川勾(かわわ)神社

20170617

鎮座地:神奈川県中郡二宮町山西2122
参拝日:2017年3月31日

歴史クラブの「関八州式内社めぐり」に参加して参拝しました。
相模国の式内社で、この日の最初の参拝社です。

入り口には、大きな看板で式内社と二宮であることをアピールしてあります。
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社号標
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社格:延書式神名帳では相模国余綾(ゆるぎ)郡所属の小社。
平安後期、相模国にも一宮・二宮の制度が定められ、二宮となり、二宮明神と呼ばれた。
明治6年(1873)郷社、昭和7年県社に昇格。

延喜式神名帳記載
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川勾神社は相模国余綾(ゆるぎ)郡唯一の式内社である。
『万葉集』巻十四の東歌に、「相模路の 余呂伎の浜の まなごなす 児らくかなしく 息はるるかも」とある。
奈良朝以前からヨロギの浜があり、ヨロギ郡も存在していたと推定される。
余呂伎郡を余綾部としたのは、第41代持統天皇の時代である。

川勾神社の鎮座地:現在の所在地は旧川勾村になく、隣村の旧山西村にあるのは奇異の感がある。ところが川勾村も山西村も以前には一つの区画であり、「梅沢の里」と称し、文明年間に道興准后の著した『回国雑記』に「旅ごろも 春待つこころ替らねば 聞くもなつかし 梅沢の里」の一首を残している。江戸初期の正保図にも梅沢村の記載がある。

歴 史:
『二宮川勾神社縁起書』(寛永19年-1642)によれば、11代垂仁天皇の頃の創建と伝う。さらに『新編相模国風土記稀』に、「川勾」の地名は往古にこの地で押切川が曲流していたことに由来するといわれ、川勾神社の名も地名に由来するのだという。

・延長5年(927)に『延書式神名帳』により式内社(小社)へ列格された。前九年の役(1051~62年)と後三年の役(1083~87年)の折には源義家の奉幣祈願があったとされる。

・『吾妻鏡』建久3年(1192)8月9日の項に源頼朝は北条政子の安産を「二宮川匂大明神」に祈願し神馬を奉納し、また、同じ建久年間に社殿造営と社債寄進を行ったとある。

・「座間答」の起源が相武(さがむ)と磯長(しなが)の合併による一宮争いであるとする国府祭(こうのまち)の伝承に従うなら、7世紀には相模国に一宮・二宮の制度があったこ とになる。

・建長4年(1252)に宗尊親王(鎌倉将軍)が鎌倉に下向した際に、将軍事始の儀として神馬を奉納したといわれ、『吾妻鏡』に同年4月14日の項には鶴岡八幡宮以下の大社に神馬を奉納したと記載されている。

・応永年間(1394~1427年)の兵火により社殿宝物などを焼失し、随身の木造だけが残されたという(『川勾神社誌』)。また、『新編相模国風土記稿』では、この火災で古伝縁起を失ったと述べている。

・永禄4年(1561)、上杉謙信の小田原城遠征の兵火により社殿を焼失。その後の元亀年間(1570~73)に後北条氏によって再建。当社は小田原城の丑寅の方角に当たり、鬼門守護神として後北条氏から格別の崇敬を受けたのだという(前掲『川勾神社誌』)。

・天正19年(1591)、徳川家康が豊臣秀吉の命により九州の肥前・名護屋に出陣する際、当社に祈祷札を献上し、朱印地50石を寄進した。以後、徳川家の崇敬を受け、江戸時代に入ると毎年正月に江戸城へ登城して神札を献ずるのが例となり、幕末まで続いた。

・安永9年如鮒〉暴風雨によって社殿が破損したがも天明7年(㍑$7)に宮司の二見氏が再建し、この社殿が昭和初期まで至る。

・現在の社殿は昭和7年(1932)県社昇格の内示を受けて新築着工したものであるが、第2次大戦や戦後の近代社格制度廃止などの影響により、19年後の昭和26年に完成した。

