彦主人王(ひこうしのおおきみ)/日本の神々の話

20171207

『日本書紀』継体天皇即位前条にある、継体天皇の父である。

滋賀県高島市安曇川町常磐木1239の、延喜式内社・三重生(みおう)神社に、振媛と共に祭神として祀られている。

系図
171207彦主人王


第15代応神天皇の四世孫で、第26代継体天皇の父である。
『上宮記』逸文[原 1]では「汙斯王(うしのおおきみ)」と表記される。
『釈日本紀』所引の『上宮記』逸文[原 1]によれば、汙斯王(彦主人王)は応神天皇(第15代)の四世孫である。父は乎非王(おひのおおきみ)で、母は牟義都国造伊自牟良君の女の久留比売命。
『上宮記』逸文と『日本書紀』によれば、妃は垂仁天皇七世孫の振媛(ふりひめ、布利比売命)で、その間の子に継体天皇(第26代)がいる。

『日本書紀』継体天皇即位前条によると、彦主人王は近江国高島郡の「三尾之別業」(現在の滋賀県高島市の安曇川以南域)におり、越前三国の坂中井(さかない:現在の福井県坂井市の旧三国町域)の振媛を娶った。
その後振媛は男大迹王(のちの継体天皇)を生んだが、その幼少のうちに彦主人王は死去。そのため振媛は高向(現在の福井県坂井市の旧丸岡町域)に帰郷して、男大迹王を養育したという。

三尾別業(みおのなりどころ、三尾之別業)は、彦主人王が拠点とした三尾にあったとされる別業。継体天皇の出生地ともされ、近江国高島郡三尾郷(現在の滋賀県高島市の安曇川以南域)と見られるが、具体的な比定地は未詳。

現在も水尾神社や「三尾里」の地名が残ることから、「三尾」とは高島市の鴨川下流域一帯を指す地名とされる。現在、同地には継体天皇出生に関する数々の伝承地が残っている。

彦主人王に関して、宮内庁による治定墓はない。ただし、滋賀県高島市安曇川町にある宮内庁の安曇陵墓参考地(あどりょうぼさんこうち、位置)では、彦主人王が被葬候補者に想定されている。

継体天皇は不思議な天皇で、ここからは岡谷公二氏の「神社の起源と古代朝鮮」から紹介しておく。

彦主人王が三尾別業に居たのは、三尾氏とのかかわりからであると考えられる。
近江の三尾氏に関しては、多くの製鉄遺跡が残っていることから製鉄の技術集団であったことがわかる。
このことから三尾氏は渡来系の氏族と考えられる。
鴨稲荷山古墳からは豪奢な副葬品が発掘されているが、その多くは朝鮮半島系である。

このことから継体天皇も、もしかしたら渡来人ではないかと指摘する人も多い。
継体天皇は謎の天皇と云われる。
記紀ともに応神天皇の五世の孫として、父の彦主人王以外中間の系譜に全く触れていない。
武烈天皇の死後、日嗣がないということで、畿内から遠く離れた越前三国から大伴金村によって迎えられ、しかし大和に入るのに20年もかかっている。
武烈でそれまでの皇統が断絶し、継体から新しい王朝が始まったと考える学者も多いようだ。


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主玉神(ぬしたまのかみ)/日本の神々の話

20171202

記紀など神話には登場しない。

茨城県桜川市の「鴨大神御子神主玉神社」の祭神。
また、配祀神は太田田根子と別雷神となっている。

鴨大神の御子神である「主玉神」ということである。

『日本三代実録』貞観3年(861年)9月23日、「主玉神」に従五位上を授けるとある。

「主玉神」が神話に登場しないので、特定しようとすると難しくなってくる。

鴨(加茂)族は、二つの系統がある。
一つは「天神系」で、八咫烏に化身して神武天皇を導いたとされる賀茂建角身命を始祖とする天神系氏族。代々賀茂神社に奉斎し、山城国葛野郡・愛宕郡を支配した。
山城の賀茂社とは、上賀茂神社と下鴨神社の総称で、その場合は加茂建角身命と賀茂別雷命の親子で考えると、賀茂別雷命=主玉神と考えられるが、それなら配祀神が別雷神ではおかしな話となる。
賀茂別雷命とは違う御子神=主玉神であろうか。

もう一つは「地祇系(三輪氏族)」で、大物主(三輪明神)の子である大田田根子の孫大鴨積を始祖とする、三輪氏族に属する地祇系氏族。大和国葛上郡鴨(現在の奈良県御所市)を本拠地とする。
ここで『日本書紀』では鴨大神の子大田田根子=主玉神と考えられるが、それなら配祀神と同じとなってしまう。
大田田根子の兄弟神とするか。
『古事記』では、大田田根子は大物主神の4代孫なので、大物主神の御子神は櫛御方となり、=主玉神とするか。
大和の鴨神社の祭神は大田田根子である。
ここから、大田田根子の御子神=主玉神とするか。

