氷室神社

20170613

鎮座地:奈良県奈良市春日野町1-4
参拝日:2017年3月24日

青春18キップの三日目。
この日帰宅するので、普通電車を乗り継いでほどほどの時間に家に着くためには、奈良を9時ころに出ないといけない。それで朝食前にホテルを抜け出して、まず東大寺南大門の狛犬の写真を撮って、その後すぐ近くのこの社に参拝した。
ここに寄ったのは、社名が面白い名前なので調べてみると、ここの樹齢100年の枝垂れ桜が奈良で一番最初に咲くとのことだったので、寄ってみた。

社号標
式内小社(論社)、旧社格は村社、神饌幣帛料供進社。
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由緒:
元明天皇の御世、和銅3年7月22日、勅命により平城新都の左京、春日の御蓋の御料山(春日山)に鎮祀され、盛んに貯水を起こし冷の応用を教えられた。これが平城七朝の氷室で、世に平城氷室とも御蓋氷室とも春日の氷室とも言われた。翌和銅4年6月1日初めて献氷の勅祭を興され、毎年4月1日より9月30日まで平城京に氷を献上せられた。奈良朝七代七十余年間は継続せられたが、平安遷都後はこの制度も廃止せられ、遂に150年を経て、清和天皇の御世、貞観2年2月1日現在の地に奉遷せられ、左右二神を増して三座とせられた。以来、現在の春日大社の別宮に属し式年に営繕費、年中の祭礼等は、興福寺、春日社の朱印高二万石の内と社頭所禄三方楽所料二千石の一部によって行われたが、明治維新後はこの制度も廃せられ、専ら氏子と冷凍氷業界の奉賛によって維持せられて今日に及んでいる。また、本殿東側には末社として、南都舞楽の楽祖なる狛光高公を祀った舞光社がある。

境内図
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鳥居は朱塗りの両部鳥居。
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参道の右手に「鏡池」が。
冬季に凍ったら、鏡になるからなのだろう。
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早朝で人が少ないので、鹿ものんびりとしている。
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紅梅が咲いていた。
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手水舎
珍しいことに、つるべ式の井戸がついている。
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祓戸社
住吉社とも呼ばれ、手水舎の向かいに祀られている。
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四脚門の前右手にある大きな木が枝垂れ桜。
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氷室神社のしだれ桜は「奈良一番桜」と呼ばれ、奈良で最も早く開花する桜であると言われています。氷室神社の桜の開花を追うように、あちこちで桜が開花していくそうで、いわば古都の春の始まりを告げる大変縁起の良い桜なのです。
境内には何本かしだれ桜がありますが、最も迫力のあるものは、「四脚門」と呼ばれる門前に建つ一本です。
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残念ながら、まだまだ。
一番早く開花するところが、まだこの状態だった。
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安政4年(1857)奉納の狛犬があることはわかっていたが、なんと「出雲型(丸台座型)」だった。
幸運に感謝。
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今回の旅のサブテーマは「出雲族の痕跡を探す」というものだったが、最後の訪問地でも直接結びつきはしないが、出雲地方との繋がりのあるものを発見したのは、とても嬉しい。

「四脚門」と東西廊は奈良県指定文化財。
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四脚門をくぐると、すぐに拝殿・舞殿がある。
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明治三年に廃止されるまで、氷室神社に置かれた旧南都楽所を中心に奈良における舞楽が受け継がれてきました。明治維新により三方楽人(奈良・大阪・京都)が国に召され、曲や舞が一本化されていったのが、現在の宮内庁楽部です。しかし、上京せず地方に残った楽人や舞があり、独自の伝承が見られるのです。南都晃耀会は奈良流を重んじる有志により戦後間もなく結成されました。このたび結成五十周年記念事業として後継者養成のため南都流舞楽伝承教室を企画し、伝承活動に励んでおります。今年も氷室神社の献氷祭、例祭、舞楽初めの他、唐招提寺、東大寺、薬師寺などの諸行事に奉仕の予定です。