・平成23年9月21日の台風15号により、境内の夫婦杉のうち1本が倒れ、神楽殿の屋根が壊れるなどの被害が出ている。

鳥居
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鳥居の横に、伊藤博文揮毫の扁額あり。
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石段を上がる。
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茅葺の随身門
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応永年間(1394~1427年)の兵火により社殿宝物などを焼失し、随身の木造だけが残されたというが、それであろう。ほとんど顔などもわからない。
ガラスと光線の加減で、よく撮れなかった。
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くぐってから、門の屋根の茅葺を拝見。
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参道は真っ直ぐ。
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文化財の古文書と「田舟」の説明
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手水舎のところに、種々の説明文書コピーが置かれていた。

※国府祭(こおのまち)
毎年5月5日相模国一之宮寒川神社、二之宮川勾神社、三之宮比々多神社、四之宮前鳥神社、平塚八幡宮、総社六所神社、以上六社の合同祭儀で「こおのまち」と呼ばれています。
千有余年の昔相模の国司が当時の国府所在地に国内の有力神社をお招きし敬神の誠を捧げたものであると伝えられています。
五月五日に行なう為、端午祭とも言われ、又将軍の命令で行なわれたので天下祭・御用祭ともいって、国家安泰・五穀豊穣、諸産業の繁栄を祈念する相模国最大の祭典です。

三度移転したという相模国府の候補地は下記のとおり。
①綾瀬市早川綾瀬西高校付近
②平塚市平塚八幡宮付近
③大磯町六所神社付近

寒川神社は①、②期国府時代に国府に一番近く、延喜式神名帳にも明神大社となっており、一之宮とされた。
③に国府が移転したのは平安時代末で、この時期は川勾神社が一番近く、二之宮とされたのは妥当。
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国府祭(こおのまち)古図を読み解いた説明書によれば、江戸時代の早い時期にまで遡る可能性のある、神・仏・修験による神仏習合の姿があり、中世的な先祖信仰の痕跡も明らかにみてとれる、複雑な祭りであるようだ。
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手水舎
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狛犬が侍るところから、玉垣内に入る。
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拝殿
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向拝にかかる注連縄は、大根注連縄。
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拝殿内部
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拝殿内には「二宮大明神」の社額があり。
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本殿
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破風部分の彫刻を、細い隙間から撮った。
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ご祭神:
現在は、大己貴(おおなむち)命、大物忌(おおものいみ)命、級津彦(しなつひこ)命、級津姫命、衣通姫(そとおりひめ)命ほか5柱。

『新編相模国風土記稿』(天保12年一1841)は級津彦命、大物忌命、衣通姫命の3柱とする。
しかし、安永5年(1776)当社33代目宮司の二見忠良が書写した『御祭礼之式伝来写』によれば、江戸中期には八幡神を祀ったことが確認できるという。鎌倉幕府や関東管領などが信奉した鶴岡八幡宮の影響があるといわれている。また、級津彦命と級津姫命は本来は風神であるが、師長(しなが)国のシナに通じるところから加えられた。

※師長国:
『国造本紀』に第13代成務天皇のときに、茨城(うばらき)国造の祖建許呂(たけころ)命の児意富鷲意弥(おおわしのおみ)命を国造に定めたとある。師長国については諸説あって必ずしも判然としないが、『和名抄』には「上古は全く相模・師長二国たりしとも云ふべきなれど、みだりには然定難きなり。されど、北方山間険阻の地は左加牟(さがむ)と唱へ、南方磯辺の地は磯長と称し、自然区別せし事は、織るべからず」とある。

神紋は「丸に二」
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神楽殿
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東五柱祭神
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西五柱祭神
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神社前の道路工事のために撤去された石鳥居が保存されている。
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御神木の杉
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ご神木の銀杏
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奈良刀自神(ならとじのかみ)/日本の神々

20170615

この神は記紀などの神話には登場しない。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂社である「奈良神社」のご祭神である。