このように、絞り切れないのだ。
しかし少なくも、鴨(賀茂)族の祖先神であることは間違いない。

「天神系」と「地祇系」が一緒に祀られているのは、山城国葛野の賀茂県主(天神系)は、大和国葛城郡鴨を拠点とした地祇系賀茂氏が山城に進出したものとする説があり、根は同じと考えると、おかしくはない。



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健磐龍命(たけいわたつのみこと)/日本の神々の話

20171127

健磐龍命(たけいわたつのみこと)は、記紀には登場しないが神武天皇の孫神にあたる。
肥後国一之宮阿蘇神社(熊本県阿蘇市)の祭神。
阿蘇神社は、孝霊天皇(第7代)9年6月、健磐龍命の子で、初代阿蘇国造に任じられた速瓶玉命(阿蘇都比古命)が、両親を祀ったのに始まると伝える。

健磐龍命(たけいわたつのみこと)は、阿蘇開拓の神話の主人公。
神武天皇の子である神八井命(かむやいみみのみこと)の子として皇統に組み込まれているが、元々は阿蘇で信仰されていた阿蘇山の神とみられる。

9世紀の平安時代、健磐龍命神が従四位に叙せられると、噴火を鎮めるためか、20年足らずで正二位にまで上った。しかし正二位になった5年後の貞観6年(864年)には、阿蘇は山上の池が沸騰して天に吹き飛ぶ噴火を起こしたとされる。

阿蘇地方では、健磐龍命に関する次の伝承がある。
健磐龍命は祖父の神武天皇の命をうけて阿蘇山へ至り、外輪山の上から目の前に広がる湖を眺め、その広大さに感心して、水をなくして田畑を造ろう、と考えた。
そこで、外輪山の一部を蹴破ろうとしたが、一度目に挑戦したところはなかなか蹴破れなかった。それは、山が二重になっているからで、以後、その場所は「二重(ふたえ)の峠」と呼ばれるようになった。
別の場所で挑戦したら、今度は見事に蹴破ることに成功したが、そのはずみで健磐龍命はしりもちをついてしまい、「立てぬ」と叫び、以後、その場所は「立野」と呼ばれるようになった。
また、蹴破ったところからは、湖水が一気に西の方に流れ出て、数匹の鹿が流されてしまったことから、以後「数鹿流(すがる)が滝」と呼ばれるようになった。
湖水が引いてきたが、まだ湖水をせき止めているものがある。
命は川上を調べてみると、おどろいたことに、巨大な鯰(なまず)が、川の流れをせきとめていた。尾篭(おごもり)の鼻ぐり岩から、住生岳のふもと、下野までのあいだに横たわっていたというから阿蘇谷の半分ぐらいに及んでいたことになる。
命は、この鯰を退治しました。鯰が流れついたところを鯰村、といい村人が片づけた鯰は、六つに分けられたため、その部落は六荷-六嘉(ろっか)というようになった。
また、水の引いていったあとが、引水(ひきみす) 土くれがとび散ったところは(つくれ)津久礼 小石がたくさん流れていったので合志(こうし)、水が流れ出したところは数鹿流(すかる)であり、スキマがアルという意味だともいい、鹿が流されたという意にもとれる。



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刺田比古神(さすたひこがみ)/日本の神々の話

20171123

記紀には登場していない。『延喜式』神名帳に記載されている神。
記紀に登場する「道臣命」の父。
道臣命(みちのおみのみこと)は天忍日命(あまのおしひのみこと)の後裔であり、大伴氏の祖である。神武天皇の東征の先鋒を務め、神武天皇即位の際には宮門の警衛を務めた。

道臣命を祀る神社には伴林神社(藤井寺市)、林神社(富山県砺市林)などがあるが、刺田比古神社は全国でも一社しかみられない。
和歌山県和歌山市片岡町の、延喜式内社・刺田比古神社である。

よって、以下は刺田比古神社の説明による。

「刺田比古」について唯一伝えられている資料がある。
鎌田純一編『甲斐国一之宮 浅間神社誌』(昭和54年3月10日、浅間神社)に資料として掲載されている「古屋家家譜」である。古屋家は浅間神社の社家で、大伴氏の流れを持つという。この「古屋家家譜」は『系図纂要』や『群書類従』に見られる大伴系図とは違う伝承を持っている。
「古屋家家譜」によると道臣命の父が刺田比古命となっている。
しかも道臣命は「生紀伊国名草郡片岡之地」とあり、片岡の里に生まれたと伝えている。このことを考えると、道臣命、あるいは佐弖比古命以前の祖先神として刺田比古命を祀ったと考えるべきであろう。