本殿の前に回れるようになっている。
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瑞垣の前には石灯篭、瑞垣から灯篭が吊るされている。
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神門
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本殿には三柱の神が祀られている。
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ご祭神:
闘鶏稲置大山主命 (ツゲノイナギオオヤマヌシノミコト)
大鷦鷯命(オオササギノミコト 仁徳天皇のこと)
額田大仲彦命(ヌカタノオオナカツヒコノミコト)

闘鶏稲置大山主命は、大和国北東部を支配した闘鶏国造(つげのくにのみやつこ・つげこくぞう 都祁国造・都下国造とも)の子孫にあたり、仁徳朝の国造。氷室の氷を初めて御所に献上し、以後、氷室の管理者となった。
闘鶏国造は、八井耳命。神武天皇の皇子で、綏靖天皇の兄。弟に皇位を譲り、神祇の奉斎者となった。

大鷦鷯命(オオササギノミコト)は、第16代仁徳天皇(にんとくてんのう)。
応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去(『日本書紀』は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝える)により即位したという。この間の3年は空位である。
難波に都を定め、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。

額田大仲彦命(ヌカタノオオナカツヒコノミコト)は、記・紀にみえる応神天皇の皇子。
母は高城入姫(たかきのいりひめ)。「日本書紀」によれば,応神天皇なきあと皇位がさだまらずにいたとき,倭(やまと)の屯田(みた)と屯倉(みやけ)を掌握しようとして異母弟の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)(仁徳(にんとく)天皇)に阻止された。闘鶏(つげ)(奈良県都祁村)で氷室を発見,氷を仁徳天皇に献じたともいう。「古事記」では額田大中日子命(みこと)。

本殿の右手前に、仁徳天皇の歌碑あり。
「高き屋に のぼりて見れば 煙立つ 民の竃は にぎはひにけり」
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境内社・舞光神社
ご祭神:狛光高の御霊
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拝殿の左右に回廊が回っているが、工事中の感じである。
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四脚門から出て、社殿に向かって左に、招魂社と万葉歌碑あり。

招魂社
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万葉歌碑
「うらうらに照れる春日(はるひ)にひばりあがり情(こころ)悲しもひとりしおもへば」
(万葉集 巻19 4292 大伴家持)
万葉集巻19の最後を飾る、大伴家持の歌三首の中の一首です。
「おぼおぼ(ぼんやりと)として物憂いような春の日、ほんのりと霞んだ春の光にひばりが舞い上がっているのを見ると、何ということもなく悲しみがこみ上げてくる」と、歌によってしか表現できない人間の心のひだ、胸の内の淋しさ、ゆらぎなど、景を借りて象徴した家持最高の傑作といわれます。皇親政治と藤原氏、みにくい政争の世、衰退していく大伴氏、苦しく眺める家持の春愁の歌です。
氷室神社では和銅4年(711年)献氷の勅祭が始まり、毎年平城京に氷を献上されたと伝えます。その後途絶えていたこの制度を再興し、現在に継承されています。
由緒ある境内の見事なしだれ桜の下に、この歌碑は建立されました。
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これで、参拝を終えホテルに帰り、朝食を食べ、JR奈良駅から帰途につきました。
奈良駅を8:53に出発、加茂、伊賀上野、亀山、名古屋経由で、普通電車を乗り継いで、途中名古屋で昼食、熱海で夕食の際に45分程度休憩し、新宿に着いたのが21:00頃。
楽しい青春18キップの旅三日間だった。


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穴師坐兵主(あなしにますひょうず)神社(大兵主神社)

20170606

鎮座地:奈良県桜井市穴師1065
参拝日:2017年3月23日

青春18キップ二日目の午後、纏向駅から山の辺の道を当社まで歩いて来たのは、一つには出雲の野見宿禰を祀る相撲神社があること。
いま一つは「穴師」という地名に惹かれたからである。「穴師」というのは、主として鉄だが鉱物資源のある場所を探し当て、それを採掘する集団のことである。
当然出雲系だとみられるが、ここの祭神をみると但馬すなわち吉備族のニオイもしているようである。

JR纏向駅から歩いて5分くらいのところに一の鳥居あり。
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そこから山の辺の道を1.6Km歩いたところに当社がある。

