川越・氷川神社(境内社柿本人麻呂神社)の狛犬

20170209

所在地:埼玉県川越市宮下町 氷川神社境内社柿本人麻呂神社前
参拝日:2016年2月21日

年代:享保3年(1718)
材質:石造
型式:はじめ型

川越の氷川神社境内社・柿本人麻呂神社の狛犬です。

川越氷川神社と境内社柿本人麻呂神社については、既に記事にしています。
記事は2013年に作ったもので、柿本人麻呂神社周囲がその当時と現在では、ちょっと変わっています。

その記事を読む


柿本人麻呂神社
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阿形獅子
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吽形獅子
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吽形の足に、享保3年と刻まれている。
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特徴:
・右側が阿形、左側が吽形で、両方ともたてがみが巻き毛なので獅子。
・阿吽ともに頭に窪みがあるが、何故かは不明。
・顔は下半分がずいぶんと前に突き出され、ユーモラスな笑顔と相まって、親しみやすい。
・前足はまっすぐで、前に出しかげん。
・後足は蹲踞。
・尾はシンプルな真っ直ぐな付き尾。根元のほうにわりと多い巻き毛あり。

阿吽ともに頭に窪みがある。
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・尾はシンプルな真っ直ぐな付き尾。根元のほうにわりと多い巻き毛あり。
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玉を持っているのは、江戸狛犬型の(中期)以降だが、尾のかたちほか全体がまだ「はじめ型」である。
頭の上がお皿のようにくぼんでいるので、まるでカッパのように見え、人気を集めているようです。
特徴は獅子といえ、彫りが実にシンプルなため、和犬のような親しみやすさがある。



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白髮大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと)/日本の神々の話

20170207

二十二代清寧天皇のことである。
『古事記』では白髮大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと)、『日本書紀』では白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)と記される。

雄略天皇を父とし、母は葛城円大臣(かずらきのつぶらのおおおみ)の娘韓媛。
御名の「白髪皇子」の通り、生来白髪であったため、父帝の雄略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。

葛城 円:
紀元5世紀ごろに活躍した葛城氏の豪族。曾祖父は武内宿禰とあるので名門である。
履中天皇2年(401年)、国政に参加する。安康天皇3年(456年)、眉輪王が安康天皇を殺した時、眉輪王と同時に疑いをかけられた坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)を屋敷にかくまう。しかし、雄略天皇に屋敷を包囲され、娘の韓媛(からひめ)と葛城の屯倉(みやけ)7ヶ所を差出して許しを乞うたが、認められず焼き殺される。(『日本書紀』)

葛城韓媛:
5世紀半ば、雄略天皇の皇子時代からの妃。葛城円 大臣の娘。安康天皇の死後,皇位継承争いが発生したが、『日本書紀』雄略天皇即位前紀によると、眉輪王と雄略天皇の兄の坂合黒彦皇子が円大臣の家へ逃げ込んだ。円は雄略天皇に娘の韓媛と葛城(奈良県御所市西部)の宅7区を献上してかくまった罪の許しを求めた。結局は許されず円は殺されたが、韓媛は雄略の妃となった。『古事記』安康天皇の条によると,雄略はすでに妻問いをしており相手を知っていた。葛城氏の没落により、以後葛城氏出身の后妃はいない。

雄略天皇22年に立太子し、翌年雄略の崩御にともない即位するが、雄略天皇は死に臨んで世事全般を皇太子(清寧天皇)に託し、臣下に対しても、期待を込めた遺詔を残している。

雄略天皇の妃吉備稚媛(きびのわかひめ)には、星川と磐城という二人の皇子がいた。清寧天皇には異母兄である。吉備稚媛は以前から自分の産んだ星川皇子(ほしかわのおうじ)を皇位に就けたがっていた。そして日頃から皇子に対して、「天下を取るためにはまず大蔵を制圧しなければならない。」と言い聞かせていた。雄略天皇が崩御すると、星川皇子は母の教えに従って、長兄・磐城皇子の制止も聞かず大蔵を攻めて手中に収める。そして大蔵の中の官物を勝手気ままに使い出した。事態を憂慮した家臣の大伴室屋(おおとものむろや)大連や東漢掬直らは、遺詔に従って皇太子(清寧)を守ろうと兵を挙げ、大蔵を取り囲んで星川皇子を焼き殺 してしまう。そして皇位のしるしである鏡・剣を皇太子に奉った。