賀茂別雷神社の贄殿北神饌所(神前に供える神饌を調理する建物)があり、奈良神社の拝殿は贄殿北神饌所にくっつき、本殿はそれに隣接して建っている。
社名は祭神の奈良刀自神からきている。

國學院大學名誉教授・田中宣一氏の「鳥勧請および御鳥喰神事-祭祀の成立と雑神の祀りにかかわらせて」という論文が公開されているが、その中で
「たとえば、京都市の賀茂別雷神社(上賀茂) の例祭賀茂祭(いわゆる葵祭り) のとき、本殿の賀茂別雷大神への献饌に先だって、早朝に、境内摂社の一つである奈良社に神饌が供えられている。奈良社は奈良刀自神を祀るとされているが、奈良刀自神の性格はもうひと.つさだかではない。この奈良社に、権禰宜が檜製の四角い掻器と呼ばれる器に強飯二升を盛って参り、閉じられている門の外から長い柄を持って掻器を差し人れるようにして供え、そのあとすぐ撒下している。そしてこの神饌は、散飯(さば)と称されているのである。神の性格の曖昧さ、献饌法の奇妙さ、供物の呼称の異常さなどから、この奈良刀自神はどう考えても尋常ならざる神だと言わざるをえない。賀茂祭においてこういう不思議な神にまず献饌のなされていることは、祭りの構成上注目に値することといえよう。」
と述べている。

その他に見つかった記事としては、
「古代、神饌は楢の葉に乗せて配膳されていたことから、楢が奈良となり神饌を司る神として祀られたと考えられているそうです。
刀自(とじ、とうじ)とは、宮中の台所などで調理を勤めた女官であり、飲食の神ではないか。」

「奈良刀自神は「ならの小川」の女神であり(「刀自」は女主人の意)、水の力による祓えを担当していたとみられ、 往古の神饌所に隣接していたということは、神饌を清める役割を果たしていたのだろう。」

これらを総合すると、神に神饌を供えるという基本中の基本の神事を浄める、あるいは管理する、重要な神だということであろう。


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氷室神社

20170613

鎮座地:奈良県奈良市春日野町1-4
参拝日:2017年3月24日

青春18キップの三日目。
この日帰宅するので、普通電車を乗り継いでほどほどの時間に家に着くためには、奈良を9時ころに出ないといけない。それで朝食前にホテルを抜け出して、まず東大寺南大門の狛犬の写真を撮って、その後すぐ近くのこの社に参拝した。
ここに寄ったのは、社名が面白い名前なので調べてみると、ここの樹齢100年の枝垂れ桜が奈良で一番最初に咲くとのことだったので、寄ってみた。

社号標
式内小社(論社)、旧社格は村社、神饌幣帛料供進社。
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由緒:
元明天皇の御世、和銅3年7月22日、勅命により平城新都の左京、春日の御蓋の御料山(春日山)に鎮祀され、盛んに貯水を起こし冷の応用を教えられた。これが平城七朝の氷室で、世に平城氷室とも御蓋氷室とも春日の氷室とも言われた。翌和銅4年6月1日初めて献氷の勅祭を興され、毎年4月1日より9月30日まで平城京に氷を献上せられた。奈良朝七代七十余年間は継続せられたが、平安遷都後はこの制度も廃止せられ、遂に150年を経て、清和天皇の御世、貞観2年2月1日現在の地に奉遷せられ、左右二神を増して三座とせられた。以来、現在の春日大社の別宮に属し式年に営繕費、年中の祭礼等は、興福寺、春日社の朱印高二万石の内と社頭所禄三方楽所料二千石の一部によって行われたが、明治維新後はこの制度も廃せられ、専ら氏子と冷凍氷業界の奉賛によって維持せられて今日に及んでいる。また、本殿東側には末社として、南都舞楽の楽祖なる狛光高公を祀った舞光社がある。