山の辺の道沿いに、相撲神社(右側)と穴師坐兵主神社(正面)がある。
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社号標「大兵主神社」
旧県社
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式内社三社が合祀されている。
・式内社 大和國城上郡 穴師坐兵主神社 名神大 月次相嘗新嘗
・式内社 大和國城上郡 卷向坐若御魂神社 名神大 月次相嘗新嘗
・式内社 大和國城上郡 穴師大兵主神社

御由緒:
当社は3神殿にして、古典の伝えるところによると、今より、2千年前の御創建にかかり、延喜の制で名神大社に列せられ、祈年、月次、相嘗、新嘗のもろもろの官幣に預り、元禄5年には正一位の宣旨を賜った最高の社格をもつ大和一の古社である。
御神徳: 衣食住を守護し、風水を司る。」

巻向山(穴師山)山中・弓月岳にあった穴師坐兵主神社(上社)が、応仁の頃に焼失し、現在地に鎮座していた穴師大兵主神社(下社)に合祀され、同じく巻向山にあった卷向坐若御魂神社も合祀されて、現在のような祭祀形態となったらしい。

元の穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいう。旧鎮座地は「弓月岳」であるが、比定地には竜王山・穴師山・巻向山の3つの説がある。祭神の「兵主神」は現在は中殿に祀られ、鏡を神体とする。神社側では兵主神は御食津神であるとしているが、他に天鈿女命、素盞嗚尊、天富貴命、建御名方命、大己貴神の分身の伊豆戈命、大倭大国魂神とする説がある。

穴師大兵主神社については鎮座年代は不詳である。祭神の「大兵主神」は現在は左社に祀られ、剣を神体とする。大兵主神の正体については、八千戈命(大国主)、素盞嗚命、天鈿女命、天日槍命という説がある。

中世ごろから、穴師坐兵主神社が穴師上社、穴師大兵主神社が穴師下社と呼ばれるようになった。応仁の乱のときに若御魂神社と穴師上社の社殿が焼失したことから、この2社を穴師下社(大兵主神社)に合祀した。明治6年(1873年)に郷社に列し、昭和3年(1928年)に県社に昇格した。

巻向坐若御魂神社の祭神「若御魂神」は稲田姫命のことであるとされる。現在は右社に祀られ、勾玉と鈴を神体とする。元は巻向山中にあった。若御魂神については、和久産巣日神のことであるとする説もある。

鳥居をくぐり先に進む。
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しばらく山道を歩く。
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ここで、山の辺の道と分かれ、境内に入る。
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一段上がると、由緒書きがある。参道はまだ続く。
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手水舎
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少し行くと、まことに可愛い狛犬が迎える。大正?年奉納。

なんと、阿形の狛犬は舌を出している(笑)
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吽形には角があるが、それも可愛らしい。
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祓社
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社殿前に広場あり。
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社殿には、石段を上がるが、大きな石灯篭が二組あり。
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拝殿前の狛犬。
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拝殿
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向拝は唐破風
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本殿は、拝殿から更に石段で上がる。
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本殿は、三社が並ぶ。
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中央に祀られている兵主神は、穴師坐兵主神社の祭神。
社伝によると垂仁天皇二年の創祀。鏡を御神体とするらしい。
貞観元年に従五位下から従五位上に神階が昇り、延喜の制では名神大社に指定された。

兵主神については諸説あり、神社案内では御食津神。
一説には軍神として、大己貴神としたり、中国の武神・蚩尤とする。

『史記封禅書』の八神に、天主、地主、兵主、陽主、陰主、月主、日主、四時主があり、兵主は「蚩尤」であり、黄帝と戦った軍神で、兵器の創始者である。
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兵主神は但馬に多くみられる。

右に祀られている若御魂神は、社伝では三種の神器を守護された稲田姫命。
勾玉と鈴を御神体とする、芸能の神。
一説には稚産霊を祀ると考えるものもある。

左に祀られている大兵主神は、社伝では、剣(ホコ)を御神体とする武勇の神、相撲の祖神らしい。
一説には兵主神の親神として素盞嗚尊を祀るとするものあり。

また、穴師という鉄生産の地との関係から、大兵主(あるいは兵主)を天日矛とする説もある。


神紋は「橘」。
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境内社に参拝。

出雲大神
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水神社、橘神社、稲荷社
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この境内社は立派だが、不明。
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天王社
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これで参拝を終え、纏向駅の近くまで来た道を戻り、箸墓古墳に向かった。