清寧天皇には子供が無かった。
次代天皇となる二王子発見の物語が、『古事記』では死後発見されることになっており、『日本書紀』では清寧天皇が探し出すことになっている。

ここでは『古事記』に基づいて書いておく。
白髪大倭根子命は伊波礼の甕栗(みかくり)の宮にて、天下を治めた。この天皇には皇后が無く、亦御子も無かったのて゛、御名代として白髪部を定めた。それで、天皇が亡くなられた後、天下を治めるべき王がおいでにならなかった。ここに、皇位を継ぐべき王を問うたところ、市辺忍歯別王の妹忍海郎女、亦の名は飯豊王が、葛城の忍海の高木の角刺の宮にいらっしゃった。
(市辺忍歯別王とは、履中天皇の第1皇子で父雄略天皇の叔父にあたり、雄略天皇に殺害された)

『古事記』では暗に、『日本書紀』でははっきりと飯豊王が皇位を継承したと記している。

さて、山部連小楯(やまのべのむらじおだて) とうい人が針間国(播磨国、兵庫県南部)の長官に任じられ、その国に住む志自牟(しじむ)という人の家の新築の宴会に訪れた時のことです。
宴もたけなわになったころ、竈の傍に火を焚く係りの子供が二人いたのですが、その子達にも舞をさせようということになりました。
どうやらこの二人は兄弟のようで、 「兄上が先に舞って下さい。」「いやいや、お前が先に舞いなさい。」と譲り合っている様子を見て、集まっていた人たちは笑い合いました。
結局、兄が初めに舞う事になり、兄が舞い終わると、次に弟は調子をつけて歌うように、こう言ったのです。
「武人(ぶじん)の我が兄上が、佩いている太刀の柄(つか)に 、赤い色を塗りつけ、その紐には赤い布を飾り、赤い旗を立てると、幾重にも重なって、見えない山の峰の竹を刈り、その竹の先を、なびかせるように、また八弦(はちげん)の琴を、奏でるようにして、天下をお治めになった、伊耶本和気天皇(いざほわけのすめらみこと:履中天皇)の、御子の、市辺之押歯王(いちのべのおしはのみこ)の、今は奴となっている、その子が私である。」
これを聞いた山部連小楯(やまのべのむらじおだて) は驚いて床から転げ落ちてしまいました。

山部連小楯(やまのべのむらじおだて) は、その家の人を追い出すと、二人の御子を左右の膝の上に乗せ、泣いて喜びました。そして仮宮を作り、その宮に御子を連れてくると、早馬の使者を走らせました。
その知らせを聞いた叔母の飯豊王(いいよどのみこ)は大変喜んで、兄弟を角刺宮(つのさしのみや)に迎えました。

こうして市辺之押歯王(いちのべのおしはのみこ)の御子である袁祁之石巣別命(おけのいわすわけのみこと)は近飛鳥宮(ちかつあすかのみや)で八年間天下を治めました。
第二十三代顕宗天皇(けんぞうてんのう)です。

ここで天皇の系図を確認すると、二十二代清寧天皇、二十三代顕宗天皇となっている。
『古事記』でも『日本書紀』でも飯豊王が皇位を継承したと記しているのだが。
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この神には、飯能市岩沢の白髭(しらが)白山神社と熊谷市妻沼の白髪(しらかみ)神社の祭神として参拝している。
この神をまつる神社が、飯能と熊谷にポツンとあるのは何故かと考えてみた。
『古事記』によれば、「この天皇には皇后がなく、また御子もなかった。そこで天皇の御名代として白髪部をお定めになった。」とある。
この「白髪部」とは、白髪部舎人(とねり),膳夫(かしわで),靫負(ゆげい)の区分があり、天皇の宮に出仕した舎人以下のトモ(伴)の資養にあてられたベ(部)であることを示す。白髪部という氏姓は,武蔵,上総,下野,美濃などの東国と山背,備中などに分布するようで、のちに「白壁皇子」が出た時代に同じ名前は恐れ多いと「真壁」に改称した氏もあるそうである。
飯能岩沢と熊谷市妻沼には、「白髪部」の部民が住んでいて、白髮大倭根子命を祀ったのではないかと思われる。



