らせて邪魔を繰り返した。ある日、ミケイリは何とかして雨を止めようと思い、天の神々に祈念した。するとたちまち雨がやみ、日が差し始めた。日之影の名前はこのとき、日の姿が見えたところということで名付けられたという。
宮水の村でも大雨に遭い、道端の大木の洞穴で休んだ。雨がやんで出発するとき、休息の記念に自然石2個を残した。村人はこの石を神石として祭った、石は今も宮水神社に祭られている。
大雨に遭ってミケイリのはかまが汚れていたので、村人が洗ってやった。この村は、袴谷(はかまだに)という村になった。この村から上手に波瀬という村がある。ミケイリはここでも休憩した。そのとき、腰掛けた石を腰掛け石という。この石を粗末にすると急に腹痛が起こった。村人はしめ縄を張って波瀬神社の境内に祭った。
ミケイリは高千穂に帰り、苦心の末、鬼八を退治した。それから高千穂地方は平和な村になった。

高千穂神社社殿の袖扉にある、鬼八退治の彫刻
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立連日男命(たちはやひをのみこと)・速経和気命(はやふわけのみこと)/日本の神々の話

20161228

この神には歴史クラブの「関八州式内社めぐり」で、常陸太田市里野宮町の「薩都(さと)神社」にて参拝しました。
ここのご祭神が立連日男命(別名が速経和気命)でした。

この神は、『常陸国風土記』にしか登場しない天津神です。
立連日男命は、松沢(現在の瑞竜町)の松の木に降臨されたが、そのあたりは人家に近く、不浄であったため、神は村人に厳しく崇り、一方里人はその厳しい崇りを畏れ、延暦7年(788)に社を建てて祀った。
朝廷は片岡の大連を派遣し、高い山の清浄なところに移るよう奏上したところ、神はその願いをお聞き入れになり、延暦19年(800)、賀毘礼(かびれ)の峰(現在の日立市入四間町)にお移りになった。
しかし、賀毘礼の峰は険しく、参拝するのが困難なため、大同元年(806)に、現在の鎮座地の近くに遷座された。永正年間(1500年ごろ)以降、里川沿岸の佐都郷給33か村の総鎮守として広く信仰され、大永2年(1522)に現在地に移された、とあります。

『常陸国風土記』の記述は:
此より北に薩都の里あり。
古、國栖(くず)あり。名を土雲といふ。
ここに、兎上命(うなかみのみこと)、兵を發して誅ひ滅しき。
時に、能く殺して、「福(さち)なるかも」と言へりき。
因りて佐都(さつ)と名づく。
北の山に有らゆる白土は、畫に塗るべし。
東の大き山を、賀毘禮の高峯と謂ふ。
即ち天つ神有す。名を立速男命と稱ふ。一名を速経和気命なり。
本、天より降りて、即ち松澤の松の樹の八俣の上に坐しき。
神の祟、甚だ厳しく、人あり、向きて大小便を行る時は、災を示し、
疾苦を到さしめければ、近く側に居む人、毎に甚く辛苦みて、
状を具べて朝に請ひましき。
片岡の大連を遣はして、敬ひ祭らしむるに、祈みてまをししく、
「今、此處に坐せば、百姓近く家して、朝夕に穢臭はし。理、坐すべからず。
宜、避り移りて、高山の浄き境に鎮まりますべし」とまをしき。
是に、神、祷告を聴きて、遂に賀毘禮の峯に登りましき。
其の社は、石を以ちて垣と為し・・・

まず、薩都の地名の由来の話だが、討伐した兎上命に関しては他の書物にはなく、時代も出自も不詳であるが、隣接した千葉県北部には古代、海上国(うなかみのくに、菟上とも書く)と呼ばれた地域があり、それと関連があるのではないかと言われている。
土雲というのは、古代日本における、天皇への恭順を表明しない土着の豪傑などに対する蔑称であるから、ちょっとやりきれない話である。

立連日男命であるが、先着天孫である男性太陽神「饒速日」とも音が近く、なにか関係があるのかもしれない。
要は、天より降りて人に祟ったということであるから、「速日」についてよく言われるように、隕石が降ってきた遠い記憶にもとづくものかも知れない。それと鉱毒が関係しているかもしれない。



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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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