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相撲神社

20170603

鎮座地:奈良県桜井市大字穴師
参拝日:2017年3月23日

青春18キップ二日目の午後、JR纏向駅から山の辺の道を歩いてきましたが、目的地は相撲神社と穴師坐兵主神社です。

手前に相撲神社があり、奥に穴師坐兵主神社がある。
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山の辺の道沿いに「カタヤケシ」の説明あり。
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この説明を読んで疑問に思ったのは、「カタヤケシ」というのはこの辺の地名であるみたいだが、どうしてカタカナなのか?

家に帰ってから調べてみたが、ベストアンサーは下記URLサイトにあり。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/180508.html

結局、カタカナでしか表されていない。
アイヌ語など古語の地名がそのまま残っている場合、たいていは漢字が当て字されているが、それかもしれない。

相撲神社と石標
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社号標だと思い、近寄って読むと「穴師大明神大宮司 祭神野見宿禰公」とあり。
この相撲神社は、大兵主神社(穴師坐兵主神社)の摂社だということがわかります。
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 『日本書紀』は第11代垂仁天皇7年のこととして、次のような逸話を伝えている。その頃、當麻邑に當麻蹶速(たいまのけはや)という力自慢がいて、何とかして強力な者と命がけで力比べをしたいと言っていた。そのことを聞いた天皇は、當麻蹶速に勝る者を探させた。そして見つけだしたのが出雲の国の野見宿禰である。早速二人による我が国初の天覧相撲がこの地で催された。試合の結果は野見宿禰の圧勝に終わった。當麻蹶速のあばら骨を踏み砕き、腰を踏みくじいて殺してしまった。天皇は當麻蹶速の土地を没収して、野見宿禰に与えられた。野見宿禰はそのままとどまって天皇に仕えたという。

わが国初の天覧相撲の後、皇極天皇元年(642)には、宮中において百済からの使者をもてなすために相撲が行われました。
聖武天皇の時代にも宮中の庭で相撲が取られ、さらに平安時代には相撲節会(すまいのせちえ)として定着していくようになります。相撲節会とは宮中の年中行事の一つで、毎年陰暦7月26、27、28日の3日間にわたって、諸国から召し出された相撲人が天皇の御前で相撲を取ったと言い伝えられます。


石造明神鳥居
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力士像
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土俵
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ここが、国技発祥の地だという説明。
昭和37年(1962)10月6日には、相撲発祥の伝承地である相撲神社境内のカタヤケシに於いて、当時の時津風理事長を祭主に、大鵬、柏戸の両横綱以下全幕内力士が参列して手数入り(てずいり 横綱の土俵入り)が奉納されている。
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社殿
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ご祭神:野見宿繭

 野見宿繭は日本書紀・垂仁天皇32年7月の条に、再び埴輪の考案者として登場する。
垂仁天皇の母の弟の倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなられたとき、身狭の築坂に陵を築き葬った。このとき、近習の者を集めて、全員を生きたままで陵の周りに埋めた。数日たっても死にきらず彼らの泣き声が昼夜にわたって聞こえ、死んだ後の腐乱した死体を犬や鳥が集まってきて食べた。天皇は彼らのうめき声に心を痛め、それ以後殉死を禁止した。

皇后の送葬にあたり殉死(近習の生埋め)に代わる方法を望んだ天皇に対し、野見宿禰が出雲国の土部(はじべ 土器作りの職人)百人を呼びよせて埴土(はにつち)で人や馬などを作り、陵墓に供えることを提案。天皇は喜んで宿禰の案を採用し、功賞として鍛地(かたしところ 陶器を成熟させる地)を授け、土師の職に任じたという。この時、出雲から来た土部たちが住み着いた地が今の桜井市出雲、というのが先の伝承だ。出雲集落の古墳が古くから野見宿禰塚と呼ばれてきたことも、宿禰の故地という意識があったことを物語る。