「刺田比古」については、他の諸説あり、その主なものを載せておく。

①もっとも有名なものとしては、本居宣長の『古事記伝』がある。宣長は「刺田」を「刺国」の誤りだとして大国主命の父にあたる刺国彦命を祀る神社と捉えている。(『紀伊国名所図会』や『紀伊続風土記』はこの説に従っている。)
この解釈は、紀伊国に大国主命を祀る神社が多いことによる。しかしながら、神名を間違えて表記するというのは少し不自然なように思われる。また『延喜式』神名帳のどの伝本をみても異同がなく、『紀伊国神名帳』(成立年は不明)にも「刺田比古神」とあり、他の文書にも別表記がないのも奇妙に思われる。『紀伊国名所図会』でもその点を指摘している。

②『和歌山県史』(大正3年)引用の刺田比古神社史によると、「刺田比古」は「サデヒコ」と読むべきだとしている。祭神の佐弖比古命の表記違いの神名が、次第に本来の読みを失ったことによるのではないかと推測している。(『明治神社誌料』なども、この説を踏襲したものと考えられる。)
確かに佐弖比古命はさまざまな表記がなされ、「デ」の音が「ダ」の音に変化するのは自然である。しかし、「刺」の字を用いた表記は見られない。しかも『延喜式』神名帳の訓は、「サスタ」あるいは「サシタ」の異同のみで、「サデ」とするものは見られない。

従って「刺田比古」は刺国彦命や佐氏比古命とは別の神名と考えるべきのようである。


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綺日女命(かむはたひめのみこと)/日本の神々の話

20171118

記紀には登場せず、『常陸国風土記』に登場する神。

常陸国式内社長幡部神社(茨城県常陸太田市)の祭神。

『常陸国風土記』久慈郡条に「長幡部の社」に関する記事が載っている。

『常陸国風土記』の久慈の郡:
郡の西10里に静織(しどり)の里あり、上古の時、綾(しず)を織る機を知る人が無かったが、初めて織った。
郡の東7里、太田の郷に長幡部の社あり。古老がいう。珠売美万命(すめみまのみこと=ニ二ギ)が天より降る時、御服を織ろうとして、一緒に降りた神、名は綺日女命(かむはたひめ)、もと、筑紫の日向のニ所の峯より三野国引津根の丘に至った。のちに崇神天皇の世、長幡部の遠祖、多弖命が三野から久慈に移る。機殿を造り初めて織った。絁(あしきぬ)を織る時に、たやすく人に見られないように、屋の扉を閉めて闇内にして織った。これに因んで烏織(うはた)と名づけた。
織ったものはそのまま服となるので、内幡と云う。刀でも簡単に切れないもの。いま、年毎に別神の調(みつぎ)として献上した。
注記
・静織:倭文神社の倭文(しず)という織物。
・三野国引津根:美濃国神明帳に不破郡引常明神とある(関ヶ原垂井辺り)。
・多弖命:長幡部の部曲の氏族。
・烏幡:カラスではなく水鳥のこと。

※拙HPの「日本の神々記事一覧」に「引常明神」は既に記事にしています。

これによると、珠売美万命(すめみまのみこと=ニニギ)が天から降臨した際に綺日女命が従い、日向から美濃に至ったという。そして崇神天皇の御世に長幡部の遠祖・多弖命が美濃から久慈に遷り、機殿を建てて初めて織ったと伝える。

社名にある「長幡」とは絹織物の一種・絁を指す言葉で、「長幡部」とはそれを織る技術者集団を表す。文献上の長幡部氏には、皇別氏族と渡来系氏族が見られる。『新撰姓氏録』逸文の阿智王条では、長幡部の祖は帰化した「七姓漢人」のうち皀(こう)姓で、末裔に佐波多村主(さはたのすぐり)がいると記す。また『古事記』開化天皇段によれば、日子坐(開化天皇第3皇子)の子・神大根王(かむおおねのきみ)が長幡部の祖とし、美濃の本巣国造と同族であるという。

ここに登場する長幡部について、『古事記』の開化天皇の記には、「次に神大根王は、三野(美濃)国の本巣国造、長幡部連(ながはたべのむらじ)の始祖」と、いう一文があります。
神大根王は、ヤマトタケルの兄オオウスが妻にしたふたりの姫の父ですが、美濃から移って来たとある多弖命の「多弖」は「オオテ」と読むことができるので、神大根王のことではないか、とも言われている。

綺日女命(かむはたひめ)は、珠売美萬命(ニニギ)が天降ったときに同行していることや、織物の神ということ、および字面から、姉の栲幡千千姫 ( たくはたちちひめ )別名手長幡姫(たなばたひめ)の異名ともとれる。
栲幡千千姫は、愛知県一宮市の真清田神社摂社「服織神社」の祭神であり、「引常明神」と相まって、美濃と久慈との強い関係が伺える。

※拙HPの「日本の神々記事一覧」に「栲幡千千姫」は既に記事にしています。


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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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