境内図
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鳥居は朱塗りの両部鳥居。
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参道の右手に「鏡池」が。
冬季に凍ったら、鏡になるからなのだろう。
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早朝で人が少ないので、鹿ものんびりとしている。
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紅梅が咲いていた。
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手水舎
珍しいことに、つるべ式の井戸がついている。
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祓戸社
住吉社とも呼ばれ、手水舎の向かいに祀られている。
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四脚門の前右手にある大きな木が枝垂れ桜。
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氷室神社のしだれ桜は「奈良一番桜」と呼ばれ、奈良で最も早く開花する桜であると言われています。氷室神社の桜の開花を追うように、あちこちで桜が開花していくそうで、いわば古都の春の始まりを告げる大変縁起の良い桜なのです。
境内には何本かしだれ桜がありますが、最も迫力のあるものは、「四脚門」と呼ばれる門前に建つ一本です。
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残念ながら、まだまだ。
一番早く開花するところが、まだこの状態だった。
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安政4年(1857)奉納の狛犬があることはわかっていたが、なんと「出雲型(丸台座型)」だった。
幸運に感謝。
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今回の旅のサブテーマは「出雲族の痕跡を探す」というものだったが、最後の訪問地でも直接結びつきはしないが、出雲地方との繋がりのあるものを発見したのは、とても嬉しい。

「四脚門」と東西廊は奈良県指定文化財。
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四脚門をくぐると、すぐに拝殿・舞殿がある。
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明治三年に廃止されるまで、氷室神社に置かれた旧南都楽所を中心に奈良における舞楽が受け継がれてきました。明治維新により三方楽人(奈良・大阪・京都)が国に召され、曲や舞が一本化されていったのが、現在の宮内庁楽部です。しかし、上京せず地方に残った楽人や舞があり、独自の伝承が見られるのです。南都晃耀会は奈良流を重んじる有志により戦後間もなく結成されました。このたび結成五十周年記念事業として後継者養成のため南都流舞楽伝承教室を企画し、伝承活動に励んでおります。今年も氷室神社の献氷祭、例祭、舞楽初めの他、唐招提寺、東大寺、薬師寺などの諸行事に奉仕の予定です。

本殿の前に回れるようになっている。
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瑞垣の前には石灯篭、瑞垣から灯篭が吊るされている。
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神門
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本殿には三柱の神が祀られている。
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ご祭神:
闘鶏稲置大山主命 (ツゲノイナギオオヤマヌシノミコト)
大鷦鷯命(オオササギノミコト 仁徳天皇のこと)
額田大仲彦命(ヌカタノオオナカツヒコノミコト)

闘鶏稲置大山主命は、大和国北東部を支配した闘鶏国造(つげのくにのみやつこ・つげこくぞう 都祁国造・都下国造とも)の子孫にあたり、仁徳朝の国造。氷室の氷を初めて御所に献上し、以後、氷室の管理者となった。
闘鶏国造は、八井耳命。神武天皇の皇子で、綏靖天皇の兄。弟に皇位を譲り、神祇の奉斎者となった。

大鷦鷯命(オオササギノミコト)は、第16代仁徳天皇(にんとくてんのう)。
応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去(『日本書紀』は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝える)により即位したという。この間の3年は空位である。
難波に都を定め、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。

額田大仲彦命(ヌカタノオオナカツヒコノミコト)は、記・紀にみえる応神天皇の皇子。
母は高城入姫(たかきのいりひめ)。「日本書紀」によれば,応神天皇なきあと皇位がさだまらずにいたとき,倭(やまと)の屯田(みた)と屯倉(みやけ)を掌握しようとして異母弟の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)(仁徳(にんとく)天皇)に阻止された。闘鶏(つげ)(奈良県都祁村)で氷室を発見,氷を仁徳天皇に献じたともいう。「古事記」では額田大中日子命(みこと)。

本殿の右手前に、仁徳天皇の歌碑あり。
「高き屋に のぼりて見れば 煙立つ 民の竃は にぎはひにけり」
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境内社・舞光神社
ご祭神:狛光高の御霊
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拝殿の左右に回廊が回っているが、工事中の感じである。
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四脚門から出て、社殿に向かって左に、招魂社と万葉歌碑あり。