野見宿禰の墓と伝えられる五輪塔が現在、桜井市出雲にある十二柱神社の境内に建っている。その野見宿禰の塚が、明治16年(1883)まで五輪塔の西南約150mのところにあった。直径20m以上もある豪壮な塚で、その上に巨大が五輪塔が置かれていた。大昔から近在の人々や力士が常々お詣りしていたが、明治16年に突然取り壊されることになり、五輪塔はそのとき現在の場所に移されたという。

今回の旅で、桜井市出雲にある十二柱神社にも参拝したかったのだが、今回廻ろうとした地域からちょっと離れていたので、残念ながら割愛した。
いずれ、参拝したいと思っている。

社殿の近くにあった、日本相撲協会が建てた、長谷川路可氏画の「勝利の聖 野見宿禰」碑
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境内にあった万葉歌碑。
「巻向の 桧原も未だ 雲いねば 小松が末ゆ 淡雪流る」(巻10-2314 柿本人麻呂)
文芸評論家の山本健吉氏の揮毫。
「巻向の桧原の地に、まだ雲もかかっていないのに松の枝先を淡雪が流れるように降っている。」という意味になります。
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久延彦(くえびこ)神社・大直彌子(おおたたねこ)神社

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青春18キップの二日目、大神神社、狭井神社参拝のあと、出雲屋敷跡など山の辺の道を歩いて、桧原神社に参拝。
その後、いま来た山の辺の道を狭井神社直前まで戻って、久延彦神社に向かいました。

狭井神社直前に、久延彦神社に向かって折れる道があります。
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そこに入って行くと、大神神社の「笹ゆり園」でした。
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摂社率川神社の「三枝祭」は、その起源も古く、文武天皇の大宝元年(701)制定の「大宝令」には既に国家の祭祀として規定されており、大神神社で行われる鎮花祭と共に疫病を鎮めることを祈る由緒あるお祭り。
昔、御祭神姫蹈韛五十鈴姫命が三輪山の麓、狭井川のほとりにお住みになり、その附近には笹ゆりの花が美しく咲き誇っていたと伝えられ、そのご縁故により、後世にご祭神にお慶びいただくために酒罇に笹ゆりの花を飾っておまつりする様になったと言い伝えられています。

国が行うお祭りとして重んぜられた三枝祭は、平安時代には宮中からの使いが御供えの幣物や神馬を献上するなど、非常に丁重な祭祀が行われましたが、後世いつの間にか中絶していたのを明治十四年再び古式の祭儀に復興され、現在に及んでいます。
このお祭りの特色は、黒酒、白酒の神酒を「罇(そん)」「缶(ほとぎ)」と称する酒罇に盛りその酒罇の周囲を三輪山に咲き匂う百合の花で豊かに飾り、優雅な楽の音につれて神前にお供えする事です。又神饌は古式に則り美しく手が加えられ、折櫃に納めます。そして、柏の葉で編んで作ったふたをして、黒木の御棚と言う台にのせて宮司自らがお供えします。

三島由紀夫の「豊穣の海」第二巻「奔馬」で、大神神社に参拝し、「三枝祭」に参加した本多が、松枝清顕の生まれ変わり、飯沼勲と出会うシーンは、三千本という沢山の百合の花のイメージと共に、今でも鮮明に蘇ってくる。

園地が休めるようになっている。
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山の辺の道に置かれている歌碑の歌を集めてあった。
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また、ちょっと「笹ゆり園」の間を行くと、久延彦神社の後ろに到着。
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【久延彦(くえびこ)神社】
大神神社末社
鎮座地:奈良県桜井市大字三輪字若宮山
参拝日:2017年3月23日

一旦降りて、入り口から入り直した。
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大神神社末社
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入り口には、「注連柱」があり。
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参道を行くと、上がり口に一の鳥居あり。
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竹林の中を上がっていく。
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途中に二の鳥居あり。
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社殿
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社殿内部
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ご祭神は、久延毘古命