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白髪(しらかみ)神社(延喜式内論社)/埼玉県熊谷市

20170206

鎮座地:埼玉県熊谷市妻沼字女体1038
参拝日:2017年1月28日

社号標
式内論社 武蔵國播羅郡 白髪神社、旧無格社
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利根川の南岸、407号線の東の畑の中に、ポツンとある木立の中にある小さな社。
社前の鳥居の左右に石柱があり、左には「高岡稲荷神社」、右には「式内白髪神社」とある。
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まず、「白髪神社」の読みであるが、「しらひげ」と読んでいる方が多い。これは他に「白鬚(しらひげ)神社」が多いせいであろう。
ご祭神が「白髮大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと)」なので、念のため『延喜式神名帳』を確認したら、「しらかみ」とルビが振ってあった。
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「白髪神社」の故地として妻沼聖天山歓喜院が挙がっているが、それは下記のような理由である。
『妻沼町史』によると、「…社殿の伝によれば、往古は白髪神社にして、延喜式に載する所の古社也。別当実盛信仰し、治承に至り、越前国金ヶ崎城より聖天宮を当社に持来り合祀す、故に社名を聖天宮と申し奉る。後に白髪神社は別に祠を建て尊を奉ぜりという」(『武乾記』という文献の引用)として、聖天院=白髪神社説をとっている。そして、「いつの時代にか、白髪神社を尊敬していた人達が、高岡稲荷大明神(現白髪神社)の祠に併祀して、今日に伝承した」と述べている。

治承三年(一一七九)、年齢も古希になった斎藤実盛は、幼少の頃から自己を護ってくれた、守り本尊の歓喜天を何処かに奉祀しようと思い立ち、芝川がめぐり木立が鬱蒼と繁る、大我井の杜が適所と考え、ここにあった古社を修復し、あらたに社殿を造営。大聖歓喜天を奉祀、「聖天宮」と奉称し、戦場で散った多くの将兵の御霊を慰めるとともに、庄内の平和と領民の安泰と繁栄を祈願するため、長井庄の総鎮守とした。
ここで「古社」というのは「白髪神社」のことであり、白髪神社と聖天院の神仏混合でずっと祀られてきた。

そして、慶応4年(1868)9月、神仏分離の布達に際し、住僧と神職の争いが起りました。
当宮に奉仕する彌宜職の三人(田島河内・堀越大和・橋上宮内)は、密議を交して村役人に相談もせず、京都及び東京の裁判所に願い出て聖天宮を神宮の掌中に獲得しようと謀った。そのため時の住僧稲村英隆は入獄の難を受けたが、氏子一般民は寺院側に加担する者多く、神職側に不利が生じて止むなく時の判事の斡旋により、当時の聖天境内十二町九反余を二分し、七町九段余は聖天宮境域とし、残り五町余は大我井神社社地となし、「如絵図面、宿井往來可爲境事」と定めた。

よって、大我井神社をもって白髪神社の論社とする見方があり、それはうなずけるところです。
しかし、大我井神社もまた「二柱神社」としていた経過もあり、「大我井神社」という社名になったのは、なにか別の影響もあったと推定されます。
別の動きとして、高岡稲荷に白髪神社が合祀されたということもあったのでしょう。

もう一方に立つ、高岡稲荷神社の社号標。
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鳥居が赤いのは、高岡稲荷神社のものだからでしょう。
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社殿
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社殿内部
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御祭神:白髮大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと=清寧天皇)
配祀: 天鈿女命 猿田彦命 倉稻魂命、合祀: 須佐男之命

白髮大倭根子命は『古事記』に記載されている名で、『日本書紀』では白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)である。
雄略天皇を父とし、母は葛城円大臣(かずらきのつぶらのおおおみ)の娘韓媛。
御名の「白髪皇子」の通り、生来白髪であったため、父帝の雄略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。
雄略天皇23年8月、雄略天皇崩御。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が大蔵を占拠し、権勢を楯にしたため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる。翌年正月に即位。
皇子がいなかったことを気に病んでいたが、清寧天皇2年、市辺押磐皇子の子である億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報を得、勅使を立てて明石に迎えさせる。翌年2王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、弘計王を皇子とした。
5年正月に崩御した。『水鏡』に41歳、『神皇正統記』に39歳という。

狭い境内を見て回ったが、他には不明の境内社が二社あるのみだった。
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春日大社の狛犬/東京国立博物館「春日大社展」