招魂社
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万葉歌碑
「うらうらに照れる春日(はるひ)にひばりあがり情(こころ)悲しもひとりしおもへば」
(万葉集 巻19 4292 大伴家持)
万葉集巻19の最後を飾る、大伴家持の歌三首の中の一首です。
「おぼおぼ(ぼんやりと)として物憂いような春の日、ほんのりと霞んだ春の光にひばりが舞い上がっているのを見ると、何ということもなく悲しみがこみ上げてくる」と、歌によってしか表現できない人間の心のひだ、胸の内の淋しさ、ゆらぎなど、景を借りて象徴した家持最高の傑作といわれます。皇親政治と藤原氏、みにくい政争の世、衰退していく大伴氏、苦しく眺める家持の春愁の歌です。
氷室神社では和銅4年(711年)献氷の勅祭が始まり、毎年平城京に氷を献上されたと伝えます。その後途絶えていたこの制度を再興し、現在に継承されています。
由緒ある境内の見事なしだれ桜の下に、この歌碑は建立されました。
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これで、参拝を終えホテルに帰り、朝食を食べ、JR奈良駅から帰途につきました。
奈良駅を8:53に出発、加茂、伊賀上野、亀山、名古屋経由で、普通電車を乗り継いで、途中名古屋で昼食、熱海で夕食の際に45分程度休憩し、新宿に着いたのが21:00頃。
楽しい青春18キップの旅三日間だった。


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東大寺南大門の狛犬

20170610

所在地:奈良県奈良市雑司町 東大寺南大門内側
撮影日:2017年3月24日

年代:建久七年(1196)
材質:石造
型式:中国獅子型(東大寺南大門型)
国指定重要文化財

この狛犬は、製作年代がはっきりしているので、「日本最古の石造狛犬」と位置付けられている。

東大寺・南大門の狛犬は、鎌倉時代の東大寺復興期に作られました。
東大寺再建の陣頭に立ったのが、中国・南宋へ3度も渡ったと伝わる「俊乗坊重源」です。
奈良の大仏の鋳造と、大仏殿の再建のために、宋の技術者「陳和卿(ちんなけい)」などを呼び寄せ、再建を進めました。
この狛犬を作ったのは、宋人石工「伊行末(いのゆきすえ)」。
南宋時代に現在の中国浙江省寧波付近で生まれ、同じ時期に宋から日本へ招かれ、南都焼討後の東大寺復興にあたりました。

東大寺には何度も訪ねているというのに、この狛犬の写真をきちんと撮っていなかったため、青春18キップの旅の三日目、朝食前にホテルを6時半くらいに抜け出し撮影してきました。

朝早いので、観光客でにぎわう東大寺も静かでした。

南大門
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向かって左側(本殿から見て左)、吽形の仁王像の裏にあたる。
東大寺南大門の仁王の阿吽は、通常と反対の位置となっている。
雌雄があり、こちらが雄となっている。
基壇もふくめた高さは321.5cm。
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全体が傾いている。
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狛犬だけの横と正面。
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正面からの顔。
顔面が破損してしまっているため、表情はよく分からない。
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横顔、たてがみが見事。
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雄なので、男性のシンボルも表現されている。
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台座の鮮やかな文様に注目。
正面は花のレリーフ。
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横には獅子のレリーフ。
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向かって右側(阿形仁王像の裏側)にある「西方像」
基壇もふくめた高さは305.5cm。
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正面から。
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狛犬だけの横からと正面。
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四角張った口、大きく広がった鼻の穴。
敵を威嚇する表情のようだが、ユーモラスでいいですね。
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雌ながら立派なたてがみを持つ。
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正面からの身体
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胸の周りのベルト(綬帯)や房飾り(瓔子)もはっきりと見えて、美しい。
前足の脇にも巻き毛の表現がある。
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尻尾は、独特な造形。
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台座正面の花のレリーフ。
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台座横の、鹿と飛天のレリーフ。
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最下部の基壇部分にはびっしりと雲の文様「祥雲文」が刻まれている。
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特徴:
・左右とも口を開き阿形、両方ともたてがみが巻き毛で獅子。
・顔は、左は破損していてよくわからないが、右は四角張った口、大きく広がった鼻の穴で、敵を威嚇する表情のようだが、ユーモラス。
・耳は立ち、鼻は大きく、口も四角張って大きい。歯並びが綺麗で牙は見当たらない。
・表情は親しみやすくユーモラス。
・前足は、前方に出して真っ直ぐ。脇に巻き毛の表現
・後足は蹲踞。
・尾は、扇形の独特な形。背中に付いている。