祭神の久延毘古命は、「かかし」のこと。
『古事記』によると、少名毘古那神がはじめて出現した時、誰も知らなかった少名毘古那神の名を知っていた神であり、知識の神として崇敬されている。
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「知恵ふくろう」という立派なフクロウが奉納されていた。
私も、「ふくろう=不苦労」ということで、ふくろうには目が無いので、ありがたく参拝。
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知恵の神ということで、絵馬もたくさん奉納されていた。
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久延彦神社の前が、展望台になっていた。
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残念ながら竹藪などに阻まれて、私が確認できたのは二上山と畝傍山だけだった。

二上山
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畝傍山
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久延毘古神社の石段の参道を下りて、右手の方向に進むと「大直禰子神社」があります。

【大直禰子(おおたたねこ)神社(若宮社)】
大神神社摂社
鎮座地:奈良県桜井市大字三輪字若宮
参拝日:2017年3月23日

境内入口の鳥居扁額には「若宮社」と記されている。
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奈良時代には「大神寺」、明治までは「大御輪寺」と呼ばれていた寺があった。
明治になって、御本尊の十一面観音像は聖林寺へ移され、三重塔も破壊されたが、本堂は当社本殿として残った。
もともとは、大田田根子を先祖とする一族「三輪君」のお寺であった。
一族の氏神の神社もここにあったという。
崇神天皇の時代から、三輪山の神が「大物主神」として国家の神となり、三輪一族が奉斎する役目を担った。
三輪一族というのは、ここに早くから土着した出雲族だと思われる。その一族が奉斎していたのが三輪山の神(蛇神)であり、蛇神は縄文の神である。

「若宮」という名称については、全国にある「若宮」を整理すると三つの意味があるという。
(1)幼少の皇子、皇族の子
(2)本社の分霊を奉斎したもの
(3)はげしく祟る霊

そのどれかであるか、については大神神社に参拝したときに求めた『三輪山の神々』という本の中で「大田田根子」や「若宮祭祀」について書かれているのですが、私の浅学ではまだ整理がつきません。
ただ、どこの神社でも年中祭祀の中で「春祭り」と「秋祭り」は、最も重大な祭りだと言っていいと思いますが、大神神社の春祭は、この若宮の神を本社に遷して行われるそうで、この若宮がとても重要な位置を占めているのがわかる。

「祟り」という点では、もともと「大物主神」は祟る神として祀られているが、その祟りとは、天孫族に制圧された出雲族の祟りと思えなくもない。

「大直禰子」という書き方だが、『古事記』では、意富多多泥古だし、『日本書紀』では大田田根子である。
不思議に思って調べてみた。
「大直」については、「大直日神(オオナオヒノカミ)」がヒットし、「異常でけがれた状態をただしなおす神」だそうだ。
「禰子」とは禰宜の子孫であると解釈する。
大直禰子とは、つまり「異常でけがれた状態をただしなおす禰宜の子孫」のこと。


参拝を進めます。

明治45年奉納の狛犬
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手水鉢
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社殿
本殿(国の重要文化財・鎌倉時代)は、明治の神仏分離まで、神宮寺だった大御輪寺の本堂で、方五間(28.09?)、一重入母屋造、本瓦葺。もともと仏殿であったが、堂内に早くから、三輪明神の王子(若宮)が生身入定の説話が生まれていた。
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説明
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参拝します。
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内陣は、よく見えません。
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向かって右の、鏡がかけられた真榊
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向かって左の、剣がかけられた真榊
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ご祭神は大田田根子命。
大神神社祭神の大物主命の神孫にあたり、崇神天皇の勅により、大神神社の祭祀を司った神主であり、三輪氏の始祖として崇敬されている。

社殿の右前に「御饌石」があります。
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〇大神神社末社・御誕生所社
ご祭神:鴨津見美良姫命(大田田根子(おおたたねこ)の母神)
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本殿はなく磐座である。
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〇大神神社末社・琴平社
ご祭神:大物主神
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これで、大神神社とその摂末社、計画したもの全ての参拝を終え、二の鳥居前で美味しいお昼を食べた後、一駅隣の巻向駅に移動しました。
三輪駅からの三輪山。
やはり、美しい山です。
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妙義神社