20170203

昨日、2日に東京国立博物館平成館で開催されている「春日大社展」に行ってきました。
他にもたくさんの興味を引く展示品がありましたが、私にとっては鎌倉時代の狛犬を間近に見ることが出来て、とても嬉しかった。
この狛犬については、「春日大社式年造替」(2016年に行われた)のテレビ特集番組で取り上げられていました。
鎌倉時代から昨年まで本殿の前回廊に置かれていた狛犬が役目を終え保存されることになり、新しい狛犬が作られる様も放送されていました。

その役目を終えた、第一殿から第四殿までの四組の狛犬が展示されていました。
それを間近に見ることが出来て幸いでした。
撮影は禁止なので、別途手に入れた写真で説明をします。

年代:鎌倉時代(1185~1333年) 、第三殿の狛犬と第四殿の獅子は室町時代
材質:木製
型式:神殿型

【第一殿】
ずんぐりとして、筋肉の起伏を見せる鎌倉時代の特徴が出ている。
動きのない姿勢や巻き毛を強調しない点は平安時代の影響が残る。
阿形が獅子、吽形が狛犬。
吽形狛犬の頭にはV形の日本の角があり、これは初めて見た。
口の周りには、ヒゲを植毛した跡が残る。
尾は炎のような尾で背中に付きぎみ。

阿形
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吽形
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【第二殿】
ずんぐりとして、筋肉の起伏を見せる鎌倉時代の特徴が出ている。
阿形が獅子、吽形が狛犬。
吽形狛犬の頭にはV形の日本の角がある。
首をひねって顔を上げていて、姿勢に人懐こさが感じられる。
口の周りには、ヒゲを植毛した跡が残る。
尾は炎が後ろになびいているようなかたち。

阿形
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吽形
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【第三殿】
ずんぐりとして、筋肉の起伏を見せる鎌倉時代の特徴が出ている。
阿形が獅子、吽形が狛犬。狛犬は室町時代で、時代が異なる。
眼は透明なガラスの玉眼。
吽形狛犬の頭にはV形の日本の角がある。
吽形狛犬が中腰の、面白い姿勢をしている。
尾は、両方炎状だが、阿形は巻き毛が目立ち、吽形は筋状に流れて広がっている。
獅子と狛犬の毛の特徴を尾に出しているような感じ。

阿形
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吽形
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【第四殿】
ずんぐりとして、筋肉の起伏を見せる鎌倉時代の特徴が出ている。
阿形が獅子、吽形が狛犬。獅子は室町時代で、時代が異なる。
眼は透明なガラスの玉眼。
吽形狛犬の頭にはV形の日本の角がある。
阿形獅子が立ち上がって、走りだしそうな姿勢をしている。
尾は、両方炎状で立っていて、阿形は八つ手の葉のように広がり、吽形は炎がすぼまっているようなかたち。

阿形
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吽形
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神殿型の狛犬は、木製であり彩色されていた。
残存している色から、金や群青などで彩色されていたことが伺われるが、この狛犬たちに替わって現在本殿に置かれている狛犬は、テレビで放送されたのでわかっている。
とても鮮やかで素晴らしい配色である。

狛犬が置かれている場所
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新しく作られた狛犬
(ちょうど地震警報が出ていた)
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第一殿狛犬
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妻沼聖天山歓喜院(式内社白鬚神社故地)/埼玉県熊谷市

20170201

鎮座地:埼玉県熊谷市妻沼1627
参拝日:2017年1月28日

「武蔵国式内社めぐり」で訪れた。
「幡羅郡・四坐のうち白髪(しらかみ)神社」の論社として「大我井神社」、「白髪神社」の他に故地として妻沼聖天山歓喜院が挙がっている。
それは下記のような理由である。
『妻沼町史』によると、「…社殿の伝によれば、往古は白髪神社にして、延喜式に載する所の古社也。別当実盛信仰し、治承に至り、越前国金ヶ崎城より聖天宮を当社に持来り合祀す、故に社名を聖天宮と申し奉る。後に白髪神社は別に祠を建て尊を奉ぜりという」(『武乾記』という文献の引用)として、聖天院=白髪神社説をとっている。そして、「いつの時代にか、白髪神社を尊敬していた人達が、高岡稲荷大明神(現白髪神社)の祠に併祀して、今日に伝承した」と述べている。