他にも、中国獅子のかたちで造立されたもので、いいものがあるので、私はそれらも含めてくくって「中国獅子型」とした。
日本最古の石造狛犬であり、独特のフォルムから「東大寺南大門型」としている人が多い。


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箸墓古墳

20170609

所在地:奈良県桜井市箸中
訪問日:2017年3月23日

青春18キップの二日目の午後、JR纏向駅から山の辺の道を穴師坐兵主神社(大兵主神社)まで行き、また巻向駅近くまで戻って、この日最後に訪れたのは箸墓古墳。
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この日最初に訪れた大神神社の祭神大物主神の奥さん倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓と云われるここに詣でなければいけないだろうという訳だ。

国道がJR桜井線をまたぐ陸橋から箸墓古墳が見えた。
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だんだん箸墓古墳が近くなる。
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箸墓古墳を見渡せる角まできた。
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今居るのは、後円墳の左側の角。
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実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されている。また周濠が国の史跡に指定されているほか、周濠の一部は「箸中大池」としてため池百選の1つに選定されている。

纒向遺跡の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられている3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳。この古墳を、『魏志』倭人伝が伝える倭国の女王、「卑弥呼」の墓とする(一部の邪馬台国畿内説)説もある。以前は築造年代が3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼が死亡したとされる3世紀前半との時期にずれがあるため、その可能性は少ないといわれてきた。しかし、1980年代以降の考古学的年代決定論により箸墓古墳の築造年代も卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)に近い3世紀の中頃から後半とする説もある。

現在は宮内庁により陵墓として管理されており、研究者や国民の墳丘への自由な立ち入りが禁止されている。倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹である。大市は古墳のある地名。『古事記』では、夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)命である。

最近、纒向遺跡がクローズアップされ、箸墓古墳についても良く取り上げられ、色々な記事が書かれている。

大神神社に参拝したときに購入した『三輪山の神々』という本に載っている、和田萃氏の「三輪山の神」から箸墓古墳について書かれている部分から抜粋しておく。
・倭迹迹日百襲姫の伝承を考えると、古墳がつくりはじめられた時期、三世紀後半頃にまで三輪山の祭祀が遡っていく可能性がある。大和王権の確実な初代の王と考えられる御間城入彦(崇神天皇)の叔母であった倭迹迹日百襲姫が、三輪山の大物主神の妻となったという伝承は、大和王権の王、あるいはその女(未婚の皇女)が、三輪山の神の祭祀に当たっていたということを伝える伝承だろうと思われる。
・この倭迹迹日百襲姫が亡くなったときに箸墓を造ったという有名な伝承がある。箸墓については「日は人作り、夜は神作る。故、大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに人民相踵ぎて、手逓傳(たごし)にして運ぶ」という伝承(崇神紀十年九月条)がみえる。
・三世紀末から四世紀前半代の巨大前方後円墳は、いずれも三輪山の西~西北麓にあり、渋谷向山古墳(現在、景行陵に治定)、アンドン山古墳(現在、崇神陵に治定)、箸墓古項などです。そうしたことからも、三輪山と深い関係があると考えられる。
・箸墓古墳の北側に民有地である大池が広がり、その西堤の改修工事に先立つ発掘調査が寺沢薫氏を中心に行なわれた。その結果、築造当時の土器が大量に出土し、布留○式のものであったことから、箸墓古墳の築造年代は270~280年であることが明らかになった。卑弥呼が死んだのが250年前後ですから、箸墓古墳の築造年代とは20~30年隔っています。そういう点で、箸墓古墳の被葬者は、卑弥呼の宗女であったトヨ (臺輿) の墓に結びついていく可能性がある。
・倭迹迹日百襲姫の箸墓についての伝承は、大坂山の石を運んだという点で、史実を伝えている可能性がある。大坂山というのは、必ずしも二上山に限定されるものではなくて、二上山を含んだ二上火山群というべきものである。箸墓古墳の後円部に、竪穴式石室があり、その石材が北側の大池に転落しています。橿原考古学研究所々員の奥田尚氏の分析により、石材は芝山の玄武岩だというこじがわかっています。したがって、大坂山を二上山に限定せずに、二上火山群というふうにとらえれば、芝山もそこに含まれるから、大坂山の石を手越しに運び、箸墓古墳後円部の竪穴式石室に使ったということは、かなり史実性のあることだと言える。