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鎮座地:群馬県富岡市妙義町妙義6
参拝日:2017年5月10日

歴史クラブの春季定例見学会で、世界遺産・富岡製糸場、城下町小幡を見学した後、当社に参拝しました。

銅鳥居
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それまで何とか天気が持っていたのだが、ここにきてとうとう雨が降り出した。
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少し上った所に社号標があり。
旧県社
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妙義神社は奇岩と怪石で名高い妙義山の主峰白雲山の東山麓にあり、老杉の生いしげる景勝の地を占めている。
創建は「宣化天皇の二年(今から千四百余年前)に鎮祭せり」と社記にあり、元は波己曽の大神と称し後に妙義と改められた。
そもそも妙義と云う所以は、後醍醐天皇に仕へ奉りし権大納言長親卿、此の地に住み給いて明明魏魏たる山の奇勝をめで、明魏と名づけしものを後世妙義と改めたと思われる。
古くより朝野の崇敬殊に篤く、開運、商売繁盛の神、火防の神、学業児童の神、縁結びの神、農耕桑蚕の神として広く世に知られ、関東、甲信越地区より参拝するものが多い。

江戸時代は歴代将軍を始め、加賀の前田公外諸大名の崇敬篤く、中古よりは上野東叡山の宮、御代々御兼帯御親祭の神社となりその御宿坊を宮様御殿叉は単に御殿とも称した。
この御殿よりの、東面の景色は素晴しく、前庭の植え込みは何れも低く地をはうようにつくられ、関東平野を一望に集め借景庭園として見事なものである。

本殿拝殿を初めとする境内の諸建造物は、今から三百余年前から二百年前の間の建造物にして、江戸時代建築の趣をもった壮麗なもので、老杉の巨木鬱蒼たる神域に、輪奐の美を連ね、高さ十メートルの旧御殿下の石垣をはじめとする各所の石垣はその技工の巧なること比い無く、諸建造物、青銅の大鳥居と共に、文化財に指定されている。
-『平成祭データ』-

境内図
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総門前の石段を上がる。
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〇総門<安永2年(1773) 重要文化財>
旧石塔寺の仁王門であった。
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ここの彫刻も華麗。
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〇石垣
総門の右手にある石垣が見事。
江戸半ばに妙義山の安山岩で築造。県重要文化財。
上に見えるのが「旧宮様御殿」
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また一段上がる。
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右手には、「旧宮様御殿」に通じる石段があるが、今日は寄りませんでした。
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左手には境内社。

稲荷社
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和歌三神社<玉津島神社(稚日女尊・息長足姫尊・衣通姫尊)、人丸神社(柿本人麿)、住吉神社(底筒男命・ 中筒男命・表筒男命・神功皇后)>
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更に、妙義神社の大杉の跡がある。
昭和四十六年に倒壊した元国指定天然記念物。
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ここから、また石段を上がる。
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〇銅鳥居<寛文8年(1668) 県重要文化財>
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鳥居の根元の装飾が面白い。
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【波己曾社(はこそしゃ)】
明暦2年(1853) 県重要文化財
建立当初から約100年は、現在の御本社エリアに鎮座していた。
昭和44年に現在地に移築し大修理、建立当初の姿に復元された。
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3月の初めに下見に来たときには、修復中で見られなかったが、今回綺麗な姿で見ることができた。
こちらも、綺麗なものだ。