それで今回訪問してみたが、社殿の前に狛犬が二組あり、本殿(歓喜院聖天堂)の裏に境内社が7社が今でも祀られているのを確認したので、私も「式内社白鬚神社故地」として挙げておくことにした。

寺号標
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寺伝では治承3年(1179年)に、長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした武将齋藤別当実盛が、守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天宮を建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされている。その後、建久8年(1197年)、良応僧都(斎藤別当実盛の次男である実長)が聖天宮の別当寺院(本坊)として歓喜院長楽寺を建立し、十一面観音を本尊としたという。

 実盛は藤原氏の流れである越前国の斎藤則盛の子に生まれ、幼名を助房といった。十三歳の時に故郷の越前で事件に遭遇し、縁戚である武蔵国長井庄の庄司・斎藤実直の養子となり、養父・実直の「実」と実父・則盛の「盛」を一字ずつとり「実盛」と名乗った。
 生まれ故郷の北陸地方は、古くから信仰心の深いところで、越前国の人々には早くから聖天信仰が普及していたため、実盛も幼少の頃から歓喜天を深く信仰し、自らの守り本尊と心に決め、平時には居間に祀っては朝夕の礼拝を欠かさず、戦場にあってもこの歓喜天を、かた時も離すことはなかったといわれている。
 治承三年(一一七九)、年齢も古希になった実盛は、幼少の頃から自己を護ってくれた、守り本尊の歓喜天を何処かに奉祀しようと思い立ち、芝川がめぐり木立が鬱蒼と繁る、大我井の杜が適所と考え、ここにあった古社を修復し、あらたに社殿を造営。大聖歓喜天を奉祀、「聖天宮」と奉称し、戦場で散った多くの将兵の御霊を慰めるとともに、庄内の平和と領民の安泰と繁栄を祈願するため、長井庄の総鎮守とした。
(さきたま文庫「妻沼聖天山」より)

中世には忍(おし)城主の庇護を受け、近世初頭には徳川家康によって再興されたが、寛文10年(1670年)の妻沼の大火で焼失した。現存する聖天堂(本殿)は、享保から宝暦年間(18世紀半ば)にかけて再建されたものである。平成15年(2003年)から平成23年(2011年)まで本殿の修復工事が行われ、平成22年1(2010年)1月18日に本体工事の竣功式を、平成23年(2011年)6月1日に竣功奉告法会を執行し、同日から一般公開が始まっている。平成24年(2012年)7月9日に聖天堂(本殿)は国宝に指定された。

背の高い石灯篭の先に貴惣門がある。
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【貴惣門】
境内正面入口に位置する高さ18mの銅板葺きの八脚門。屋根を上下二重とし、下重は前後に2つの切妻屋根を架け、側面から見ると3つの破風をもつ特異な形式の門。持国天、多聞天の像を左右に配置している。妻沼の林正道により、嘉永4年竣工、安政2年(1855年)頃の完成。

横からの、三つの破風をもつ特異な眺めがこの門の特徴。
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この門の彫刻も素晴らしい。
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持国天、多聞天は修復中という掲示が出ていたが、どうやら多聞天は修復されて納められた直後らしい。
しかし、残念なことに細かい金網が張られてしまい、よく見えない。
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貴惣門をくぐると、この日は土曜日で、フリーマーケットが開催中。
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齋藤実盛像
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2016年11月に郷里に帰った際、石川県加賀市の実盛塚(篠原古戦場)、小松市の多太神社に参拝しており、最近実盛に縁が深い。

実盛塚(篠原古戦場)の記事があります。

その記事を読む


木曽義仲が、斉藤実盛の兜、鎧の大袖等を奉納した多太神社の記事があります。

その記事を読む


【四脚門】
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仁王門の前に、慶應4年(1868)年奉納の狛犬がある。
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【仁王門】
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いきなりカミさんが鳴らしたのでビックリしたが、仁王門に大きな鰐口が下がっている。
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拝殿の前に、文政7年(1824)奉納の狛犬がある。
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【国宝聖天堂(本殿)】
拝殿・中殿(相の間)・奥殿からなる廟型式権現造(日光東照宮などに見られる、複数棟を一体とした建築形式)の建物である。大工棟梁は幕府作事方棟梁の平内政信の子孫の妻沼の名工林兵庫正清で、子の正信の代まで享保20年(1735年)から宝暦10年(1760年)にかけて完成されたものである。
当時の庶民・農民が永年にわたって浄財を出し続け、44年かかって完成した。多くの国宝建造物が権力者に寄って作られたのに対し、庶民の浄財で作られたのは稀有である。