これから、反時計まわりに一周する。
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少し行くと、「卑弥呼の庭」という、体験工房とかカフェがあった。
絶景ポイントだと書いてあったので、惹かれそうになったが、様子を見ることにした。
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更に行くと、大池の堰堤になり、水を前にして箸墓古墳が眺められる。
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だいぶ箸墓古墳が近くなった。
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大池改修記念碑のところに、絶景ポイントの説明あり、三輪山を入れるのがポイントだと。
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そういえば、三輪山とのツーショットは撮ってないと、少し戻って、良い場所を探して撮った。
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万葉歌碑あり。
「大坂に 継ぎ登れる 石群を 手逓しに越さば 越しかてむかも」
(大坂山に人々が並んで登って、沢山の石を手渡しして、渡して行けば渡せるだろうかなあ。)
日本書記 崇神天皇
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箸墓古墳にとりつくところまで来た。
前方後円墳だということがわかる。
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堰堤から下りて、方墳の辺に沿っていく。
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方墳の辺の中央に、宮内庁の「大市墓」の表示と遥拝所あり。
大市というのは、この辺の地名。
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ここから遥拝し、周囲の確認を続ける。
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遥拝所を横から。
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方墳の辺に従って、遊歩道あり。
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道路に出た。
前方後円墳の輪郭に沿って道路があり。
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方墳から円墳に変わるところがわかる。
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古墳の上は、雑木林である。
さきたま古墳のように、上にあった樹は刈り、草も定期的に刈って、古墳の輪郭がよくわかるようになっているのに慣れた目には、なんとも馴染めない。
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宮内庁の「立ち入り禁止」の表示があちこちにあり。
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道路から、いきなり古墳だからね・・・・・・・・・

振り返ると、こちらが円墳で、方墳に変わっているのがよくわかる。
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このへんは、民家が円墳のところまできている。
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左上の山が箸墓古墳です。
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400m先には、「ホケノ山古墳」もあるのだが、割愛。
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円墳のカーブどおりに道が出来ている。
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この辺は、織田氏の統治下では墳丘上にお茶室が設けられていたという。
また、後円部南東の側面に測量図で溝が見られるのは、そのふもと近辺に江戸時代、箸中長者の経営する茶店がありその影響とも思われる。
主に伊勢参りの旅人を相手に飴・甘味が名物として売られていたという。

この辺から、道路は円墳のカーブから離れて真っ直ぐとなり、古墳から離れていく。
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スタート地点に戻ってきました。
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いままで、箸墓古墳の写真といえば、水を手前にしたベストビューの写真ばかりだったので、意外や意外、民家に隣接して古墳があるということを確認して、驚いた。
まあ、この辺は、犬も歩けば古墳にあたる、と言った状況だから、珍しくもなんともない、ということだろう。

纏向駅に戻って来て、長い一日が終わりました。
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朝、大神神社に参拝してから、山の辺の道もずいぶん歩いたし、計画した神社もすべて参拝したし、充実した一日だった。
満足して、奈良駅に戻り、昨夜と同じホテルで宿泊しました。



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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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