拝殿
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拝殿内部
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拝殿横の装飾
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本殿
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本殿背後の外観
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波己曽社横の厳島神社。
(3月7日下見のときの写真)
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石の太鼓橋
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3月7日下見のときの写真
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御本殿に至る165段の石段。
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エッチラ、オッチラ登っていくと、巨木の根のせいで石段がめくり上がっている。
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随身門
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豊石窓神(とよいわまどのかみ)
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こちには虎の皮を敷いている。
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櫛石窓神(くしいわまどのかみ)
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こちらは豹の皮を敷いている。
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内側には、青鬼と赤鬼が頑張っている。
それぞれ、腰に虎の皮と豹の皮を巻いている。
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随身門をくぐって、ちょっと横にずれて唐門に通じる石段を上がるが、ここで後ろを振り返ると、大パノラマが広がっている。
この日はあいにくの雨なので、眺めは良くなかったが、3月7日の下見のときの写真を載せておく。
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唐門に通じる石段を上がる。
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【唐門】
宝暦6年(1756) 重要文化財。
妻を唐破風にした銅葺き平入りの門で、周囲は彫刻で埋められ、その素晴らしさは著名である。
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細部の彫刻が素晴らしい。
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袖の彫刻が、クリアパネルで覆われているので、撮るのが難しい。
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天井には見事な龍の絵があり。
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内側の彫刻も素晴らしい。
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【御本社(本殿・幣殿・拝殿)】
宝暦2年 重要文化財
権現造りで、龍や鶴、竹林七賢人など多くの素晴らしい彫刻が各所にみられる。
本殿は、拝殿と共に黒漆塗り銅葺き入母屋造りであり、拝殿は正面に千鳥破風をおき、その前に唐破風の向背屋根を張り出している。
※吉宗の贅沢禁止令によって、金箔を使用した華美な権現造りは以後造られなくなった。妙義神社はその直前に完成していたため、妙義神社が最後の作例となっている。

拝殿
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御本社拝殿北側には神餞所(宝暦六年・重文附)が附属する。
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向背屋根の唐破風。
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向拝屋根正面の彫刻
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向背柱木鼻部分の彫刻
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向背柱にも繊細な彫刻が施されている。
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社号額
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拝殿内部にも、華美な装飾が溢れている。
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幣殿正面
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拝殿天井には花鳥風月が描かれた格天井。
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外回りの、華美な彫刻を見ていく。
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金箔を貼った、華麗な海老虹梁。
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彩色された手挟みの彫刻
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右脇障子の彫刻「竹林七賢人」
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左脇障子の彫刻「竹林七賢人」
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拝殿外欄間の彫刻は、彫刻に使用された板が厚いもので、彫刻に深みがあり、見事。
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本殿
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幣殿から本殿にわたる外部の装飾が素晴らしい。
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本殿後方の天狗社。
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本殿の横に石があるが、礎石だろうか?
どうも、磐座ではないかと思われる。
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本殿屋根の横の装飾も素晴らしい。
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神餞所玄関の装飾
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御祭神は、日本武尊(倭建命)
配祀神は、菅原道眞公 権大納言長親卿、豊受大神(あるいは 丹生都姫命)

古くは波己曾明神と称し、『三代実録』の貞観元年(859)三月二十六日に、「授上野國正六位上波己曾神從五位下」とあり『上野国神階帳』に「従二位 波己曾大明神」とある古社。

妙義山の中の白雲山周辺の地は「七波己曾」と呼ばれ、山麓に波己曾神社が分布して、丹生都姫命を祀っていたらしい。本来、当社も波己曾神を主祭神としていたが、いつの頃か、別に妙義大権現が成立して、本社となり、波己曾神は境内社に遷された状態になったようだ。

ということは、当社の元の主祭神、地主神は丹生都姫命であり、『平成祭データ』などには祭神の中に名が記されているのだが、境内の由緒では、豊受大神となっている。

また、妙義山の中の金洞山には、倭建命を祀る中之嶽神社が鎮座。さらに、妙義山の中の金鶏山には、菅原道眞を祀る菅原神社が鎮座しており、当社は、これら妙義山の三山(白雲山・金洞山・金鶏山)の神々を合わせ祀った状態になっている。


北門から「女坂」を下りながら、境内社に参拝。
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北門を出た左手に、磐座があり、中に祠が祀られている。
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ここから、境内社が点在している。
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水神社
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愛宕社
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そこから少し下ったところに磐座があり、石祠が祀られているが、祭神は不明。
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そこから女坂を下って、正面石段(男坂)と合流して、参拝は終了。
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世界遺産・富岡製糸場、城下町小幡、そして妙義神社と回って来た、歴史クラブの定例見学会も無事に終了し、満足して帰途につきました。


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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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