奥殿は入母屋造、桁行3間・梁間3間、正面向拝付き、中殿は両下造(りょうさげづくり)、桁行3間・梁間1間、拝殿は入母屋造、桁行5間・梁間3間で、これらを接続して1棟とし、屋根はすべて瓦棒銅板葺きとする。奥殿は内外ともに彫刻、漆塗、彩色、金具等をもって華麗に装飾する装飾性の高い建築である。奥殿向拝南面羽目板の「鷲と猿」の彫刻は伝説的な彫刻職人の左甚五郎作とする伝承がある。実際の彫刻棟梁は石原吟八郎(吟八)と関口文治郎である。奥殿は柱、長押などの部材に地紋彫をほどこし、内法下の大羽目板には七福神、縁下には唐子遊びを題材とした彩色彫刻をほどこす。唐破風下には中国の故事にちなんだ「三聖吸酸」、「司馬温公の瓶割り」などの彫刻があり、拝殿正面唐破風下の彫刻は「琴棋書画」である。

2003年から2010年にかけての屋根葺き替えと彩色修理を中心とする修理が実施され、当初の彩色がよみがえった。2012年、国宝に指定。

拝殿
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向拝部分も、彩色彫刻が素晴らしい。
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拝殿正面唐破風下の彫刻は「琴棋書画」
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虎の左右の蟇股彫刻が、鬼が噛みついている様になっていて面白い。
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肘木の透かし彫刻が、鯉から龍に出世するまでを表わしている。
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そして中央の龍に
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海老虹梁(えびこうりょう)と手挟み(たばさみ)の彫刻も素晴らしい。
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いよいよ奥殿を見る。
拝観料を取られるが、そのかわりボランティアガイドの説明があり、その説明がとても良かった。
そして、カメラの撮影がOKというのも、嬉しい限りだった。

奥殿は満艦飾の彩色彫刻である。
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三手先の、白い象の奥の部分が塗られていないのは、わざと未完成のかたちにしているのだ。
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花頭窓
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大羽目の彫刻は七福神、腰羽目の彫刻は唐子遊びを主題としていて、南面から北面に向かって、春から冬への変化が植物で表現されている。

南面唐破風下の彫刻「三聖吸酸」
これは、孔子、釈迦、老子が酢をなめて、その酸っぱさを共感している様子を表現したものであり、「三聖吸酸さんせいきゅうさん」という中国の故事に由来しています。つまり、酢が酸っぱいという事実は皆同じであり、儒教、仏教、道教など、宗教や思想が異なっているとしても、真理は一つであるという「三教一致さんきょういっち」を意味しています。
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北面唐破風下の彫刻「司馬温公の瓶割り」
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滝に落ちかけた猿を鷲が救っている図。
猿は煩悩にまつわれた人間に、鷲は歓喜天に、それぞれたとえられている。
左甚五郎の作と伝えられている。
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「吉祥天と辨天さまのすごろく」
かっては、七福神に吉祥天も入っていたそうです。
どちらが残るか、すごろくで勝負しているのでしょうか。
毘沙門天はすっかりすごろくの勝負に夢中になり、おかげていつも踏みつけられている天邪鬼が解放されてのびのびとしている。
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「小間取り遊び七人」植物は「梅」
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「竹馬遊び」植物は「桜」「蘇鉄」
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「獅子舞」
あっかんべーをしている。
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どこを見ても素晴らしい彫刻ばかり。
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私が今回飛びついたのは、桁を支えている猿。
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ガイドさんが、拝殿前に移動して教えてくれたのは、手挟み(たばさみ)にも猿が居ると(笑)
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聖天堂(本殿)の拝観が終わってから、本殿の奥に境内社があったので、それに参拝しました。
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境内社・三宝荒神社
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境内社・五社神社
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不明
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境内社・天満宮
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妻沼聖天山本殿の彫刻は、素晴らしいものでした。
これを守っている努力も素晴らしい。
ボランティアのガイドさんが説明してくださったおかげで、認識を新たにしたことが沢山あったので、有難かった。
今回の目的である、かって神社も存在していたという証も得られたので、よかった。



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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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